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第一話② 言われたから、決まるんだよ

 本人は昼過ぎに来た。


 玄関の引き戸が勢いよく開いた。がらがら、という音の量が普段の三倍だった。飴色の簾の子のときと、あらゆる音量が逆だった。


 「ごめんくださーい! ……わ、ひろ! いい家!」


 声が先に廊下まで届いて、住人たちが集まったときには、三和土(たたき)の真ん中に女の子が立っていた。ショートヘア。背は高め。ボストンバッグを一つ肩に掛けている。首に無造作に巻いたマフラーの端が、勢い余って肩の後ろに飛んでいた。年の頃は律と同じくらいに見えた。


 「ボクは止故望(とめゆえのぞみ)。十七歳。今日からここに住みます」


 名乗りは三秒で終わった。廊下に並んだ七人を、望はぐるっと見渡して、にっと笑う。


 「大所帯! 聞いてたより多い。よし、順番に覚える」


 「はいはーい! その前に!」


 ななせが一歩前に出た。この家の一番古い儀式だ。


 「ようこそセオリア荘へ〜!」


 「ん。よろしく!」


 よろしく、と本人が言い終わるより早く、結が横から飛び出した。


 「のんちゃん!」


 「あだ名、早いなあ」


 「のぞみだから、のんちゃん! あたし結! むーちゃんでいい! この子はうーちゃん! ね、いま、ぶわーってした! あたしの中で、新しい家族フォルダが、どーんって!」


 「フォルダの音、どーんなんだ」


 望は笑いながら、結と現の頭を順番にぽんぽんと叩いた。初対面の距離の詰め方が、この家の平均値と完全に一致している。律は早くも嫌な予感がした。この家の平均値は、世間の平均から著しく外れている。


 皆同一(かいどういつ)が、おっとりと首を傾げた。


 「望ちゃんは、思い切りがいいように見えて、本当は慎重なタイプでしょう」


 「わかる!? 初対面で!?」


 わかるのだ、一には。誰にでも当てはまることしか言っていないのだが、それを言う相手と間の選び方が名人芸だから、言われた側は必ずこうなる。望、記念すべき通算何人目かの「わかる!?」だった。


---


 立ち話も何なので、居間に移った。ストーブの前の特等席に望を座らせ、一が急須で人数分の熱い麦茶を淹れる。湯呑みが行き渡ったところで、律は挙手した。訊かねばならないことは山ほどあったが、まずは一番手前のやつからだ。


 「なあ、一個訊いていいかな。なんでセオリア荘にしたん? 家賃?」


 「親に『あの物件だけはやめなさい』って言われた」


 望は即答した。


 「それだけで決めた。即決」


 居間の空気が数秒固まった。この家の入居理由は、律の知る限りどれも相当に雑だ。気づいたらいた、とか、なんとなくしっくりきた、とか。だが、ここまで真っ直ぐに雑なのは初めて見た。しかも本人の顔は、我ながらいい決断だった、と言い切っている。


 「や……やめなさいって言われて、なんで決まるん」


 「言われたから、決まるんだよ」


 当然のように言って、望は湯呑みの麦茶をぐいっと飲んだ。それから、天井を——正確には、二階の方角を見上げた。


 「荷物、届いてるよね。二階の突き当たり」


 「あ、うん。届いてる、けど——」


 けど、の続きより早く、結が耐えかねたように叫んだ。


 「のんちゃんの部屋、貼り紙がある! 『あけないでください』って! あたしたち、この一週間それで、もう、ぐわんぐわんで!」


 「ああ、あれ」


 望はあっさりと頷いた。


 「ボクが書いた」


 「「「えええええ!?」」」


 三人分の悲鳴が重なった。結と現と、一番大きいのはたぶんななせだった。


 「書いて、引っ越し屋さんに荷物と一緒に渡して、戸に貼ってって頼んだ。ちゃんと貼ってくれたんだ。えらいな、あの業者」


 「そういえば、あの日のお昼、トラックが来てたのよねえ」と一がのんびり思い出す。謎の答え合わせがまた一つ進んだ。進んでいないのは動機だけだ。


 「な、なんで貼ったの!?」


 ななせの質問に、それまで機関銃のようだった望の口が、初めて、すとんと止まった。


 「…………別に」


 二秒。


 「別に、いい」


 理由を言わない、という顔ではなかった。理由の置き場所が最初から無い、みたいな顔だった。次の瞬間には望はもう笑っていて、「それより、家の中を案内してよ」と話を先へ進めてしまった。


 律だけがその二秒を拾ってしまった。拾ってしまう性分なのだ、昔から。


 ついでに、もう一つ拾った。あれだけ勢いのある子の貼り紙が、行儀のいい丁寧な字だったこと。急いで書いた字ではない。あれは、時間をかけて書いた字だ。


 なお、貼り紙そのものについては、案内が終わって居間に戻ってきた望が一言、


 「ああ、開けてもよかったのに。荷物しかないし」


 と言った瞬間、全員の肩からすとんと力が抜けた。


 「……あれ? 開けたくなくなった」


 結がきょとんとした。現も、千も、こくこくと頷いた。言われてみれば律もだ。人の部屋を勝手に開けるわけがない、という当たり前の感覚が、一週間ぶりに帰ってきていた。


 「……禁止が消えると、消えるのね」


 好が、恐ろしい速さでルーズリーフに何かを書きつけながら、恐ろしく穏やかな声で言った。律は見てしまった。書き殴られたページの端で、大きく丸で囲まれた一行を。


 「開幕から実演済み——全員、一週間分」


 つまりこの子の何かは、本人が来るより一週間も先に、紙一枚でこの家を煮込んでいたことになる。


 嫌な予感が、一つ増えた。


---


 三十分後。


 お茶のおかわりを淹れようと、一がストーブの上のやかんを持ち上げた。注ぎ口から、細く湯気が立っている。望が「運ぶよ」と気軽に手を伸ばしたのは、たぶん、新入りなりの手伝いのつもりだった。


 「あ、望ちゃん、さわっちゃだめよ。熱いから」


 それは、この家で一日に十回は交わされる、何でもない注意だった。


 望の右手が変わった。


 取っ手に伸びていたはずの手が、冗談みたいに真っ直ぐ、湯気を吹く銀色の胴体そのものへ向かう。本人の顔から笑いが消えて、「あー」という声だけが、妙にのんきに漏れた。


 考えるより先に律の身体が動いていた。斜め前から望の手首を掴む。触れて、鎮める。この家で十ヶ月磨いてきた、律の一番速い技だ。


 逆だった。


 掴んだ瞬間、輪郭しか見えないはずの望の波が膨れ上がるのがわかった。引いていた波が、律の手の形をそのまま呑み込んで、倍の高さで返ってくる。望の腕が律の握力ごとやかんへ進む。強い。止まらない。これは——止まらない。


 「離して」


 短く言われて、律は反射的に手を放した。


 望の腕がぴたりと止まった。銀色の胴体まであと五センチ。一が慌ててやかんをテーブルの遠くへ避難させる。望はゆっくりと手を引っ込めて、二回、三回、指を握って開いた。


 「……ん。止まった」


 居間の全員が固まっている中で、望だけが平常運転だった。振り返って律を見る。


 「ありがと。離してくれて」


 「な……」


 「ボク、掴まれると加速するから。押さえられたら、押さえられた分だけ行っちゃうから。知ってるんだ、自分で」


 だから、と望は続けた。何でもないことのように。


 「危ないときは止めないで。……あ」


 言ってから、望は自分の口を片手でぱっと塞いだ。


 「いまの忘れて。ボクが『止めないで』って言うと、みんな止めたくなっちゃうから。ややこしいんだよね、これ」


 ね? と笑う望の向こうで、避難したやかんがまだ細く湯気を立てていた。


---


 その夜、布団に入ってから、律は天井を見ながら今日一日を並べ直した。


 触れたら悪化した。


 この家に来て十ヶ月、初めてのことだった。律の抑制は、暴走した吊り橋にも、燃え広がる伝染にも、水面に出ない凪にも、やり方さえ見つければ届いてきた。触れることがいつも入り口だった。


 その入り口が、あの子には逆向きについている。


 「(……レベルもへったくれもないやん、それ)」


 目を閉じると、瞼の裏に行儀のいい丁寧な字が浮かんだ。


 あけないでください。


 書いた本人は今夜、あの貼り紙の内側で眠っている。剥がさないまま。


 八つの部屋に、八人。セオリア荘は今日、満室になった。


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