3話「Rose」
陽菜が入社して、二週間が経った。
最初の戸惑いは少しずつ薄れ、仕事にも慣れ始めていた。
それでも、隣にいる「日高先輩」が元総長だという事実は、未だにリアルじゃなかった。
終業後。
樹里は荷物をまとめながら、陽菜にだけ聞こえる声で言った。
『陽菜。ちょっとこの後、付き合え』
『どこに行くの?』
『面白いやつに合わせてやる』
陽菜は不思議そうな顔をしたが、拒む理由もなかったのでそのままついていく。
会社の裏通りを一本入ったところに、小さなスナックがあった。
看板には【Rose】とだけ書かれている。
陽菜が看板を見て、ほんの一瞬足を止めた。
『……Rose』
小さく呟いて、すぐに首を傾げる。
(……偶然、か)
樹里がドアを開けると、中から低い照明と、薄い煙草の匂いが流れてきた。
カウンターの奥で、黒いドレスを着た女性がグラスを拭いていた。
落ち着いた雰囲気で、髪も綺麗にまとめられている。
一見しただけでは、誰だか判別がつかなかった。
その女性が顔を上げ、樹里を見て軽く目を細める。
『珍しいね。こんな時間に』
そして、後ろにいる陽菜に気づくと、穏やかに笑った。
『陽菜、久しぶりだね』
その声を聞いた瞬間、陽菜の体が固まった。
『……え』
声が少し上ずる。
樹里と違って、Rose girlsの頃の荒々しさは、もうどこにも残っていない。
声のトーンも、佇まいも、柔らかく丸くなっていた。
だから、最初は誰だかわからなかった。
でも、よく見れば——。
あのとき、誰よりも落ち着いていて、誰よりも頼りになって、
あたしが密かに憧れていた美園さんだった。
『美園さん……? 美園さん、だよね?』
『聞いてたよ。総長から』
美園は二人分のグラスを出しながら、静かに続ける。
『会社で会ったんだって?』
陽菜はまだうまく切り替えられていない顔で、カウンターの椅子に座る。
『う、うん……びっくりした。まさかここにいるなんて』
『総長も最初は同じ顔してたよ』
樹里は隣に座り、短く息を吐いた。
『私だって、まさかこのバカが会社に来るとは思ってもなかったさ』
美園は炭酸を注ぎながら、樹里の方を見る。
『でも、まあ無事そうでよかった』
『……ああ』
三人分のグラスがカウンターに並ぶ。
美園が自分の分も手に取り、静かに言った。
『ここでは好きにしていい。ただ、外では気をつけて。変な空気を出さないようにね』
樹里がうなずき、陽菜も『わかってる』と短く答える。
陽菜はグラスを両手で持ったまま、二人の横顔を交互に見ていた。
(……あの時の二人が、目の前にいる)
外から見れば、ただのスナックの客と店主が話しているだけにしか見えなかった。




