エピローグ 満室の家
律がセオリア荘に来て、初めての春だった。
入居は去年の夏だから、律はまだこの街の季節を一周していない。大学通りが薄紅色の天井になることは、知識としては知っていた。住人として、その下に立つのは初めてだった。減圧の紙は気がつけば残り一枚になっていて、その一枚もあるのかないのか分からない日が増えた。ななせの処方箋は今日も続いている。効いたのか、時間が経っただけなのか、検証はしないことにしている。
三月最後の日曜、律とななせは並木の下を歩いていた。買い出しという名目は、二人とも最初から忘れることに決めていた。
風が吹くたび、天井から花びらが剥がれて降ってくる。ななせは一枚を手のひらで受けて、しばらく眺めてから言った。
「今年の桜は、今年しか見られないんだよ」
秋に同じ形の言葉を聞いた。今年の散り方は今年しか見られない。あのときのそれは、どこか寂しい響きをしていた。巻き戻る世界では、すべてが「今年しか」で、その「今年」は何度でも上書きされた。四十二年、この人は同じ並木の花を、標本を繰るみたいに見てきたのだ。
いまは違う。
巻き戻さないと決めた世界では、一回きりは欠点ではない。一回きりだから、今年の桜は今年のもので、来年の桜はまだ誰のものでもない。
「そやな。……来年のは、来年の楽しみやな」
「うん」
ななせは花びらを風に返して、それから少しだけ改まった声で言った。
「四十三回目の春なんだ、私」
「……そか」
「初めてなんだよ。こういう……続きの春は」
言うなら今だと思った。錨を打つのに、これ以上の海はない。
「ななせ」
「ん?」
「……俺、ななせが好きや」
並木の天井が、風で一度大きく鳴った。花びらが降る。ななせは前を向いたまま、たっぷり三歩分黙って、それから言った。
「…………うん」
「うん、て」
「——私も。ずっと前から。……たぶん、律が思ってるより、ずっと、ずっと前から」
ずっと、の長さを正確に知っているのは、世界でこの二人だけだった。それきり、どちらも何も言わなかった。並木の終わりまで、袖と袖が触れる距離で歩いた。日課でもないのに途中から手が繋がっていたことについては、どちらも指摘しなかった。
沈黙が照れに変わりかけたあたりで、律は咳払いをした。
「……あー。なあ。来年の春は受験やわ」
「知ってる」とななせは笑った。「だから今年のうちに、いっぱいお花見しとこうね」
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夕食は春キャベツの回鍋肉だった。
八人の食卓は今日も狭い。結が望の皿に勝手に肉を積み、千がピーマンを一の皿へ音もなく移送し、現がそれを見てだいじょうぶじゃないよぉと笑っている。どうぞ、どうぞ、と今日も飛び交う。狭い、うるさい、忙しい。
その騒ぎの隙間で、現がふいに箸を止めて律を見た。
「ね、律にぃ。うつつ、前に聞いたよねぇ。満室になったらどうなるのって」
聞かれた。秋の終わり、最後の一部屋がまだ空いていた頃だ。あのときは答えを持っていなかった。律は食卓を見た。積まれる肉。移送されるピーマン。腫れた目はもうどこにもない、八人分の顔。
「——別に、何も終わらんかったな」
自分の口から出た「別に」に、少し笑いそうになった。
「ただ、食卓が狭なっただけやな」
「せまいの、いいよねぇ」と現が言い、「狭いから熱いんだよね、この鍋の距離」と結が言い、「……取り皿、遠い」と千が言った。一が嬉しそうに、炊飯器へお代わりをよそいに立った。
「そういえばね」と、好が湯呑みを置いた。「例の研究会、春の発表枠に通ったの」
あらまあ、と一が声を弾ませ、結が「先生すごい!」と拍手した。題目は訊かなかった。訊かなくても、机の上のルーズリーフの厚みが、この一年分を物語っている。好は「発表内容は、まだ内緒」と笑って、それきりだった。内緒、という言葉がこの家では上等な部類だということを、律はもう知っている。
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次の日曜の朝、二階の廊下に住人が全員集まっていた。
集めたのは望だ。望は突き当たりの戸の前で、貼り紙と向き合っていた。ひと冬のあいだ、この家で一番読まれた紙。あけないでください。行儀のいい、丁寧な字。
「けっきょくさ」と結が言った。「なんで貼ったの、それ。ちゃんと聞いてなかった」
ちゃんと答えられなかっただけだ、と言い直せる者はいなかった。望は貼り紙を見たまま、少し考えて、口を開いた。
「あの頃のボクは、願いごとを禁止の形でしか書けなかったから」
誰も何も言わなかった。
「絵馬みたいなものだったんだと思う、これ。……見つけて、って書いたつもりだった。ボクの字で書ける、ぎりぎりの端っこの書き方で」
見つけて。開けて。あけないでください。同じ願いの裏と表だった。白い絵馬に書けなかったものが、白い貼り紙には、裏返しのまま書いてあったのだ。この家はひと冬かけて、それを表から読めるようになった。
望は手を伸ばして、四隅のテープを一つずつ丁寧に剥がした。紙を破らないように時間をかけて。剥がし終えると、その紙を綺麗に畳んでポケットにしまった。
「これは、ボクの最初の絵馬だから。取っとく」
代わりに、新しい紙が貼られた。同じ白い紙。同じ丁寧な字。書いてあるのは三文字だけだった。
『どうぞ』
「暇なとき遊びに来て。……来てほしいってこと」
来てほしい。疑問形の松葉杖なしの、まっさらな願望だった。一秒後、結が「今夜行く!」と叫び、現が「うつつもぉ」と続き、千が「……ん」と頷いた。好が「差し入れ持参ね」と言い、一が「じゃあ、おやつを作りましょうか」と続けた。望は少し困った顔で笑った。困り方は、もうすっかり柔らかかった。
「あと」と望は付け足した。「谷保の絵馬も、書き直しに行く。白いままのやつが一枚あるんだ」
開かずの間が、この家から消えた。
八つの部屋に、八人。——世界は今日も、巻き戻らない。
(了)




