60話「曖昧」
早川柚希には、気になる人がいた。
営業部の別チームにいる、田村という男性社員だ。
明るくて、話していて楽しくて、柚希が笑うと「可愛いな」と言ってくれる。
最初はただの社内の知り合いだった。
飲みに誘われ、会話が弾み、連絡先を交換した。
「柚希ちゃんのこと、好きだよ」
田村にそう言われた夜、柚希は本気で嬉しかった。
だが、関係はいつまでも曖昧なままだった。
デートは夜が多く、食事のあとはだいたいホテルだった。
朝になると、田村は「今日も仕事頑張ろう」と明るく送り出し、昼には普通の同僚として接してくる。
柚希が「私たち、どういう関係なの?」と聞くと、田村は笑って答える。
「好きだって言ってるだろ? それ以上、どうしたらいいんだよ」
言葉は優しい。
でも、公開の場で二人きりになることはほとんどなく、社内では必要以上に距離を取られた。
柚希は「自分の考えすぎ」だと思おうとした。
好きだと言ってくれる人がいる。
触れ合える時間がある。
それだけで、いいはずだった。
ある夜、田村に「今日は早いから、ホテル行こう」と誘われた。
柚希は少しだけ迷ったあと、うなずいた。
ホテルの部屋で、田村はいつものように優しく振る舞う。
終わったあと、彼はスマホを見ながら言った。
「また連絡するわ。柚希ちゃん、可愛いから好きだよ」
その言葉は、もう何度も聞いていた。
柚希は天井を見ながら、小さく息を吐いた。
(……好き、なんだよね?)
答えは、誰からも返ってこなかった。
翌日の社内。
柚希はいつもどおり明るく振る舞っていた。
だが、陽菜だけは、その笑顔の奥の疲れに気づいていた。
(……なんか、無理してる)
陽菜はまだ何も聞かなかった。
ただ、柚希の様子を、静かに気にかけ始めていた。




