29話「給油」
樹里が零のガソリンスタンドにバイクを取りに来たのは、仕事終わりの平日だった。
大きくて黒いバイクが、すでに整備を終えて端に止まっている。
零はそれを見て、慌てたように駆け寄ってきた。
『あ、総長……お待たせしたっす』
『問題なかったか』
『はい。オイル交換とチェーン調整、終わってますっす』
樹里は短くうなずき、バイクの状態を一通り確認する。
零は隣で、まだ少し縮こまったまま立っていた。
『……あの』
『何だ』
零が視線を泳がせながら、切り出した。
『この前、陽菜さんと二人で街にいたとき……鈴原まどかに会ったっす』
樹里の手が、止まった。
『……まどかに』
『はい。向こうから気づいて、声をかけてきたっす。
陽菜さんのこと、すぐわかったみたいで』
樹里はゆっくりと顔を上げた。
目が、冷たくなっている。
『何を話した』
『詳しくは……でも、総長が消えた理由について、少しだけ触れてたっす。
「相当面倒なやつに噛まれたらしい」みたいなことを』
沈黙が落ちる。
零は樹里の顔色を窺いながら、小さく続けた。
『陽菜さんは、その後すぐに美園さんのところに行ったみたいっす。
俺は、それ以上は聞いてないっす』
樹里はしばらく何も言わなかった。
ただ、キーを手に持ったまま、遠くを見ている。
『……そうか』
短く、吐き出すように言った。
『お前は、余計なことは話すな。これから先もだ』
『は、はいっす』
樹里はそれ以上何も聞かず、バイクに跨った。
エンジンの音が、静かなスタンドに響く。
零はヘッドライトの光を浴びながら、小さく息を吐いた。
(……怒ってる。やっぱり、怒ってる)
樹里は振り返らずに、そのまま夜の道へ走り出した。




