第三話 昨日、生きていた少女
三か月が過ぎた。
見知らぬ街で途方に暮れていた頃を思えば、透の生活は随分と変わっていた。
朝は共同寝所から市場へ向かい、荷運びや店の手伝いをする。午後は言葉の勉強をしたり、街を歩いて情報を集めたりして過ごした。
初めは何を言われても首をかしげるばかりだったが、今では簡単な冗談くらいなら言い返せる。もちろん、聞き慣れない言葉はまだ多く、話についていけなくなることも珍しくなかった。
それでも、暮らしていくには十分だった。
顔見知りも増えた。市場の店主たちは透を見かけると声をかけてくれるし、共同寝所の管理人も、最近では細かな仕事を任せてくれるようになった。
そして夕方になると、決まってミナがやってくる。
覚えたばかりの言葉を試してきたり、学校であったことを話したり。ときにはエルナの家で夕食をごちそうになることもあった。
日本へ帰る方法は、相変わらず分かっていない。
ただ、一つだけ手掛かりらしいものは見つかっていた。
アルセイン帝国の帝都。
そこには大きな図書館があり、各地の歴史や奇妙な現象を研究する学者たちが集まっているという。
行けば何かが分かるかもしれない。そう考えて、透は少しずつ旅費を貯めていた。
あと数日働けば、乗合馬車の料金にも届くだろう。
ようやく、この街を離れる日が近づいていた。
もっとも、最初に帝都へ行くと決めた頃ほど、出発を待ち遠しいとは思わなくなっていた。
帰りたい気持ちが薄れたわけではない。
ただ、ここでの生活にも、いつの間にか続きができていた。
明日も市場へ行けば仕事がある。
エルナの店へ行けば、いつものように小言を言われる。
そしてミナは、きっとまた何かを見せに来る。
そんなことを、いつから当たり前だと思うようになったのだろう。
*
その日は、いつもより仕事が早く終わった。
透が店の片付けをしていると、背後から聞き慣れた声がした。
「トオル!」
振り返ると、ミナが駆け寄ってくるところだった。
「お疲れ」
「まだ疲れてないよ」
「俺は疲れた」
「年寄りみたい」
「まだ二十三なんだけど」
ミナは声を上げて笑った。
初めて会った頃は、あんなに遠慮がちだったのに。最近では、透が少しでも弱音を吐くと、すぐにからかってくる。
「ねえ、見せたいものがあるの」
「何?」
ミナは背中に隠していた紙を取り出した。
「じゃーん!」
透は思わず笑った。
「また地図?」
「またって何!」
「いや、最近ずっと描いてただろ」
「いいから見て!」
半ば押しつけるように差し出された紙を受け取る。
そこには、街の地図が描かれていた。
市場、学校、川、鐘楼。そして、エルナの家。
以前、地面に描いていたものよりもずっと細かく、道の曲がり方や建物の位置まで丁寧に書き込まれている。
「……すごいじゃん」
透は思わず声を上げた。
「これ、全部自分で調べたの?」
「うん! 学校の帰りとかに歩いたの」
改めて地図を眺める。
以前、ミナが描き忘れていた市場の裏道も、今度はきちんと描かれていた。
「裏道もちゃんとあるな」
「当たり前でしょ」
「前は忘れてたのに」
「忘れてないってば!」
ミナは頬を膨らませた。
その顔があまりにも以前と同じだったので、透はつい笑ってしまった。
「悪い悪い。でも、本当に上手になったな」
「……トオルが教えてくれたから」
「いや、ほとんど自分で調べただろ」
ミナは照れたように笑い、すぐに地図の端を指さした。
「あと、これ」
透は目を向けた。
街から遠く離れたところに、小さな丸が描かれている。
見覚えがあった。
「……俺の街?」
「覚えてた?」
「そりゃ覚えてるよ」
以前、地面に描いたものと同じだった。
ただし、今度は一つ違うところがある。
街から、その丸へ向かって一本の線が延びていた。
「……道も描いたのか」
「うん!」
「でも、ここに道があるって分かったわけじゃないだろ?」
ミナはあっさりとうなずいた。
「分からないよ」
「じゃあ、どうして描いたんだ?」
「いつか見つけるから」
透は少女の顔を見た。
「道を?」
「うん。トオルが帰れる道」
ミナは、まるで明日の天気でも話すように言った。
透は返す言葉を探したが、うまく見つからなかった。
三か月前、言葉も通じず、金も使えなかった自分に、最初に焼き菓子をくれたのがこの少女だった。
それから、毎日のように言葉を教えてくれた。街のことも、知らない単語の意味も。こちらが何度間違えても、面倒くさがらずに付き合ってくれた。
そして今度は、帰り道を探すと言っている。
本人にとっては、地図に一本線を描き足すくらい、何でもないことなのかもしれない。
「……そっか」
透は地図へ視線を戻した。
「じゃあ、俺も頑張らないとな」
「うん!」
ミナは満足そうに笑った。
透は、もう一度その線を眺める。
実際には存在するかどうかも分からない道だった。どこへ続くのか、そもそも日本がこの世界のどこかにあるのかさえ分からない。
それでも、少女は迷わず線を引いていた。
「ありがとう。持っていくよ」
「なくさないでね」
「分かってる」
「絶対だよ?」
「絶対」
念を押すミナに、透は笑って答えた。
*
その夜、透はエルナの家で夕食をごちそうになった。
ミナは食事中も、ずっと地図の話をしていた。どの道が一番分かりにくかったとか、どこの店の人が親切だったとか、透が返事をする前から次の話題へ移ってしまう。
エルナは呆れたように笑っていた。
「最近、地図の話ばかりね」
「だって、楽しいんだもん」
「学校の勉強も、それくらい頑張ってくれるといいんだけど」
「……やってるよ」
「本当に?」
「……ちょっとは」
透が吹き出すと、ミナはすぐにこちらを向いた。
「トオルも笑わないで!」
「いや、俺は何も言ってないだろ」
「笑った!」
「笑っちゃ駄目なのかよ」
エルナまで笑い始めたので、ミナはますます不満そうな顔になった。
透はスープを口に運んだ。
少し濃いめの味付けにも、もう慣れていた。
初めてこの家に招かれたときは、何を話しかけられても聞き返してばかりで、食事の味さえよく覚えていない。
それが今では、こんなくだらないことで笑い合っている。
ふと、日本で最後に家族と食事をしたのはいつだっただろう、と考えた。
思い出そうとして、やめた。
今はせっかくの夕食なのだ。
向かいの席では、ミナがまだ何か言い返そうとしている。エルナはそれを聞き流しながら、透の皿にパンを一つ追加した。
「……ありがとうございます」
「遠慮しないで食べなさい。今日もよく働いてくれたから」
透はパンを受け取った。
こうして誰かの家で食事をすることに、もう特別な緊張を感じなくなっていた。
そのことが、少し不思議だった。
食事が終わると、ミナが透の手帳を見たがった。
「また字を教えて」
「日本の文字?」
「うん!」
透は鞄から手帳を取り出し、ボールペンを手に取った。
最近はインクを節約して、普段の勉強には現地の筆記具を使うようにしていた。だが、今日は久しぶりに日本の文字を書いてみたくなった。
新しいページを開き、ひらがなで書く。
『みな』
「これ、お前の名前」
ミナは顔を近づけ、じっと文字を見つめた。
「……変な形」
「おい」
「でも、かわいい」
「どっちだよ」
ミナは笑った。
「私も書く!」
透がボールペンを渡すと、ミナは見本を横目に、慎重に文字を書き始めた。
最初の一文字は少し大きすぎた。二文字目は、曲がるところで線が不自然に折れてしまった。
それでも、書き終えたミナは満足そうに顔を上げた。
「……どう?」
「上手じゃん」
「本当?」
「本当。ちゃんと読める」
ミナは嬉しそうに笑い、その下の空白を指さした。
「トオルも」
「俺?」
「うん。トオルの名前」
透は隣に見本を書いた。
『とおる』
ミナは何度か発音を確かめながら、一文字ずつ書き写した。
途中で書き順を間違え、透が口を出そうとすると、ミナは手帳を抱え込んだ。
「自分で書く!」
「はいはい」
透はおとなしく見守ることにした。
しばらくして、ようやく書き終えたミナが手帳を差し出す。
『みな』
『とおる』
少し曲がった文字が、二行並んでいた。
「どう?」
「うん。上手」
「さっきもそれ言った」
「じゃあ、すごく上手」
ミナは満足そうにうなずいた。
「消さないでね」
「消さないよ」
「絶対?」
「絶対」
「約束ね」
透もうなずいた。
ミナはもう一度、自分の書いた文字を眺めてから、ようやく手帳を返してくれた。
たったそれだけの約束だった。
*
共同寝所へ戻った後、透は机の上に地図を広げた。
ミナが描いた街の地図。その端にある、自分の故郷。
透は少し考えてから手帳を開き、地図を写し始めた。
市場、学校、川、鐘楼。エルナの家。
道の曲がり方も、できるだけ正確に写したつもりだったが、細かいところはなかなかうまくいかない。
「……あいつ、よくこんなの描いたな」
独り言をつぶやきながら、最後に街から遠く離れた場所へ小さな丸を描く。
そこへ向かって延びる一本の線。
透はペンを止めた。
この線だけは、どう見ても地図らしくない。
どこへ続く道なのかも分からないし、実際に存在する保証もない。ただ、ミナが想像で引いたものだった。
それでも透は、線をそのまま残した。
元の地図を折りたたみ、外套の内ポケットへしまう。日本の手帳は鞄の中へ戻した。
出発するまで、あと数日。
帝都へ行けば、何か分かるだろうか。
透は小さく息を吐き、明日の仕事に備えて寝台へ横になった。
*
翌日も、いつもと変わらない朝だった。
市場には荷車が並び、店主たちの呼び声が飛び交っていた。透は朝から荷物の運び込みを手伝い、昼過ぎになってようやく休憩を取ることができた。
店の裏へ行くと、ミナが待っていた。
「トオル!」
「お疲れ」
「またそれ?」
「便利なんだよ、この言葉」
ミナが笑う。
透は隣に腰を下ろし、こわばった肩を軽く回した。
しばらく、二人で空を眺めていた。
「トオル、いつ帝都に行くの?」
ミナが尋ねた。
「……あと四日くらいかな」
「もうすぐだね」
「まあな」
ミナは少しだけ視線を落とした。
透はその横顔を見たが、何と言えばいいのか分からなかった。
別れの挨拶をするには、まだ早い気がした。
「帝都って、すごく大きいんでしょ?」
先に口を開いたのはミナだった。
「らしいな」
「海もある?」
「それは分かんない」
「じゃあ、ちゃんと調べてきて」
「何を?」
「海があるかどうか」
透は笑った。
「分かったよ」
「あと、変わった建物とか」
「うん」
「あと、おいしいもの」
「……お前、観光させたいのか?」
ミナは笑った。
「だって、トオル、地図描くの下手そうだから」
「描いてるところ見たことないだろ」
「じゃあ、帝都に着いたら描いて見せて」
「なんで宿題が増えるんだよ」
ミナは得意げに笑った。
透もつられて笑った。
そのときだった。
遠くで、鐘が鳴った。
一度、二度、三度。
市場の喧騒が、少しずつ静まっていく。
透が鐘楼を見上げると、通りの向こうでは店主たちが慌ただしく荷物を片付け始めていた。
何人かが空を指さしている。
「……何だ?」
隣を見る。
ミナは立ち上がっていた。
さっきまでの笑顔が消え、顔が強張っている。
「トオル」
「どうした?」
「広場に行こう」
少女は透の袖をつかんだ。
「早く」
透は空を見上げた。
さっきまで晴れていた空の一部が、黒く染まり始めていた。
雲が広がっているのとは違う。青かった場所へ、墨を流し込んでいるようだった。
これまで何度か聞かされた、黒い雨の話を思い出す。
突然、建物が変わることがある。
道がなくなることがある。
昨日までいた人が、いなくなることもある。
最初は、何かの言い伝えだと思っていた。
しかし、ミナもエルナも、その話をするときには決して笑わなかった。
「……あれが?」
透が尋ねると、ミナは小さくうなずいた。
「黒い雨」
少女の声は震えていた。
「早く!」
透はミナの手を取り、広場へ向かって走り出した。
*
広場には、既に大勢の人が集まっていた。
建物から離れた場所へ移動するよう、住民たちが互いに声をかけ合っている。走ってきた人が立ち止まり、息を切らしながら空を見上げていた。
その中に、エルナの姿があった。
「ミナ!」
エルナは二人を見つけるなり駆け寄り、ミナを抱き寄せた。
「よかった。無事だったのね」
透もようやく足を止めた。
「……何なんですか、あれ」
エルナが空を見上げる。
「異史雨よ」
「……いしう?」
聞いたことのない言葉だった。
「歴史が変わるの」
透は眉をひそめた。
「歴史?」
言葉の意味は分かる。
だが、それが今の状況とどう関係するのか、まるで理解できなかった。
「説明は後。今は建物から離れて」
エルナはミナの手を握り直した。
「あなたも、絶対に一人で動かないで」
透はうなずいた。
そのとき、頬に冷たいものが当たった。
雨だった。
黒い雨粒が石畳に落ち、次々と小さな染みを作っていく。
最初は普通の雨と変わらなかった。
しかし、広場の向こうから短い悲鳴が聞こえた。
透は顔を上げた。
そこにあった家の形が変わっていた。
「……え?」
つい今しがたまで、赤茶色の屋根があったはずだった。窓は二つで、屋根の上には細い煙突が伸びていた。
それが今は、灰色の屋根を持つ別の建物になっている。
煙突はない。窓も三つに増えていた。
透は目をこすった。
だが、建物は元に戻らなかった。
隣の家も変わった。店先に並んでいた樽が消え、代わりに知らない看板が掛かっている。
さらにその先では、石畳の道が突然狭くなった。
「……何だよ、これ」
誰かが叫んだ。
建物から離れろという声が聞こえる。
透の視線は、変わり続ける街並みに釘付けになっていた。
倒れたわけでも、壊れたわけでもない。
まるで、最初からそういう建物だったかのように、街が別の姿へ変わっていく。
訳が分からなかった。
透は反射的に隣を見た。
ミナがいた。
エルナもいた。
二人は手をつないで、雨の降る空を見上げている。
それを確かめて、透は少しだけ息を吐いた。
「……ミナ」
声をかけると、少女がこちらを向いた。
何かを言おうとしている。
しかし、雨音が急に強くなり、声が聞き取れなかった。
「何?」
透は顔を近づけた。
ミナがもう一度口を開く。
その瞬間、目の前の景色が変わった。
黒いものが視界を覆ったのは、ほんの一瞬だった。
反射的に目を閉じる。
そして、開いた。
ミナがいなかった。
「……え?」
透は隣を見た。
さっきまでミナが立っていた場所には、誰もいない。
エルナもいなかった。
代わりに、見知らぬ男性が立っていた。
男性は突然現れた透に気づき、不審そうな顔をしている。
透は周囲を見回した。
人の位置が違う。
さっきまで目の前にいた女性も、荷物を抱えた老人も見当たらない。
数歩先には、見覚えのない石柱が立っていた。
「……ミナ?」
返事はなかった。
「ミナ!」
透は声を張り上げた。
誰も答えない。
人々の間をかき分け、広場の向こうへ走った。
「ミナ! どこだ!」
近くにいた男性が透を呼び止めた。
何かを尋ねてきたが、透はそれどころではなかった。
「十歳くらいの女の子、見ませんでしたか!」
男性は困惑したように首を横に振った。
透はその場を離れ、別の人に尋ねた。
栗色の髪。十歳くらい。母親と一緒にいた女の子。
覚えた言葉をつなぎ合わせ、何度も説明した。
しかし、返ってくるのは首を横に振る仕草ばかりだった。
透は広場の端へ走った。
そこで突然、足が引っかかった。
「……っ!」
地面に叩きつけられ、手のひらに鋭い痛みが走る。
振り返ると、さっきまでなかった石の段差ができていた。
透は歯を食いしばって立ち上がった。
手のひらから血がにじんでいたが、気にしている余裕はなかった。
もう一度、広場を見渡す。
見つからない。
あれだけ人がいるのに、どこにもいない。
「ミナ!」
喉が痛んだ。
それでも透は叫び続けた。
ついさっきまで隣にいたのだ。
手を伸ばせば届く場所にいた。
なのに。
「……どこ行ったんだよ」
降り続く雨の中、透は二人を探して走り回った。
*
雨がやんだ頃には、街の様子がすっかり変わっていた。
広場の西側には、見覚えのない煉瓦造りの建物が並んでいる。通りの幅も、石畳の模様も違っていた。
透は息を切らしながら歩いた。
ミナは見つからなかった。
エルナも。
だったら、家に戻っているかもしれない。
そう思い至ると、透は再び走り出した。
しかし、いつもの道を曲がろうとして足が止まった。
見覚えのない建物が道を塞いでいる。
「……なんだよ、これ」
透は別の通りへ回った。
そこも、以前とは少し違っていた。
それでも、三か月間歩き回った街だ。目印になる建物が変わっていても、大体の方向は分かる。
何度か道を間違えながら、透はようやく目的の家へたどり着いた。
エルナの家だった。
ただし、扉の色が違う。
窓の位置も、昨日とは少し変わっていた。
透はその違和感を振り払い、扉を叩いた。
「すみません!」
返事はない。
「エルナさん!」
もう一度叩く。
「エルナさん! 俺です!」
しばらくして、家の中から足音が聞こえた。
扉が開いた。
出てきたのは、エルナだった。
「……よかった!」
透は思わず息を吐いた。
怪我はなさそうだった。顔色は悪いが、少なくとも無事に見える。
「エルナさん、ミナは……」
そこで言葉が止まった。
エルナが、見知らぬ人間を見る目でこちらを見ていたからだ。
「どちら様ですか?」
透は一瞬、聞き間違えたのかと思った。
「……え?」
「何かご用でしょうか」
「いや、俺です。トオルです」
エルナは首をかしげた。
透は慌てて続ける。
「三か月前から、お店で働いてる……」
反応はなかった。
「昨日も一緒に夕飯食ったじゃないですか」
「……申し訳ありませんが」
エルナは困ったように眉を寄せた。
本当に分からないらしい。
透は言葉を失いかけたが、すぐに思い直した。
今はそんなことより、ミナだ。
「……ミナは?」
その名前を口にした途端、エルナの表情が変わった。
「……どうして」
透は息を止めた。
「どうして、娘の名前を知っているんですか?」
「……え?」
「どこで、あの子の名前を?」
声が震えていた。
透は戸惑いながらも答えた。
「どこって……ミナは、あなたの娘じゃないですか」
エルナは黙っていた。
「さっきまで、一緒に広場にいたんですよ。黒い雨が降って、それで急に……」
うまく説明できなかった。
何が起きたのか、自分でも分かっていない。
それでも、エルナなら分かってくれると思った。
あの場にいたのだから。
自分と同じものを見ていたのだから。
しかし、エルナはゆっくりと首を横に振った。
「……何を言っているんですか」
「だから、ミナが……」
「ミナは……」
エルナの声が途切れた。
その目に涙が浮かんでいる。
「半年前に、亡くなりました」
透は、しばらく何も言えなかった。
「……は?」
「病気で……」
「いや、違う」
考えるより先に言葉が出た。
「そんなわけないじゃないですか」
エルナは答えない。
「だって、さっきまで一緒にいたんですよ」
透は思わず一歩近づいた。
「今日だって市場に来て、俺と話してたんです。昨日は地図を見せてもらって……ずっと練習してたの、知ってますよね?」
エルナは扉を握ったまま動かなかった。
「あいつ、海に行きたいって言ってたんですよ」
そのとき、エルナの表情がわずかに揺れた。
透はすがるように続けた。
「知ってますよね? ミナが地図を描くの好きだったこと」
返事はなかった。
「そ、そうだ! 昨日、この家で。俺が日本の文字を教えて、それで……」
透は鞄から手帳を取り出した。
「ほら!」
慌ててページをめくる。
そこには、二行の文字が残っていた。
『みな』
『とおる』
少し曲がった、不格好な文字。
昨夜、ミナが自分で書いたものだった。
「これ、ミナが書いたんです」
エルナは手帳へ目を落とした。
しばらく、何も言わなかった。
透は返事を待った。
どんな言葉でもいい。
少しでも思い出してくれれば。
しかし、エルナは静かに首を横に振った。
「……読めません」
透は口を閉じた。
そうだった。
この文字は日本語だ。
エルナに読めるはずがない。
「でも、ミナが書いたんです。本当に……」
「お願いです」
エルナが遮った。
その声に、透は動きを止めた。
「もう、やめてください」
彼女の目から涙がこぼれた。
「娘が亡くなって、半年経つんです」
透は手帳を握りしめた。
「やっと……少しずつ、普通に暮らせるようになったんです」
昨夜も、この家で食事をした。
エルナはミナの学校の成績を心配して、ミナはそれに文句を言っていた。
透が笑うと、ミナも笑った。
そのエルナが今、目の前で泣いている。
透を知らず、半年前に娘を失ったと話している。
「……でも」
透は声を絞り出した。
「本当に、生きてたんです」
エルナは泣きながら首を振った。
「お願い」
かすれた声だった。
「もう、娘の話をしないで」
そして、扉が閉まった。
透は手帳を持ったまま、しばらくその場に立っていた。
もう一度扉を叩こうとした。
手を上げる。
しかし、できなかった。
扉の向こうから、押し殺すような泣き声が聞こえたからだ。
透はゆっくりと手を下ろした。
*
それでも、諦めることはできなかった。
透は市場へ戻り、顔見知りの店を一軒ずつ訪ねた。
いつも荷物を運んでいた店。
よく世間話をした店主。
仕事の合間に水をくれた老人。
誰か一人くらい、覚えているはずだった。
しかし、話しかけた人々は皆、不思議そうな顔をした。
透の名前を聞き返し、首をひねる。
中には親切に事情を尋ねてくれる者もいたが、ミナの話になると、知らないと答えるか、半年前に亡くなった少女のことだと説明するばかりだった。
透は何度も同じことを話した。
市場で働いていたこと。
エルナの店を手伝っていたこと。
ミナが、つい先ほどまで生きていたこと。
最初のうちは丁寧に説明していた。だが、何度繰り返しても相手の反応が変わらないことに、次第に声が荒くなっていった。
最後には、自分が何を言っているのかも分からなくなった。
夕方になる頃には、喉が痛んでいた。
透は共同寝所へ向かった。
管理人なら覚えているはずだ。
三か月間、毎日のように顔を合わせていた。仕事も任されていたし、昨日だっていつもの寝台で眠った。
しかし、管理人も透を知らなかった。
何度名前を告げても、首を横に振る。
寝所の中をのぞくと、透が使っていた寝台には別の人物の荷物が置かれていた。
透はそれ以上、何も言えなかった。
管理人が心配そうに何かを尋ねたが、答える気力も残っていなかった。
礼を言うことも忘れ、建物を出た。
*
夜になった。
透は広場の石段に座っていた。
昼から何も食べていないことに気づいたが、食欲はなかった。
転んだときに傷つけた手のひらが、じんじんと痛んでいた。乾きかけた血が、指を動かすたびに皮膚を引っ張る。
広場は静かだった。
街の姿が変わったというのに、人々は家路につき、店の扉は閉められている。
今朝までよく知っていた場所が、知らない街になってしまった。
透は鞄を開いた。
手帳を取り出そうとして、ふと肩に手をやる。
何もなかった。
いつも羽織っていた外套がない。
そういえば、広場でミナを探していたときも、着ていなかった気がする。
転んだ拍子に脱げたのだろうか。
それとも、あの雨の中で。
透は鞄の中を確認した。
日本から持ってきたスマートフォンも、手帳も、ボールペンも残っている。
しかし、外套はどこにもなかった。
そこまで考えて、透は急に顔を上げた。
「……地図」
ミナの地図。
昨日、少女から受け取った紙。
あれは、外套の内ポケットへしまったはずだった。
透は慌てて鞄を探った。
中身を一つずつ取り出し、底まで確かめる。
見つからない。
服のポケットにもない。
「……嘘だろ」
もう一度探した。
当然、結果は変わらなかった。
透は鞄を膝に置いたまま、うつむいた。
『なくさないでね』
『絶対だよ?』
昨日、そう約束した。
あれだけ大切に描いてくれた地図だったのに。
透は唇を噛んだ。
しばらくして、ふと顔を上げた。
「……そうだ」
手帳を開く。
何枚もページをめくり、昨夜使ったところを探した。
あった。
市場、学校、川、鐘楼。
そして、街から遠く離れた小さな丸。
そこへ続く、一本の線。
透は思わず息を吐いた。
「……よかった」
しかし、その言葉はすぐに空しくなった。
残っているのは、自分が写した地図だけだった。
元の紙はない。
ミナが歩いて調べ、一つずつ建物を描き込んだ地図は、どこにもなかった。
透は手帳を閉じかけ、隣のページに目を止めた。
『みな』
『とおる』
二行の文字が並んでいた。
ミナが書いたものだった。
手本を見比べながら、一文字ずつ慎重に書いていた姿が浮かぶ。
書き終えると、得意げに手帳を差し出してきた。
『どう?』
昨日の夜のことだ。
透は指先で、その文字の輪郭をなぞった。
なぜ、これだけは残っているのだろう。
ミナが書いた文字はここにある。
なのに、ミナ本人はどこにもいない。
エルナも、管理人も、市場の人々も、あの三か月を覚えていなかった。
透は鞄からボールペンを取り出した。
インクは残り少なかったが、構わなかった。
空いているページを開き、文字を書き始める。
ミナは十歳。
栗色の髪。
最初に会ったのは、市場の広場だった。
リンゴの入った焼き菓子をくれた。
地図を描くのが好きだった。
いつか海を見に行きたいと言っていた。
少し意地っ張りで、負けず嫌いだった。
市場の裏で、初めて地図を描いたときのことも書いた。
道が一本足りないと指摘すると、怒ったように言い返してきたこと。
発音を間違えるたび、得意げに笑っていたこと。
夕食の席でエルナに叱られ、少しだけ不満そうにしていたこと。
書き始めると、次々に思い出が浮かんできた。
初めは警戒していたエルナが、少しずつ仕事を任せてくれるようになったこと。
ミナが初めて自分の名前を正しく呼んでくれたこと。
地面に描かれた、帰り道のない地図。
昨日の夕食。
そして、今日の昼休み。
あのとき、ミナは何を言おうとしていたのだろう。
雨の音にかき消されて、聞き取れなかった言葉。
透はペンを止めた。
もう一度、あの場面を思い返す。
ミナはこちらを向いていた。
確かに何かを言おうとしていた。
けれど、聞こえなかった。
何を伝えたかったのかは、分からないままだった。
透はしばらく、その空白を見つめていた。
やがてページをめくり、覚えている出来事を書き続けた。
誰に見せるつもりなのか、自分でも分からなかった。
ただ、書いておきたかった。
あの三か月を知る人間が、今の自分の周りには一人もいない。
手帳に残った文字だけが、ミナと過ごした時間を確かめられるものだった。
どれくらい書いていたのだろう。
気づけば、何ページも埋まっていた。
透はようやくペンを置いた。
膝の上に開いた手帳を見つめる。
そこで、エルナの言葉が頭をよぎった。
『ミナは半年前に亡くなりました』
そんなはずはない。
昨日まで生きていた。
今日だって、一緒に話していた。
あの人は、間違っている。
透はそう思った。
思わなければ、目の前で起きたことを説明できなかった。
だが、扉を閉める直前のエルナの顔が、頭から離れなかった。
あの人は、本当に娘を失った顔をしていた。
透の話を聞くたびに、その傷をもう一度開かれているようだった。
「……何なんだよ」
透は小さくつぶやいた。
エルナが嘘をついているとは思えない。
それでも、自分が見たものを間違いだったとは思えなかった。
三か月間、一緒に過ごしたのだ。
昨日は同じ食卓を囲んでいた。
今日の昼には、ミナと笑い合っていた。
その記憶は、確かに残っている。
それなのに、エルナは半年前に娘を失ったと言う。
そして、彼女の悲しみもまた、嘘には見えなかった。
透は手帳を閉じた。
黒い雨。
エルナが口にした、異史雨という言葉。
『歴史が変わるの』
あのときは意味が分からなかった。
今も、分からない。
ただ、目の前で何かが起きたことだけは確かだった。
建物が変わり、道が変わり、人々の記憶まで変わってしまった。
何がどうなれば、こんなことが起こるのだろう。
透は顔を上げた。
広場の向こうには、見慣れない形になった鐘楼が立っている。
明日、役所へ行こう。
以前、帝都へ向かうための手続きを調べに訪れた場所だった。あそこなら、この雨について何か知っているかもしれない。
日本へ帰る方法も探さなければならない。
帝都へ行くという目標も、まだ諦めていなかった。
だが、その前に知りたいことができた。
ミナは、どこへ行ったのか。
エルナは、なぜ自分を覚えていないのか。
そして、なぜ自分だけが、昨日までの出来事を覚えているのか。
透は立ち上がった。
鞄を肩に掛け、もう一度広場を見渡す。
見慣れない建物。
見慣れない道。
見慣れない鐘楼。
三か月かけて、ようやく自分の居場所になり始めた街。
そこにはもう、昨日までの景色がなかった。
透はしばらく立ち尽くしていた。
そして、手帳を入れた鞄を握り直し、ゆっくりと歩き始めた。




