72話「交換と痕跡」
その夜、神谷は佐藤を連れて【Rose】に来た。
佐藤はドアの前で足を止め、何度も深呼吸をしている。
「先輩、やっぱり今日じゃなくても……」
「当たって砕けろ、だろ。お前が言ったんだぞ」
神谷に背中を押され、佐藤はカウンターの前に立つ。
美園が顔を上げる。
『いらっしゃい。二人連れ?』
「あ、はい……佐藤です。以前、お世話になりました」
『知ってるよ。旅行も一緒にしたのに』
佐藤は震える手で、自分のスマホを取り出した。
「あの、もしよろしければ……連絡先を、交換していただけませんか」
短い沈黙。
美園は少しだけ目を細め、やがて軽く笑った。
『いいよ。もちろんプライベート用でしょ?』
「は、はい。私用です」
『わかってる。ほら』
美園はあっさりと番号を教え、佐藤は大慌てで登録した。
「あ、ありがとうございます……! 大切にします……!」
『普通に使ってね。変な時間に送らないでよ』
「はい……!」
佐藤が席に着くと、神谷が美園に向かって小さく報告する。
「……日高先輩とも、連絡先、交換しました」
美園が面白そうに眉を上げる。
『へえ。実行したんだ』
「はい。当たって砕けろ、で」
『いいじゃない。樹里も、意外と素直に出すときあるから』
神谷は照れたように俯き、佐藤はまだスマホの画面を見つめたまま動けずにいた。
店内に、小さな前進の気配が残る。
翌日の給湯室。
凛が一人でコーヒーを淹れていると、誰もいないと思って小さく呟いた。
「Rose girls……」
後ろで、カップを取ろうとしていた中井の手が止まる。
「……え?」
凛が慌てて振り返る。
「あ、中井くん。今の、気にしないでください」
「Rose girlsって……何ですか」
凛は少しだけ迷い、カップを両手で持ったまま答えた。
「私も詳しくは知らないんです。
美園さんの背中に、薔薇のタトゥーと一緒に入ってた文字で。
前に少し見えて……気になってただけです」
中井の顔から、血の気が引く。
月明かりの下で見た、陽菜の背中。
同じ文字。
(……やっぱり、見たやつだ)
凛が首を傾げる。
「中井くんも、知ってるんですか?」
「い、いえ……その、たまたま……」
中井はうまく言葉を継げず、視線を泳がせた。
給湯室に、短い沈黙が落ちる。
二人とも、同じ単語を口にした。
なのに、その先の意味は、まだ誰にもわからない。
ただ、中井の胸の奥で、あの夜の月明かりが、よりはっきりと蘇っていた。




