第六話② 観測を継続します
事件はニュースにならなかった。
夕方の大学通りであれだけの人間が鞄を放り出して走ったのに、翌日にはもう誰も話していなかった。動画の一つも上がらなかった。その不自然さについて考えるとき、律はいつも胸の棚の上のほうに視線をやることにしている。棚の上にはまだ鳴らない声が載っている。
二月が終わり、三月が来た。
律の世界は薄紙の向こうにあり続けた。一枚の日もあれば、三枚の日もあった。味噌汁の熱さが遠い。畳の目が遠い。自分の声すら、隣の部屋から聞こえてくる日があった。秋の減圧は二日で明けたが、今回のは明けない。律は誰にも言わなかったが、ななせにだけは隠せなかった。
「はい、現実チェック」
ななせの日課は、事件の夜から処方箋に変わった。
普通の日は、袖。二本の指でつまんで、ここ現実だよ、と言う。それだけで紙が一枚減る。薄い日は、手。繋ぐと、二枚減る。理屈は知らないがそれで効く。
そして、特にひどい日は——
「……今日、遠い顔してる」
三月最初の雨の日だった。縁側の柱にもたれてぼんやりしていた律の視界にななせが入ってきて、しばらく何かを迷って、それから、えい、と抱きついた。
濡れたシャツが夏の日差しを浴びて乾いていくかのように、ななせの太陽の香りに包まれると早足に現実に近づいた。数秒で離れて、二人ともしばらく庭の雨を見ていた。目は合わせなかった。合わせたら、この日課は続けられなくなる気がした。
望はといえば、リハビリの毎日だった。
「あのさ。……テレビ、変えてもいい?」
「どうぞ!」
「……お風呂、先入ってもいい?」
「どうぞぉ」
願望文は、まだ疑問形の松葉杖つきだった。それでも、言うたびに家中から「どうぞ」が飛んでくる。どうぞ、どうぞ、と言われるたび、望は少し困った顔で笑った。困り方が日ごとに柔らかくなっていった。
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薄紙の向こうの律を、家はそれぞれの文法で世話した。
千は何も言わずに観測記録をつけた。「……律、今日、湯呑み三回置き損ねてる」。報告は毎晩、風呂の順番のついでに届く。一は味噌汁を少し濃いめに作るようになった。味が遠い、と律が一度も言っていないのに、である。バーナムの本領は、当てずっぽうを当てることにある。結は律の隣で、頼んでもいないのに歌った。音量の下がった世界に、鍛えた声だけは一枚目まで届いた。現は律の頭に手をかざして、だーいじょぶ、だいじょぶ、と唱え、効かないことを確かめて頬を膨らませた。「律にぃにだけ効かないのぉ」。効かない呪文をかけてもらうのが、こんなに効くとは知らなかった。
誰も「無理しないで」とは言わなかった。その言葉の意味を、この家はもう知っている。
律はと言えば——数えるのをいつのまにかやめていた。別にいい、はまだ時々出るが、あの二秒の底がもう抜けていない。数える必要がなくなったのだ。
ある午後、好が縁側で例の紙を広げていた。広さと深さの二軸に、六つの名前。望の欄には逆向きの矢印。
「ななせちゃんの欄はね、空けておくことにしたの」
問われる前に、好は言った。
「ずっと、私の紙が短くて届かないんだと思ってた。違うのね。届かなかったんじゃなくて。——最初から、届いちゃいけない場所だったのね、あそこ」
それ以上は、何も訊かれなかった。好はペンを置いて、スマホを取り出して親指で短く何かを打って、すぐ閉じた。画面は見えなかった。見えなくていいのだと、律はもう知っている。
ある晩、風呂上がりの廊下で千が望を呼び止めていた。立ち聞きするつもりはなかったが、廊下は一本しかない。
「……最近、言わないね。『別にいい』」
「言うよ。ほんとに別にいいときだけ」
「ん。……合格」
通りすがりの査定だった。千はそれだけ言って、猫に煮干しをやりに縁側へ消えた。合格、と言われた側は、しばらく廊下で笑いを噛み殺していた。この家の試験はいつも抜き打ちで、いつも一問だけだ。
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三月の夜はまだ冷える。それでも縁側に座れる程度には冬が緩んでいた。
「ね、律。聞いてくれる?」
日課の帰りぎわ、ななせは廊下へ戻りかけて、隣に座り直した。湯たんぽはもう抱えていなかった。
「私ね、あれから考えてたの。私のデジャヴのこと」
庭の暗がりを見ながら、ぽつぽつとななせは言った。時間に触れる力は、ことわりつきの外側にある。あの紙に載らない場所にある。つまり自分は呪われた子ですらなくて、はじめから仕組みの側の——
「安全弁っていうのかな。装置だったんだよね、私。みんなは呪いに苦しんでたのに、私のは呪いですらなかった。……私、ことわりつきですらなかったのかもね」
笑い話の口調で言おうとして失敗していた。語尾が少し沈んだ。
「そんなことないんちゃう」
考えるより先に口が動いた。
「四十二年も待った人間が装置なわけないやん」
「……律」
「装置は待たへん。装置は怖がらへん。こたつをなくして困る装置が、どこの世界におるんや。……あれが呪いやったか装置やったかなんか俺は知らん。けど、四十二年ぶん歩いてきたのは装置と違う。ななせや」
ななせはしばらく黙っていた。それから、ふ、と息だけで笑った。
「……最近ね、小さいのしか来ないの。デジャヴ」
「小さいのん」
「猫が二回横切ったな、とか。結ちゃんのくしゃみ、さっきも同じの聞いたな、とか。それくらいの大きさになった。……なくなってはくれないみたい。小さくなって、隣にいるだけ」
呪いは消えない。ただ小さくなって隣にいる。それはたぶん、この家の全員がいつか辿り着く場所の、一番端の景色だった。
「あのね。名前つけたんだ」
「名前?」
「律のあの力。海図と錨で一つの技でしょ。だから——律はね、私の錨だよ」
自分の力の名前を人からもらったのは初めてだった。悪くなかった。海の底まで沈んでも、これで迷子にはならない。
「ほら、日課」
差し出された袖を、ななせが二本の指でつまむ。
「ここ、現実だよ」
「……現実チェックや」
「うん」
「……現実は、ななせがいてる方やな」
二本の指に、ぎゅ、と力がこもった。ななせは何も言わずに、袖をつまんだまま離さなかった。縁側の板の冷たさも庭の暗さも薄紙の向こうにあるのに、袖のその一点だけが、ずっとこちら側にあった。
——そのときだった。
音が消えた。
夜のせいではない。空気の圧が、すっと変わった。あの夕方と同じ変わり方。隣でななせの背中が強張るのがわかった。二人にしか聞こえていない。
声が一度だけ聞こえた。
「リセット中断。——観測を継続します」
それきりだった。
夜の音が何事もなかったように戻ってくる。虫も鳴かない三月の庭で、風が椿の葉を一枚だけ揺らした。律とななせは動けないまま、袖の一点だけで繋がっていた。
採点は終わっていなかった。終わっていないことだけが告げられた。
垣根の外で、猫が一度だけ鳴いた。




