第一話① 剥がして開けたら、負けな気がする
一週間、鳴らなかった合図が、その朝になって鳴った。
十二月二週目の土曜日。縁側の雨戸を開けた瞬間、それは唐突に鼻の奥に立った。醤油と砂糖が鍋の底で出会ったときのような、香ばしくて、しかしどこにも発生源のない香り。風間律は雨戸に手をかけたまま、冬の朝の空気を二回、確かめるように吸った。
間違いない。焦げだ。
「(……四度目や)」
本物の未知が近づくとき、律の鼻の奥は、律より先にそれを知る。この家で三回。三回とも、その日のうちに答え合わせが来た。
そして今回に限っては、答えの座る席がもう用意されている。
二階の廊下の突き当たり。最後の空き部屋の戸に、貼り紙が一枚貼ってある。
『あけないでください』
白い紙に、手書きの丁寧な字。誰が、いつ、何のために。説明は一行もない。
現れたのは先週の土曜日。以来、セオリア荘は七日かけて、ゆっくりと煮詰まっていった。
剥がさない、というのは最初の夜に全会一致で決まっていた。剥がして開けたら負けな気がする。その根拠のない結論を守り抜くために、翌日の夕食の席で、追加のルールが三つ決まった。その一、用もなく二階の奥へ行かない。その二、階段を上がるときは、突き当たりを見ない。その三、貼り紙の話をしない。
たった三日で、三つとも逆効果だと判明した。
用もなく行かないと決めた二階の奥を、全員が用を作ってまで確認しに行った。見ないと決めた突き当たりを、全員が階段の五段目あたりで必ず見た。話をしないと決めた貼り紙の話を、住人たちは朝昼晩の食卓で毎回していた。
「今日も話してるね」
熱い麦茶をすすりながら、七瀬ななせがケロッとした顔で言う。
「話してへんよ。話さんとこなっていう話をしてるだけや」
「それを話してるって言うんだよ、律」
反論できなかった。反論できないことばかりの一週間だった。
症状が重いのは二階の三人だ。廊下の奥のあの戸と同じ階で寝起きしている。階段を上がれば視界の隅にどうしても入る。
糸吉結は毎晩、階段の下で深呼吸をして、自分で自分に実況を入れるようになった。
「よし。あたし、いま階段のぼります。とんとんとん。前だけ見てる。えらい。部屋入る。ばたん! ……はい勝ち!」
勝敗の基準は不明だが、戸を開けたら負けらしい。今のところ全勝だと本人は言う。ただ、実況の声量が日ごとに上がっているのは、たぶんいい兆候ではない。
強信現はもっと簡単だった。二階に上がるたび、自分に呪文をかける。
「だーいじょぶ、だいじょぶ」
唱えてから、するっと自室に入る。プラシーボは開けたい気持ちにも効くらしい。ただし本人いわく「効きがいつもより悪いんだよぉ」とのことで、最近は二回唱えている。二回で済んでいるうちが華だろう。
十十木千は、ある夜、あの戸の前に三十分立っていた。
貼り紙が現れた日、最初に「開けたい」と言ったのは千だった。だから律も心配して、様子を見に二階へ上がった。千は貼り紙を見つめたまま、振り返りもせずに言った。
「……ずっと見てると、ただの線になる。そうすると、へいき」
「へいきて」
「『あけないでください』が、あけないでくださいじゃなくなる。ただの、まるとはらいになる。……よめなくなったら開けたくなくなった」
ゲシュタルト崩壊の自力応用だった。
「(……応用すな、そんなもん)」
開けたい千と、開けさせたくない律。利害だけは一致していたから、あの夜から「付き添い」が習慣になった。二階の住人が部屋に戻るとき、一階の誰かが階段の下まで見送って、声をかける。それだけの係だ。効果のほどは不明だが、少なくとも誰かを三十分あの戸の前に立たせない役には立っている。
「千ちゃん、着いたら戸ぉ閉めて、閉めたって言うんやで」
「……ん」
今朝の千が階段を上っていく。その背中を見送る律の鼻の奥で、焦げの香りはまだ続いていた。
「……閉めた」
二階から声が降ってきて、香りはすっと引いた。あとに残るのは、見えない位置にある戸が一枚。見もしないのに、字面だけは頭の中でいくらでも再生できる。白い紙。丁寧な字。あけないでください。
「(……今日、来るな)」
予告編の上映は、たぶん今日で終わる。
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「一週間分の観察結果を言うわね」
昼前の居間で、橋渡好がルーズリーフを一枚、ストーブの前のテーブルに置いた。この家の二十四歳は、大学院で心理学をやっている。そして研究対象には事欠かない家に住んでいる。
「千ちゃん、戸の前で三十分。結ちゃんの実況、昨日までに十八回。うーちゃんの呪文は二回がけ。……ねえ、律くん。禁止されると開けたくなるのは人間の仕様よ。それは前に言いかけた通り。でもね」
好はペンの尻で、ルーズリーフの数字を叩いた。
「度が過ぎてる。ただの紙一枚に対して、この家は明らかに素の心理で説明できる域を越えてきてる。誰かの何かがあの紙に載ってる」
「誰かって誰なん」
「わからない。わかっているのは、この家の誰も見たことのない字を書く誰かってことだけ」
律は麦茶を飲んだ。正直に言えば律にも自覚がある。あの戸を開けたい。かなり開けたい。ただしそれが順当な人間の分量なのかどうか、比べる物差しを律は持っていない。なにしろこの体質だ。理憑きは律には効かない。効かないはずのものと効いているらしい家族の間で、物差しは行方不明のままだった。
「まあ、答えはじきに来るわ」と好はルーズリーフを閉じた。
「管理会社が『メンテナンスです』って言ったんだから」
「出たな、メンテナンス」
この家に人がたどり着くとき、前触れはいつも先に届く。青い簾のときも、飴色の簾のときもそうだった。だから今回も、来るのだ。近いうちに。たぶん——今日。




