71話「月明かりと連絡先」
中井は、あの夜のことを何度も思い返していた。
京都の部屋。電気を消したあとの暗がり。
月明かりだけが、薄いカーテン越しに差し込んでいた。
陽菜の体温も、声も、触れた感触も、まだ残っている。
思い出すたびに、胸の奥が熱くなる。
(……あの夜は、本当だった)
幸せを、何度も確認する。
中井にとっては、それが初めての「彼女との夜」だった。
だが、同じ記憶の中に、どうしても引っかかるものがある。
陽菜の背中に、確かに見えた。
薔薇のタトゥー。
その下に、小さく並んでいた英字。
Rose girls
当時は緊張と初めての感覚で、深く考えられなかった。
でも今は、その文字だけが、妙に現実味を帯びて残っている。
(……Rose girlsって、何だ?)
社内で陽菜を見ても、普通の先輩で、普通の彼女だ。
なのに、あの背中の模様だけが、答えのないまま残っている。
中井はスマホで調べかけては、やめた。
聞くに聞けない。
聞く空気でもない。
ただ、気になっている。
はっきりと、気になっている。
その日の終業後。
神谷は、樹里のデスクの前で止まっていた。
何度も深呼吸をして、ようやく口を開く。
「に、日高先輩……! その、いち、いち……」
樹里が顔を上げる。
『どうしました』
「い、連絡先、というか……で、電話番号を……その、もしよろしければ……交換、というか……」
噛みまくりだった。
言葉がほとんど繋がっていない。
樹里は静かに待っていた。
神谷は最後の力を振り絞るように言った。
「連絡先を、交換していただきたいです……!」
短い沈黙。
樹里は淡々と答えた。
『いいですよ』
神谷の頭の中が、白くなる。
「えっ……? い、いいんですか?」
『はい。業務連絡にも使えますし』
樹里は本当に事務的な顔で、自分の番号を紙に書いて渡した。
神谷は震える手でそれを受け取り、何度も頭を下げた。
「あ、ありがとうございます……! 大切にします……!」
『普通に使ってください』
神谷は逃げるようにその場を去り、廊下で壁に手をついた。
(……あっさり、すぎないか?)
成功したはずなのに、なぜかもっと混乱していた。
遠くから、その一部始終を見ていた陽菜が、小さく笑った。
『総長があっさり連絡先渡すなんてな……。
昔の総長なら、神谷さん、蹴飛ばされてただろうな』
陽菜は腕を組んだまま、面白そうに続ける。
『なんだ、総長もまんざらじゃないじゃん』
樹里が振り返り、低い声で言った。
『聞いてたのか』
『聞こえた』
『余計なこと言うな』
『事実だもん』
樹里は何も返さず、自分の席に戻った。
陽菜は一人、肩をすくめた。
(……まあ、悪い気はしないか)




