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灰の年代記  作者: 遠野綴
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第二話 地図の続き

十日が過ぎた。


 透は、ようやく少しだけ街で生活する方法を覚え始めていた。


 朝は共同寝所の仕事を手伝い、昼には市場で荷物を運ぶ。


 働いた分だけ、わずかな賃金を受け取る。


 そのお金で食事を買い、寝所の料金を支払う。


 余った分は、少しずつ貯めていった。


 日本へ帰る方法を探すには、いずれ別の街へ行く必要があるかもしれない。


 だから、旅費を用意しておきたかった。


 透は市場で働きながら、言葉も覚えていた。


 最初は挨拶と数字。


 次に、食べ物の名前。


 それから、値段を尋ねる言葉。


 しかし、どうしても分からないものが多かった。


 そんな透を、ミナが時々手伝ってくれた。


 もちろん、最初から親しくなったわけではなかった。


 透が店の荷運びを手伝うようになり、何度も顔を合わせるうちに、少しずつ話すようになったのだ。


 ミナの母親エルナは、初めのうちは透を警戒していた。


 仕事を任せるにしても、必ず人目のある場所での作業だけだった。


 透も、それで構わなかった。


 見知らぬ人間をいきなり信用する方がおかしい。


 だから透は、毎日同じ時間に来て、頼まれた仕事をこなした。


 余計なことはしない。


 荷物を勝手に触らない。


 分からないことがあれば、身振りで確認する。


 そうしているうちに、エルナは少しずつ仕事を任せてくれるようになった。


     *


 ある日の昼休み。


 透は店の裏で、ミナと向かい合っていた。


 机の上には、リンゴに似た果物が一つ置かれている。


 ミナはその果物を指さして、名前を言った。


 透も繰り返した。


 ミナは首を横に振った。


 もう一度。


 また首を振る。


「……今のは合ってただろ」


 透が日本語で文句を言うと、ミナは笑った。


 意味は分からないはずなのに、透が不満そうにしていることは理解できるらしい。


 ミナは口の動きを大げさにしながら、もう一度発音した。


 透も繰り返す。


 ようやく、ミナがうなずいた。


「……先生、厳しいですね」


 透がつぶやくと、ミナは得意げに笑った。


 次に、少女は小さな板を取り出した。


 そこには、いくつかの文字が書かれていた。


 透は思わず顔をしかめる。


「……文字も?」


 ミナはうなずいた。


 透は頭を抱えた。


 少女は声を上げて笑った。


 それが、二人のいつもの勉強風景になっていた。


     *


 一か月が過ぎた。


 透は、簡単な会話ならできるようになっていた。


 買い物もできる。


 仕事の指示も、ゆっくり話してもらえれば理解できる。


 しかし、少し複雑な話になると、途端に分からなくなった。


 透はそのたびに、覚えた言葉を紙へ書き留めた。


 最近は、日本から持ってきたボールペンをなるべく使わないようにしていた。


 替え芯など、この世界で手に入るとは思えなかったからだ。


 代わりに、普段の勉強には現地で買った紙と筆記具を使っていた。


 仕事が終わると、透は街を歩いた。


 役所。


 書物を扱う店。


 旅人が集まる食堂。


 大きな街へ向かう乗合馬車の停留所。


 日本へ帰る方法を探すためだった。


 だが、どこへ行っても手掛かりはなかった。


 日本という国の名前を言っても、誰も知らない。


 地図を見せてもらっても、日本は載っていなかった。


 ある日、透は旅人から帝都の話を聞いた。


 アルセイン帝国の中心地。


 そこには大きな図書館や、歴史を研究する機関があるらしい。


 旅人は、帝都には珍しい資料が数多く集められていると話していた。


 透は身を乗り出した。


「そこなら、遠い国のことも分かりますか?」


 旅人は少し考えた後、肩をすくめた。


 分からない、ということらしい。


 それでも透にとっては、初めて得られた手掛かりだった。


 少なくとも、この街にいるよりは何かが分かるかもしれない。


 透は手帳に書き込んだ。


『帝都へ行く』


 それが、新しい目標になった。


     *


 その日の昼休み。


 透は市場の裏手で、ミナと並んで座っていた。


 ミナは小枝を一本拾うと、地面に何かを描き始めた。


「何してるの?」


「地図」


「地図?」


「うん。この街の」


 ミナは地面に大きな丸を描いた。


「ここが広場」


 次に、その丸から何本かの線を延ばした。


「こっちが市場。こっちが学校」


 透は、少女が描く地図を眺めていた。


 道の向きは大体合っている。


 ただ、何本か足りない道があった。


「……ここ、道が一本足りなくない?」


 透は市場の裏側を指さした。


「こっちからでも広場に行けるだろ?」


 ミナは地図と透の顔を交互に見た。


「知ってるよ」


「じゃあ、なんで描いてないんだ?」


「今から描くところだったの」


「本当か?」


「本当!」


 透は笑った。


 ミナは不満そうな顔で、一本の線を描き足した。


「……これでいい?」


「うん。合ってる」


 すると、ミナは少し嬉しそうに笑った。


 透は地図の端を見つめた。


「ミナは、こういうのが好きなの?」


「うん」


「どうして?」


「知らない場所を見るのが好きだから」


 ミナは小枝を持ち直した。


「大きくなったら、いろんな街に行きたい」


「へえ」


「海も見てみたい」


「海、見たことないの?」


「ないよ」


 透は少し驚いた。


「じゃあ、いつか行けるといいな」


「うん!」


 ミナは笑った。


 それから、ふと思い出したように透の顔を見た。


「そういえば、トオルはどこから来たの?」


 透は答えに迷った。


「……すごく遠いところ」


「どのくらい?」


「海より遠いと思う」


「海の向こう?」


「もっと遠いかもしれない」


 ミナは目を丸くした。


「そんなに?」


 透は苦笑した。


「うん。帰り方も分からないんだ」


 ミナは少し考えた。


 そして、地面に描いた地図から大きく離れた場所に、小さな丸を描いた。


「じゃあ、ここ」


「何?」


「トオルの街」


 透は思わず笑った。


「いや、そんなところにあるか分からないだろ」


「でも、遠いんでしょ?」


「まあ、そうだけど」


 ミナは地図を見つめた。


 それから、街と小さな丸の間に一本の線を引こうとして、手を止めた。


「……道が分からない」


「そりゃそうだろ」


「じゃあ、まだ描けないね」


 ミナは小枝を地面に置いた。


 透はその小さな丸を見つめた。


 帰り方の分からない自分の故郷。


 それが、少女の描いた地図には確かに存在していた。


「……ありがとう」


 透がそう言うと、ミナは首をかしげた。


「まだ何もしてないよ?」


「いや、十分だよ」


 透は笑った。


 ミナは不思議そうな顔をしていたが、やがて笑い返した。


     *


 二か月が過ぎた。


 透は、すっかり市場の仕事に慣れていた。


 最初の頃に比べれば、言葉もだいぶ分かるようになっている。


 少しずつ金も貯まり始めた。


 その金で、透は現地の服を買った。


 日本から着てきたスーツは、この街ではどうしても目立った。


 そこで、普段は現地の服に着替え、寒い日には丈の長い外套を羽織るようにした。


 日本のスーツは捨てずに、大切に保管していた。


 スマートフォンも、今ではほとんど使っていない。


 充電する方法がない以上、電池を無駄にしたくなかった。


 透は、そうした小さなことを一つずつ覚えながら生活していた。


 ある日、透は仕事で失敗した。


 市場で使う粉の袋を運んでいるとき、足を滑らせたのだ。


 袋が破れ、中身が地面にこぼれた。


 透は慌てて拾おうとした。


 しかし、どうしようもなかった。


 エルナが駆けつける。


 透は何度も謝った。


「すみません。本当に、すみません」


 エルナは怒っていた。


 当然だった。


 粉は商品であり、大切な収入源だった。


 透は、その日の賃金を受け取らなかった。


 翌日も、自分から早く店に来た。


 破れた袋の代金を返そうとした。


 エルナは最初、受け取ろうとしなかった。


 しかし、透が何度も頼むと、ようやく半分だけ受け取った。


 そして言った。


「失敗したことは仕方ない。でも、次は気をつけなさい」


 透は頭を下げた。


「はい」


 その日の夕方、仕事が終わると、エルナが透を呼び止めた。


「今日は、うちで食べていきなさい」


 透は驚いた。


「……いいんですか?」


「ミナが、ずっと一緒に食べたいって言ってるの」


 エルナは困ったように笑った。


「それに、あなた、ちゃんと働いてるから」


 透は少しだけ笑った。


「ありがとうございます」


「ただし、明日も遅刻しないこと」


「……はい」


 その日の夕食は、野菜の入ったスープと焼きたてのパンだった。


 ミナは、いつもよりずっとよくしゃべった。


 透が聞き取れない単語を使うたび、得意げに説明した。


 エルナは何度もミナを注意した。


「食べながらしゃべらないの」


「だって、トオルが分からないんだもん」


「食べ終わってから教えなさい」


「はーい」


 透は二人のやり取りを見ながら、パンをかじった。


 なんだか、懐かしい気がした。


 日本にいた頃の、当たり前の食卓。


 家族がいて。


 食事があって。


 くだらない話をして。


 そんな光景を、ずいぶん長い間見ていなかった気がした。


 透は、少しだけ笑った。


 この街に来てから、初めて心から落ち着けた気がした。


     *


 三か月目に入った。


 透は帝都へ向かう準備を始めていた。


 旅費は、まだ十分ではない。


 しかし、あと少し働けば、乗合馬車の料金くらいは用意できそうだった。


 透はミナに、その話をした。


 少女は最初、意味が分からないような顔をした。


「……行っちゃうの?」


「うん。帝都に行ってみようと思ってる」


「どうして?」


「帰る方法を探すため」


 ミナは黙った。


 透は少し困った。


「……いや、絶対にもう会えないってわけじゃないから」


「でも、遠いんでしょ?」


「まあ、結構」


 ミナはしばらく考えていた。


 そして、突然立ち上がった。


「じゃあ、地図を描く」


「……地図?」


「うん。トオルが迷わないように」


 透は笑った。


「帝都までの道、分かるのか?」


 ミナは少し不満そうな顔をした。


「今から調べるの」


「……なるほど」


 透は思わず笑った。


 ミナは小さな紙を取り出した。


 そこには、以前地面に描いていた地図よりも細かい街の地図が描かれ始めていた。


 市場。


 学校。


 川。


 鐘楼。


 そして、エルナの家。


 まだ書きかけだったが、道の位置はかなり正確だった。


 透は少し驚いた。


「……すごいじゃん」


「でしょ!」


 ミナは得意げに笑った。


「もっと上手に描くから」


「楽しみにしてる」


 透はそう答えた。


 ミナは、地図を大切そうに折りたたんだ。


 その表情は、いつになく真剣だった。


 透は、少しだけ笑った。


 少女が本当に自分のために地図を描いてくれていることが、嬉しかった。

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