4話「4年」
グラスの氷が小さく鳴る音だけが、カウンターに落ちていた。
陽菜はまだ、美園の顔を時々盗み見ていた。
黒いドレスに、落ち着いた仕草。
あの頃の鋭さは、ほとんど残っていない。
美園が自分のグラスを回しながら、ぽつりと口を開いた。
『私、一度結婚したんだ』
陽菜が思わず顔を上げる。
『え……』
『すぐに別れたけどね。向こうが普通の生活を望んでた。私は、完全には変われなかった』
淡々とした口調だった。
樹里は何も言わず、ただ聞いていた。
陽菜は少し間を置いてから、看板のことを口にした。
『店の名前、Roseにしたんだ』
美園は軽く肩をすくめた。
『チーム名からもらったんだ。残しておきたくなってね。
他の客に聞かれた時は、『薔薇のように美しいママだからだ』とか適当に答えてるんだけどね』
それを聞いた瞬間、陽菜が吹き出し、樹里も小さく鼻を鳴らして笑った。
『は? 薔薇のように美しいママ?』
『よく言えたな、それ』
『うるさい。適当なんだってば』
三人で小さく笑う。
陽菜はグラスを両手で包みながら、ぼそっと口を開いた。
『……あの頃、あたし、すぐ暴れてたよね』
美園がくすっと笑う。
『すぐだったよ。何かあるたびに一番最初に飛び出てた』
『で、美園さんが止めてくれてた』
『止めてたつーか、止めなきゃ周囲に被害が出るだろ』
樹里が短く息を吐く。
『お前が暴れた後の収拾、全部美園がやってたからな』
『でもさ』
陽菜は少し目を細めた。
『最終的にキレたら、一番怖かったの美園さんなんだよね。
静かになるじゃん。あれが一番ヤバい』
美園は軽く笑い、否定しなかった。
『まあね』
『で、総長が出てきたらもう終わり。完全に終わり。全部が一瞬で片づいちゃう』
陽菜がそう言うと、樹里が横目で見てきた。
『何を得意気に話してる』
『事実だよ、事実』
三人でまた小さく笑う。
4年前の泥臭い日々は、もう戻ってこない。
でも、こうして同じカウンターに座って、笑っていられる事実が、妙に落ち着いた。
翌日。
営業部。
陽菜は自分のデスクで、昨日のことを思い出しながら小さく息を吐いた。
樹里が席を立つタイミングを見計らって、小声で言った。
『昨日は楽しかった。美園さんにも総長にも、こうして再会できて、嬉しい』
樹里は書類を持ったまま、短く返す。
『……そうか』
それ以上は何も言わなかったが、否定もしなかった。
そのとき、黒澤部長が部署に入ってきて、樹里の席に寄ってきた。
「日高さん、昨日ちょっと飲みに行ってな。俺も昔は結構やった方で、夜の公園で立ち話してたら補導されかけたことがあってよ」
樹里は丁寧に相槌を打つ。
『そう、ですか』
陽菜も慌てて真顔を作る。
『へ、へえ……』
部長は満足したようにうなずくと、自分の席へ戻っていった。
樹里と陽菜は顔を見合わせ、何も言わずに書類に視線を戻した。
(……武勇伝、しょぼ)
陽菜は心の中でだけ、そう呟いた。




