第一話 言葉のない街
最初におかしいと思ったのは、足元だった。
さっきまで、駅の階段を上っていたはずだった。
金曜日の午後六時過ぎ。仕事帰りで、肩にはいつもの鞄。明日は休みだから、久しぶりに昼まで寝ていようと考えていた。
それが今は、見知らぬ石畳の上に立っている。
「……は?」
白瀬透は、間の抜けた声を漏らした。
目の前には、石造りの建物が並んでいた。
壁に掛けられた看板には見たことのない文字が刻まれ、通りには荷車が行き交っている。
男たちは丈の長い上着を着て、女たちは布を重ねた服を身にまとっていた。
電柱も、自動車も見当たらない。
透は振り返った。
駅の階段はなかった。
代わりに、古びた石造りの店が建っていた。
「……え、どういうこと?」
もう一度振り返る。
景色は変わらない。
透は鞄からスマートフォンを取り出した。
画面が点灯する。
午後六時十二分。
圏外。
地図アプリを開いても、現在地を取得できなかった。
「いやいやいや……」
透は何度も画面を操作した。
再起動。
機内モードの切り替え。
もう一度、再起動。
変化はなかった。
「……頼むから、故障であってくれよ」
故障しているのがスマートフォンなのか、自分の頭なのかは分からなかった。
透は近くを歩いていた男性に声をかけた。
「あの、すみません」
男性が足を止めた。
「ここ、どこですか?」
男性は何かを言った。
しかし、透には一言も理解できなかった。
「……え?」
男性はもう一度話した。
今度は少しゆっくりだったが、結果は同じだった。
聞いたことのない言葉だった。
透が戸惑っていると、男性も困ったような顔をした。
そして何かをつぶやきながら、その場を去っていった。
「……言葉も通じないのかよ」
透は、その背中を見送った。
知らない街。
知らない人々。
知らない言葉。
財布には日本円しか入っていない。
ここがどこなのかも、自分がなぜここにいるのかも分からない。
帰り方も分からなかった。
「……詰んでないか、これ」
笑ってみた。
まったく面白くなかった。
*
どれくらい歩いたのだろう。
気づけば、空は暗くなり始めていた。
透は街の中央にある広場へたどり着いた。
石造りの噴水を囲むように、いくつもの露店が並んでいる。
焼いた肉の匂い。
香辛料の匂い。
パンのようなものを焼く匂い。
腹が鳴った。
そういえば、昼から何も食べていなかった。
透は露店の一つに近づいた。
小さな焼き菓子が並んでいる。
中には、リンゴに似た果物が入っているようだった。
透は財布を取り出し、百円玉を一枚、店主の女性へ見せた。
女性は不思議そうな顔をした。
透は焼き菓子を指さした。
「これ、一つ……」
女性が何かを尋ねる。
透は硬貨をもう一度見せた。
女性は首を横に振った。
透は慌てて千円札も取り出した。
しかし、女性の表情は変わらない。
「……ですよね」
透は小さく頭を下げ、店を離れた。
結局、何も買えなかった。
広場の隅にある石段へ腰を下ろす。
スマートフォンを確認する。
電池残量は43パーセント。
透は画面を消した。
充電できる場所があるとは思えない。
これ以上、無駄に使わない方がいいだろう。
「……帰れんのかな」
声に出してみた。
しかし、誰も答えてはくれなかった。
そのとき、目の前に小さな影が落ちた。
顔を上げる。
少女が立っていた。
十歳くらいだろうか。
栗色の髪を肩の辺りで切りそろえ、両手で小さな紙袋を抱えている。
少女は、少し離れた位置から透を見つめていた。
「……?」
透が首をかしげると、少女は何かを言った。
やはり、理解できなかった。
「ごめん、分かんないんだ」
透が首を横に振る。
少女は少し困ったような顔をした。
しかし、すぐには立ち去らなかった。
透の顔を見て、それから紙袋へ目を落とす。
しばらく迷った後、少女は袋を開いた。
中には、小さな焼き菓子が入っている。
先ほど、透が買おうとしていたものだった。
少女は一つ取り出しかけて、手を止めた。
それから、後ろを振り返った。
店主の女性がこちらを見ていた。
少女は女性に何かを尋ねる。
女性は少し考えてから、うなずいた。
それを確認すると、少女は再び焼き菓子を差し出した。
「……俺に?」
少女は小さくうなずいた。
透は受け取ろうとして、手を止めた。
「でも、お金……」
通じるはずのない言葉を口にする。
少女は透の手を見て、それから焼き菓子をもう一度差し出した。
透は少し迷った。
けれど、空腹には勝てなかった。
「……ありがとう」
透が受け取ると、少女は安心したように笑った。
焼き菓子を口に運ぶ。
甘い。
少し酸味があって、中には柔らかい果実が入っていた。
空腹だったせいもあるだろう。
驚くほどおいしかった。
「……うま」
透が思わずつぶやくと、少女は少し嬉しそうな顔をした。
透はもう一度、頭を下げた。
「ありがとう。本当に助かった」
少女には意味が分からなかったようだが、透が笑うと、小さく笑い返してくれた。
やがて少女は、店へ戻ろうとした。
「あ、ちょっと待って」
透が声をかける。
少女が振り返った。
透は自分の胸に手を当てた。
「トオル」
少女は不思議そうに首をかしげた。
「トオル」
もう一度、ゆっくり言う。
少女はしばらく考え、それから自分の胸に手を当てた。
「ミナ」
「……ミナ?」
少女はうなずいた。
透は少し笑った。
「ミナ。ありがとう」
少女も笑った。
透は少女の名前をもう一度つぶやいた。
「ミナ……」
この街へ来てから、分からないことばかりだった。
場所も、言葉も、人々の暮らしも。
この先どうなるのかも分からない。
せめて、分かったことだけでも記録しておこう。
そう考えて、透は鞄から小さな手帳を取り出した。
仕事で使っていたものだった。
後ろのページを開き、ボールペンを走らせる。
『ミナ。十歳くらい。広場で焼き菓子をくれた』
少女は興味深そうに手帳をのぞき込んだ。
そこに書かれた文字を見て、目を丸くする。
そして、何かを尋ねてきた。
「……日本語、分かんないよな」
透は苦笑した。
少女は手帳の文字を指さし、もう一度何かを言った。
透は最初の文字を指さした。
「ミナ」
少女は何かを理解したらしい。
自分の名前を繰り返した。
透は少し笑った。
次に、自分の名前を書き、その文字を指さした。
「トオル」
少女が繰り返す。
「トオル」
発音が少し違っていた。
二人は顔を見合わせた。
そして、笑った。
その様子を、先ほどの女性が店の向こうから見ていた。
やがて女性が少女を呼ぶ。
少女は振り返り、透に小さく手を振った。
透も手を振り返した。
少女が店へ戻ると、女性はその髪についた小さな葉を取ってやった。
少女は何かを話し、女性は少し呆れたように笑った。
透は、その様子をぼんやりと眺めていた。
後になって、あの店主がミナの母親で、エルナという名前なのだと知ることになる。
*
その日の夜、透は広場の近くにある共同寝所へたどり着いた。
夕方、店主の女性が身振りで道を教えてくれた場所だった。
しかし、寝所の管理人は、透の日本円を見ても首を横に振るだけだった。
透は困り果てた。
何度も頭を下げる。
管理人は腕を組み、透をしばらく見つめていた。
そして、奥に積んであった木箱を指さした。
次に、その木箱を別の場所へ運ぶような仕草をした。
「……運べってこと?」
透が木箱を持ち上げると、管理人はうなずいた。
透は指定された場所へ木箱を運んだ。
管理人はさらに別の箱を指さした。
透はそれも運んだ。
結局、十個以上の荷物を運ぶことになった。
作業が終わる頃には、腕が痛くなっていた。
しかし、管理人は透を寝所の奥へ案内してくれた。
そこには、硬い寝台がいくつも並んでいた。
どうやら、働いた分だけ一晩寝かせてもらえるらしい。
「……助かった」
透は深く頭を下げた。
管理人は何かを言った。
透には分からなかった。
それでも、今夜寝る場所ができたことだけは分かった。
寝台に腰を下ろす。
鞄を開く。
財布。
スマートフォン。
手帳。
ボールペン。
折り畳み傘。
仕事で使っていた小物。
大したものは入っていなかった。
けれど、今の透にとっては、日本とつながっている数少ないものだった。
透は手帳を開いた。
今日の出来事を書き込む。
見知らぬ街。
通じない言葉。
使えないお金。
食事をくれた少女。
そして、これから必要なこと。
『1.言葉を覚える』
『2.この場所がどこなのか調べる』
『3.日本に帰る方法を探す』
透は三つの項目を見つめた。
帰りたい。
それが、今の自分にとって一番大切なことだった。
しかし、帰る方法を探すにも、まずはこの世界で生きていかなければならない。
食べ物。
寝る場所。
お金。
言葉。
そのどれもが足りなかった。
透はペンを持ち直した。
『まず、生き延びる』
そう書いて、手帳を閉じた。
明日も、あの店へ行ってみよう。
仕事を手伝わせてもらえるかもしれない。
それに、できればもう一度、少女に会いたかった。
まだ、きちんとお礼を言えていなかったからだ。




