79話「見ている人」
その夜、【Rose】では凛がバイトに入っていた。
エプロン姿でグラスを下げ、注文を取り、美園の隣で淡々と動いている。
慣れてきた手つきだった。
そこに陽菜と中井が来る。
『あ、凛ちゃんバイトだ。お疲れ』
「お疲れ様です」
二人がカウンターに座ると、美園が面白そうに中井を見る。
『彼氏くん、今日は顔色いいね』
中井が身を固くする。
「え、あ、はい……」
陽菜が横から続ける。
『今日も途中まで残業してたもんね。偉い偉い』
そう言って、陽菜は中井の頭を軽くよしよしした。
中井の顔が真っ赤になる。
「陽菜さん、人前では……」
『いいじゃん。事実だもん』
美園が笑い、凛も困ったように微笑む。
ひとしきり、中井は二人にからかわれた。
その後、ドアが開いた。
中井の先輩が二人、入ってくる。
一人はひどく酔っている、三十五歳の男——藤崎亮。
もう一人は、冷静で身だしなみの整った二十七歳——青柳慧。
中井が慌てて立ち上がる。
「あ、先輩方……!」
藤崎はすでにろれつが怪しく、「中井ー、ここいい店じゃん」と声を大きくする。
青柳は静かに頭を下げ、美園に「お邪魔します」とだけ言った。
中井が陽菜を紹介する。
「こちらの方が、彼女の櫻井さんです」
青柳は穏やかにうなずいた。
「知ってるよ。社内でも話題になってる。
櫻井さんは美人で、狙ってる男性も多かった。
中井、やったな」
中井がさらに赤くなり、陽菜は「話題になってたの?」と目を丸くする。
美園は「へえ」と面白そうに聞いている。
藤崎はその後も騒いでいたが、青柳が「今日はここまでだ」と短く告げ、タクシーを呼んだ。
酔った藤崎を乗せて送り出すと、店内が少し静まる。
青柳は再びカウンターに戻り、凛が接客に立つ。
「お飲み物、どうされますか」
「お酒はもういいです。水と、何か軽いもので」
凛が水を出すと、青柳はそれを受け取り、少しだけ彼女を見た。
「遠藤さん、ですよね」
「はい」
「朝、フロアの窓を拭いているの、見たことがある。
給湯室のカップも、いつの間にか揃っている。誰も言わないけど、遠藤さんがやってるんだろうと思っていた」
凛の手が、止まる。
「……気になっていただけです。大したことじゃ」
「大したことだよ。誰も見ていないと思っていることを、ちゃんとやっている。
ああいう人が、職場を守ってる」
凛は謙遜するように首を振ったが、耳まで赤くなっていた。
「ありがとうございます。見ていただけて、嬉しいです」
青柳は短く微笑み、水を口に含んだ。
陽菜が中井に小声で言う。
『……いい先輩、じゃん』
「はい。青柳先輩は、本当にきちんとしてるので」
美園も、カウンター越しにそのやり取りを見ていた。
騒がしい客と、静かな客。
どちらも店には必要で、今夜は後者の方が、凛の夜を少しだけ特別にしていた。




