第三話 屋上のすれ違い
ぎぃ、と、扉が鈍い音を立てる。
ゆっくりとドアを開くと、初夏の風が私を包んだ。
遮るもののない屋上は日差しが強く、目をかばうようにして手をかざす。
私を呼び出した高瀬くんを目で探せば、高瀬くんが、フェンスの前でこちらを振り返ったのがわかった。
足がすくむ。
でも、今更逃げることもできない。
重たい足を引きずるようにして、私は、高瀬くんの前に立った。
「よかった、来てくれて」
ほっとしたように、高瀬くんはそう言った。
でも、私に、来ない選択肢なんかない。
知られた秘密。
それを握っている高瀬くんが何をする気なのか、どういうつもりなのか。
それを確かめるまで、私は、高瀬くんに逆らえるはずがなかった。
「……こんなところに呼び出してする話って、何?」
無理矢理押し出した自分の声が、ひどく冷たく響く。
「ごめん、あおい。……あおいが、多分話したくないんだろうなっていうのは、わかってる。でも、ちゃんと聞きたくて。昨日のこと」
「……昨日の、って?」
「あおいが、月夜猫だ、ってこと。……俺の、勘違いじゃ、ないよね」
わざわざ確認したのは私なのに、高瀬くんの言葉に、私は思わず唇を噛む。
これを聞かれることは、わかっていたのに。
「……」
「ねえあおい、これ、見て」
何も言葉を紡げない私の前に、高瀬くんは、自分のスマホを差し出した。
高瀬くんの指が側面のボタンに触れると、画面が明るくなる。
そこに映し出されたものに、私は、息をのんだ。
画面に映っていたのは、星空に沈む、闇夜色の猫。
その猫の瞳には、三日月が映りこんでいる。
私は、その絵を知っていた。
……当たり前だ。
その絵を描いたのは、他でもない、……私自身なのだから。
「これ、今の俺の待ち受け。三カ月前から、これにした」
三カ月前。
その高瀬くんの言葉に、私はもう一度息をのむことになった。
私がこのイラストを投稿したのが、高瀬くんが言った通り、三カ月前だったから。
「……俺ね、めちゃくちゃ好きなの、月夜猫の絵。アカウントも、結構前からずっと追ってる。あと、これも見て」
そう言って高瀬くんがポケットから取り出したのは、月夜猫のロゴで作ったアクリルキーホルダー。
図柄は、私がタブレットに貼っているのと同じものだ。
これは私が、SNSを通じて販売したグッズの一つ。
それも、……相当初期のもの。
「俺が言ってること、信じてくれた?」
信じるも何も。
これを見せられたら、私は頷くしかない。
でも、……それなら。
昨日感じた怖さとは全く違う種類の怖さが、突然全身を襲った。
この人は、月夜猫の絵を好きでいてくれる人。
でもそれは。
それは。
「ちが、う……」
「え?」
「違う……!!」
「あおい……?」
自分でも、何を口走っているのかわからない。
この絵を描いたのは、私。
でも、それは、雪村あおいじゃ、ない。
「違う、違うの……っ」
何が。
どう。
何の説明にもならない言葉が零れ落ちる。
「あおい」
高瀬くんの手が、私の震える手を掴む。
思わず振り払おうとしたけれど、それは叶わない。
「落ち着いて。何が、違う、の?あの絵、描いたのは、あおいだよね」
「……」
「……昨日、あおいのタブレット見ちゃった時さ。正直、信じられなかった。あの絵が月夜猫のものだってすぐわかったから。見間違いかとも思ったけど、……でもあれは、あの絵は、間違いなく月夜猫のものだった。そこは俺、間違えない自信があるんだ」
「……だから……?」
「俺、ずっと、気になってたんだ。月夜猫ってどんな人なんだろう、って。この絵を描く人はどんな人なんだろう、どんな生活をしてるんだろう、どこで、どんなことを考えてるんだろう、って」
「……」
「だから、タブレットを見た時、本当にびっくりした。隣の席にいるあおいが、まさか、俺がずっと追いかけてきた、月夜猫だった、なんて」
「……だから、がっかり、した?」
「え?」
「大好きだった作家が、こんな人間だってわかって、がっかりしたって、そう言いたい?」
「ちょ、待ってあおい、そうじゃな」
「がっかりしたならそれでいい!!」
高瀬くんの声を遮って、叫んだ。
自分でも、何が言いたいのかわからない。
頭の中が、ぐちゃぐちゃだった。
「……それで、いいから……もう、私のことは放っておいて。忘れて。……失望させて、ごめんね」
「お願い、待って、あおい、俺の話を」
「手、離して」
「ねえ、あおい、」
「離して!!」
殆ど金切り声になった私の声に、高瀬くんは私の手を放す。
私はそのまま踵を返した。
「……がっかりさせて、ごめんなさい」
「待って、あおい、待って!!」
追いかけてくる高瀬くんの声を振り切って、屋上から駆け出した。
……あーあ、また、逃げちゃった。
そのことに気づいたのは、階段を駆け下りて、教室の前で立ち止まってからだった。
ぽつり、と、廊下に涙のしずくが落ちた。
***
(……あー……もう、むり、本当、死にそう)
学校から帰って部屋の扉を開くなり、私はベッドにダイブした。
あの屋上へ呼び出された日から、今日で、3日。
私は、隣の席にいる高瀬くんを、無視し続けていた。
教室で誰とも話をしない、それは私の日常で。
隣の席の高瀬くんとも話さないのは、実はそこまで珍しいことじゃない。
それまでの日常と違ったのはただ、高瀬くんの目線だけだった。
高瀬くんは、何故か教室であの話の続きをしようとはしなかった。
そこにどんな意図があるのかは、……やっぱり私にはわからない。
けれど、何かを言いたそうにしているのも、何度も私に声をかけようとしているのも、わかってた。
だから、逃げた。
教室で、高瀬くんがあの話の続きをしないならむしろそれは私には都合が良くて。
休み時間には教室ではない場所で過ごすことで、放課後には誰より早く教室を出ることで、私は、高瀬くんを避け続けた。
……いつまで逃げ続けることができるのかなんて、わからないまま。
でも、これでいい。
……こうやって逃げ続ければ、何も決着を着けなくていい。
何も、話さなくていい。
そしてきっと、こうしていれば、いつか高瀬くんは、私のことなんか忘れてくれるはずだった。
だって、高瀬くんにとって重要なのは、私じゃないから。
高瀬くんが見ているのは、月夜猫。
月夜猫としての私がSNS上に居続けるなら、それでなんの問題もないのだ。
……あんなことがあったというのに。
この3日間、めちゃくちゃに疲れ果てていたというのに。
私は、絵を描くことを辞めてはいなかった。
まあ、これで辞められるくらいなら、とうの昔に辞めている。
私は、ベッドから這い出して、机に向かった。
あの日見られた、描きかけの絵。
本当は捨ればいいとわかっていたけれど、……やっぱり私には捨てられない。
完成間近だった絵に少しだけ手を入れて、最後の仕上げをする。
月夜猫、と、いつものサインを入れて、ほとんど惰性のようにSNSにUPした。
すぐに、沢山のコメントが届く。
『新作!待ってました!』
『今回も素敵ですね』
『わー!月夜猫さんの新作だー!』
……ほら、“月夜猫”は、こんなにも沢山の人に求められている。
流れていく通知を見ていたら、ふと目に飛び込んできたコメントがあった。
『今回もとても素敵なイラストが見られて嬉しいです。でも、少しだけいつもの月夜猫さんと選ぶ色が違う気がしました。何かあったんですか。気のせいだったらすみません』
そのコメントは、私がいつもイラストをあげるたびにコメントをくれる人からのものだった。
選ぶ、色。
その言葉には、心当たりがあった。
かすかな違いかもしれない。
でも、今回のイラストに私が選んだ色は、今の私の心を写し取ったように、少しだけくすんでいる。
(……なんで、そんなこと、わかるんですか)
画面の向こうに問いかけても、答えは返ってこない。
通知の届き続けるタブレットの電源を落として、私はまた、ベッドにダイブした。
高瀬くんのこと、少しくすんだ色の私のイラストのこと。
……考えれば考えるほど、何もわからなくなる。
何もかもから逃げるように、私は布団にくるまって、ぎゅっと強く目をつむった。




