30話「事情」
夜。
スナック【Rose】に、客はほとんどいなかった。
樹里はカウンターに座り、黙ってグラスを傾けている。
美園は向かい側で、静かに水を飲んでいた。
しばらくして、樹里が口を開いた。
『陽菜が、まどかと会ったらしい』
美園は驚いた様子を見せなかった。
『知ってる』
樹里が顔を上げる。
『……お前、どこまで知ってる』
美園はグラスを置き、真っ直ぐに樹里を見た。
『だいたいのことは、知ってるよ。
総長が消えた理由も、誰に噛まれたのかも』
沈黙が落ちる。
樹里は目を細めた。
『……いつから』
『最初から。ほぼ』
美園は肩をすくめた。
『聞いてなかったふりをしてただけ。
総長が話したくないなら、無理に聞くつもりはなかったから』
樹里は短く息を吐いた。
『余計なことを』
『余計かどうかは、わからないけどね』
美園は少し間を置いてから、静かに聞いた。
『陽菜に、話してあげないの?』
樹里の指が、グラスの上で止まった。
『……話さない』
『どうして』
『あいつに話したら、一人で相手のところに乗り込みそうだろ。
危険な目には、遭わせたくない』
美園は否定しなかった。
『それもそうね。陽菜なら、やりかねない』
『だから、今は話さない。
自分が処理するまで、あいつには関係ないことだ』
樹里の声は、低くて、揺れていなかった。
美園はしばらく樹里の横顔を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
『……わかった。今は、その方針でいいよ』
『ああ』
二人の間に、また沈黙が落ちる。
そのとき、ドアが開いた。
サラリーマン風の男が数人、連続で入ってくる。
カウンターが、急に埋まり始めた。
美園が軽く眉を上げる。
『……今日、忙しいかも』
樹里はグラスを置き、席を立った。
『邪魔したな』
『また来な』
樹里が出ていくのと入れ替わりに、さらに数人の客が入ってくる。
美園は小さく息を吐き、笑顔を作った。
『いらっしゃい。何名様?』
店内が、一気に賑やかになっていく。
樹里は外に出てから、一度だけ振り返った。
【Rose】の看板が、夜の空気の中で小さく光っている。
(……忙しくなってきたな)
そう思いながらも、樹里は足を止めなかった。




