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灰の年代記  作者: 遠野綴
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第四話 存在しない人間

 朝になっても、街は元に戻っていなかった。


 透は広場の石段に座り、行き交う人々を眺めていた。


 昨夜はほとんど眠れなかった。結局、寝る場所も見つからず、建物の軒下で夜を明かした。


 肩が痛い。


 傷ついた手のひらにも、乾いた血がこびりついていた。


 透は近くの水場で手を洗い、鞄からハンカチを取り出した。水に濡らして傷口の汚れを落とすと、思った以上に痛んだ。


「……最悪だな」


 誰に聞かせるでもなく、つぶやく。


 市場へ向かう人々は、透の横を足早に通り過ぎていく。


 昨日まで見慣れていた朝の光景だった。


 ただし、道の先にある建物は違う。市場の入口には昨日までなかった石の門が立ち、広場の噴水には見覚えのない彫刻がついていた。


 それでも人々は、何事もなかったように歩いている。


 本当に、何事もなかったのだろうか。


 透は立ち上がった。


 目指すのは役所だった。


 あの雨について、少しでも情報が欲しかった。


     *


 役所の前には、長い列ができていた。


 建物そのものも変わっていた。昨日までは平たい屋根だったはずなのに、今は正面に大きな時計が取り付けられている。


 入口には掲示板があり、人々が足を止めて文字を読んでいた。


 透も近づいてみる。


 現地の文字はある程度読めるようになっていたが、行政文書となると知らない単語が多い。


 何度か読み返して、ようやく意味をつかんだ。


『異史雨発生後の申告受付』


 その下には、複数の窓口が案内されていた。


 建物の損害。


 財産の不一致。


 住民情報の確認。


 そして、記憶の不一致。


 透は最後の文字を見つめた。


 記憶の不一致。


 昨日、自分の身に起きたことを指しているように思えた。


 その列に並ぶ。


 前には、荷物を抱えた中年の女性がいた。


 女性は同行していた男性に、何度も同じことを話していた。


「だから、昨日まではあそこに店があったの。父が建てた店なのよ」


 男性は黙って聞いていた。


「三十年もあそこで暮らしてきたのに、今朝行ったら知らない人が住んでいるって……」


 女性は途中で言葉を詰まらせた。


 透は思わず顔を上げた。


 この人も覚えている。


 雨が降る前の街を。


 話しかけようとして、やめた。


 今は、役所で事情を聞く方が先だった。


 それに、女性はそれどころではなさそうだった。


     *


 一時間ほど待って、ようやく透の番になった。


 窓口には、三十代くらいの女性職員が座っていた。


 机の上には書類が山積みになっている。目の下には疲れが見えたが、透が腰を下ろすと、丁寧に挨拶をした。


「異史雨についてのご相談ですね」


「……はい」


「どのようなことでしょうか」


 透は少し迷った。


 何から説明すればいいのか分からなかった。


「昨日、黒い雨が降ったとき、俺は広場にいたんです」


 職員がうなずく。


「それで、一緒にいた女の子が……いなくなったんです」


「行方不明ということですか?」


「そう、だと思います。でも……」


 透は言葉を探した。


「その子の母親に会ったら、半年前に亡くなったって言われて」


 職員の手が止まった。


 しかし、驚いた様子はなかった。


「……なるほど」


 彼女は書類を一枚取り出した。


「お話を伺う限り、異史雨による歴史の不一致が起きている可能性があります」


「歴史の……不一致?」


「はい。少し確認させてください」


 職員は透の名前と、昨日まで暮らしていた場所を尋ねた。


 透は覚えている範囲で答えた。


 共同寝所の場所。


 市場で働いていたこと。


 エルナの店。


 そして、ミナの名前。


 職員はそれを書き留め、奥の部屋へ向かった。


 しばらくして、厚い帳簿を持って戻ってきた。


「お待たせしました。まず、こちらをご確認ください」


 職員は開いた帳簿を透の前に置いた。


 そこには住民の名前や住所が並んでいた。


 文字を読むのに少し時間がかかったが、透は一つの名前を見つけた。


 エルナ。


 確かに、ミナの母親の名前だった。


 その下には、家族に関する記録があった。


 娘、ミナ。


 十歳。


 半年前、病死。


 透は息を止めた。


「……これ」


「現在の住民記録です」


「昨日までは、違ったんです」


 透は顔を上げた。


「ミナは生きてました」


 職員は否定しなかった。


 ただ、静かに答えた。


「その可能性はあります」


 透は思わず身を乗り出した。


「じゃあ、やっぱり……!」


「ただし、こちらの記録も、現在の歴史では正しいものとして存在しています」


 透は眉をひそめた。


「……どういう意味ですか?」


 職員は少し考えた。


 そして、机の上に置いてあった紙を裏返し、二つの四角を描いた。


「異史雨について、どの程度ご存じですか?」


「……ほとんど何も」


「では、簡単に説明します」


 彼女は一つ目の四角を指さした。


「これは、昨日までの街だと思ってください」


 次に、二つ目の四角を指さす。


「そして、こちらが今の街です」


 二つ目の四角には、少し違う形の家を描き加えた。


「異史雨が起きると、雨の影響を受けた地域が、別の歴史で成立していた状態へ置き換わることがあります」


「……別の歴史?」


「例えば、ある場所に家が建っていたとします。でも、別の歴史では、その家が建てられなかったかもしれません」


 職員は一つ目の四角に家を描き、二つ目には木を描いた。


「異史雨が起きると、家があった場所に木が現れることがあります。家が壊れたわけではありません。最初から家が建てられなかった歴史の、その場所の状態になるんです」


 透は紙を見つめた。


 昨日、目の前で起きた光景が頭に浮かんだ。


 突然、形を変えた家。


 消えた木。


 現れた段差。


「……じゃあ、人間も?」


 職員はうなずいた。


「はい。人も、その地域の歴史と無関係ではありません」


 透は喉が渇くのを感じた。


「その別の歴史で……生きてなかったら?」


「その人が現在のその場所に存在しない場合もあります」


 透は言葉を失った。


 職員は続けた。


「今回、あなたが探している少女についても、そうした変化が起きた可能性があります」


「……じゃあ」


 透は何とか声を出した。


「ミナは、死んだってことですか?」


 職員はすぐには答えなかった。


「今の街の記録では、半年前に亡くなっています」


「でも、昨日までは生きてました」


「はい。あなたのお話では、そうです」


「じゃあ、どっちなんですか」


 自分の声が強くなっていることに、透は気づいていた。


 しかし、抑えられなかった。


「生きてたのか、死んでたのか。どっちが本当なんですか」


 職員はしばらく黙っていた。


 やがて、静かに答えた。


「……私には、どちらかを間違いだと断言することはできません」


 透は唇を噛んだ。


 そんな答えが欲しいわけではなかった。


 職員は説明を続けようとしたが、透はそれを遮った。


「戻せないんですか?」


「……何をでしょうか」


「雨が降る前の状態に」


 透は机の上の紙を指さした。


「別の歴史になったんなら、元の歴史に戻す方法もあるんじゃないですか?」


 職員は困ったように眉を寄せた。


「異史雨を人為的に元へ戻す方法は、少なくともこの街では確認されていません」


「帝都なら?」


「研究している機関はあります。ただ、私から確かなことは申し上げられません」


 透は黙った。


 何も分からない。


 けれど、今までよりは少しだけ状況が見えてきた。


 少なくとも、昨日の出来事は自分一人の勘違いではなかった。


     *


 職員は別の書類を取り出した。


「もう一つ、確認したいことがあります」


「……何ですか」


「あなたは、昨日の雨が降ったとき、どこにいましたか?」


「広場です」


「広場の、どの辺りでしょう」


 透は窓から見える方向を指さした。


「噴水の近くです。鐘楼が見えるところで……」


 職員は机の上の地図を広げた。


 昨日の異史雨が発生した範囲を示したものらしい。


 街の中心部が、大きな線で囲まれていた。


「……こちらですか?」


 透はうなずいた。


「はい。そこです」


 職員は少し首をかしげた。


 もう一度、地図を見る。


「……間違いありませんか?」


「間違いないです」


 職員は黙って地図を見つめた。


「……何かおかしいんですか?」


 透が尋ねると、彼女は顔を上げた。


「異史雨の影響範囲にいた人は、通常、その地域の歴史とともに変化します」


「……はい」


「ですので、以前の記憶を持つ方は、多くの場合、影響範囲の外側にいた方なんです」


 透は意味を理解するまで、少し時間がかかった。


「……外側?」


「はい。雨域の外にいた人まで、記憶が置き換わるわけではありません」


 透は職員を見つめた。


「じゃあ……俺以外にも、昨日のことを覚えてる人がいるんですか?」


「もちろんです」


 あっさりと返ってきた言葉に、透は思わず息を止めた。


「今回の異史雨も、街全体を覆ったわけではありません。影響範囲の外にいた方や、外から来た方は、以前の状態を覚えていることがあります」


 透は、今朝役所の前で見た女性を思い出した。


 父親が建てた店がなくなったと訴えていた人。


 あの女性も、昨日までの街を覚えていたのだ。


「……じゃあ、ミナのことも」


 透は職員へ尋ねた。


「覚えている人がいるかもしれない?」


「可能性はあります」


 胸の奥が、急に熱くなった。


 昨日から、誰に話しても信じてもらえなかった。


 自分の言葉も、手帳に残った文字も、誰にも通じなかった。


 けれど、ほかにも覚えている人がいる。


 それなら。


「その人たちは、どこにいるんですか?」


「……以前の歴史を覚えている方ですか?」


「はい」


 職員は少し驚いた様子だったが、地図を指さした。


「雨域の外側です。特に西門の向こうは、今回ほとんど影響を受けていません」


 透はその場所を確認した。


 歩いて行けない距離ではない。


 今すぐにでも向かいたかった。


 しかし、職員が呼び止めた。


「すみません。もう一点だけ」


 透は振り返る。


「あなたは、本当に広場の中にいたんですよね?」


「……はい」


「それなのに、昨日までの記憶がある」


「そうです」


 職員は、少し考え込んだ。


「……お名前を、もう一度教えていただけますか」


「白瀬透です」


 職員は書類に名前を書き込んだ。


「この街に来たのは、いつ頃ですか?」


「三か月前です」


「出身地は?」


 透は答えに詰まった。


 日本と言っても、誰も知らない。


 これまで何度も説明しようとして、うまく伝わらなかった。


「……すごく遠い国です」


「国名は?」


「日本です」


 職員は聞き慣れない名前を繰り返した。


「……ニホン?」


「はい」


 彼女はしばらく考え、机の上にある地図を見た。


 しかし、やはり分からないようだった。


「申し訳ありません。その国について、私は存じ上げません」


「……そうですよね」


 透は小さく息を吐いた。


 職員は名前を書いた紙を手元へ寄せた。


「現在の記録には、あなたの滞在情報が見つかりませんでした。雨の前からこの街にいたというお話も含めて、申告として残しておきます」


「……分かりました」


「ただ、影響範囲の内側で以前の記憶を保っていたという点は、少し珍しい事例です。詳しくお話を伺う必要があるかもしれません」


 透は黙ってうなずいた。


 職員は受付票を一枚渡した。


「これは身分証明ではありませんが、今日の申告内容を確認するためのものです。なくさないでください」


 透は紙を受け取った。


 そこには、自分の名前が書かれていた。


 少なくとも、今この瞬間には。


     *


 役所を出ると、透はすぐに西門へ向かった。


 昨日までの記憶を持っている人がいる。


 そのことばかり考えていた。


 市場を通り抜け、街の西側へ向かう。


 途中、見覚えのない建物がいくつもあった。以前は通れたはずの道が行き止まりになっていて、何度か遠回りをすることになった。


 それでも、歩くのをやめなかった。


 やがて、西門が見えてきた。


 石造りの門の周辺には、大勢の人々が集まっていた。


 荷車が並び、外から来た商人たちが荷物を確認している。街の中心部と違って、この辺りの景色には見覚えがあった。


 門の外へ出る。


 そこで透は足を止めた。


 街道の脇に、古い木製の看板が立っていた。


 その隣には、小さな屋台があった。


 透はその屋台を知っていた。


 市場へ向かう途中、何度か買い物をしたことがある店だった。


 店主は年配の男性で、いつも街の外から品物を運んできていた。


 透は急いで近づいた。


「あの!」


 男性が顔を上げた。


「……おや」


 透は息を止めた。


 男性は目を細め、透の顔をじっと見た。


「市場の若いのじゃないか」


 透は、一瞬何も言えなかった。


「……俺のこと、覚えてるんですか?」


「そりゃ覚えてるよ。いつも荷物を運んでただろう」


 男性は不思議そうに笑った。


「どうしたんだ、そんな顔して」


 透はその場で立ち尽くした。


 覚えている。


 この人は、自分を覚えている。


 昨日までのことを。


 三か月間、自分がこの街で暮らしていたことを。


「……あの」


 透は声を絞り出した。


「ミナっていう女の子、知ってますか?」


 男性は少し考えた。


「ミナ……ああ、エルナさんの娘さんか」


 透は思わず一歩近づいた。


「知ってるんですね?」


「ああ。時々、母親の店を手伝ってた子だろう。地図を描くのが好きな」


 透は何度もうなずいた。


「そうです。その子です」


 男性は透の様子を見て、笑みを消した。


「……どうした?」


「昨日、黒い雨が降って……」


 透は言葉に詰まった。


 何から説明すればいいのか分からなかった。


「ミナが、いなくなったんです」


 男性は黙った。


 透は続ける。


「エルナさんに聞いたら、半年前に亡くなったって……でも、俺は昨日まで一緒にいて」


 男性はゆっくりとうなずいた。


「……そうか」


 そして、街の方へ目を向けた。


「今回の雨で、変わってしまったんだな」


 透は、その言葉に胸を締めつけられた。


 変わってしまった。


 男性は、あまりにも自然にそう言った。


 透は思わず尋ねた。


「……ミナが生きてたこと、覚えてますよね?」


「ああ」


「昨日まで、普通に暮らしてたんですよね?」


「覚えてるよ」


 男性は、まっすぐ透を見た。


「三日前も、あの子が市場にいるのを見た」


 透は目を伏せた。


 昨日から、何度も何度も説明した。


 誰も信じてくれなかった。


 なのに、今はたった数言で通じている。


「……よかった」


 透は小さくつぶやいた。


 男性は何も言わなかった。


 透は、ようやく顔を上げた。


「俺だけじゃなかったんですね」


「ああ。あんた一人じゃない」


 その言葉を聞いた途端、透は力が抜けそうになった。


 ミナを覚えている人がいる。


 自分と同じ昨日を知っている人がいる。


 それだけで、少しだけ息ができるようになった気がした。


 しかし、男性は静かに続けた。


「……ただな」


 透は顔を上げた。


「覚えているからといって、あの子が戻ってくるわけじゃない」


 透は答えられなかった。


 男性は街の方へ視線を向けた。


「俺も、昔、雨で家族を失ったことがある」


 透は男性を見た。


「家族を……?」


「ああ。俺のいた場所は無事だったが、家族のいた家が雨に巻き込まれてな」


 男性は淡々と話した。


「新しい歴史では、そもそも俺は結婚していなかったことになっていた」


 透は言葉を失った。


「俺のことを知っている人はいた。でも、妻のことを覚えている人は少なかった」


 男性は少しだけ笑った。


 寂しそうな笑顔だった。


「だから、あんたの気持ちは少し分かる」


 透は何も言えなかった。


 男性は、それ以上何も話さなかった。


 透も尋ねなかった。


 しばらく、二人で街を眺めていた。


 西門の向こうには、いつもの街並みが広がっている。


 しかし、その先にあるはずの広場は、昨日までとは違う姿になっていた。


 透は、鞄の中の手帳に手を触れた。


 ミナが書いた文字が、そこに残っている。


 そして今、自分以外にもミナを覚えている人がいる。


 それでも、ミナ本人は戻ってこない。


 透は唇を噛んだ。


 まだ、納得できなかった。


 何が起きたのかも、十分には分かっていない。


 このまま諦める気にはなれなかった。


「……帝都に行こうと思ってるんです」


 透が言うと、男性はうなずいた。


「そうか」


「歴史を研究してる人がいるって聞いたので」


「ああ。帝都なら、この街よりずっと詳しい人間がいるだろう」


 透は深く息を吸った。


「調べてみます」


「……ああ」


 男性は、それ以上何も言わなかった。


     *


 帰り道、透は乗合馬車の停留所へ立ち寄った。


 帝都行きの馬車が、明後日の朝に出るという。


 以前調べたときより、料金表が少し変わっていた。


 透は掲示板を読み、鞄から財布を取り出した。


 日本で使っていた、黒い革の財布だった。


 中には、この街で三か月間働いて貯めた硬貨が入っている。


 そのはずだった。


「……あれ?」


 透は財布を開いたまま、動きを止めた。


 硬貨が違っていた。


 銅色の硬貨が中心だったはずなのに、銀色のものが混ざっている。


 刻まれている紋章も、見覚えのないものだった。


 一枚取り出して、指先で裏返す。


 違う。


 こんな硬貨は持っていなかった。


 透は財布の中身を机の上へ並べた。


 枚数も、額面も違っていた。


「……何だよ、これ」


 近くにいた係員が声をかけてきた。


 透は慌てて硬貨をまとめた。


「あの、これ……今、使えるお金ですか?」


 係員は硬貨を一枚受け取り、表裏を確かめた。


「もちろん使えますよ」


「……そうですか」


 透は硬貨を数え直した。


 新しい額面と、掲示されている運賃を見比べる。


 そして、気づいた。


 足りている。


 昨日までは、あと数日働かなければ帝都へ向かえなかった。


 しかし、今の財布に入っている硬貨なら、乗合馬車の料金を払うことができる。


 しかも、少し余る。


 透は硬貨を握りしめた。


 異史雨。


 建物が変わった。


 人々の記憶が変わった。


 ミナがいなくなった。


 そして、今度は金まで変わっている。


 透は、黒い革の財布を見つめた。


 財布そのものは変わっていない。


 日本から持ってきたものだ。


 しかし、中に入れていた硬貨は、昨日までとは別のものになっていた。


 その違いに、何か意味があるのだろうか。


 透には分からなかった。


「お客さん、切符をお求めですか?」


 係員が尋ねた。


 透は顔を上げた。


 帝都へ行く。


 三か月間、そのために働いてきた。


 ようやく旅費が貯まった。


 けれど、こんな形で足りてほしかったわけではない。


 あと数日、働きたかった。


 市場で荷物を運んで。


 エルナに小言を言われて。


 ミナと話して。


 それから、ちゃんと別れを告げたかった。


 透は財布を閉じた。


「……帝都まで、一枚お願いします」


 係員はうなずき、切符を取り出した。


 透は硬貨を差し出した。


 受け取った切符には、明後日の出発時刻が書かれていた。


 透はそれを鞄にしまった。


     *


 停留所を出る頃には、空が赤く染まり始めていた。


 透は市場の方へ歩き出した。


 途中、エルナの店がある通りの前で足を止めた。


 店の明かりが見える。


 中では、エルナが一人で片付けをしていた。


 透は、しばらくその姿を眺めていた。


 昨日まで、あの店にはミナがいた。


 いつも夕方になると、学校から戻ってきて、母親の仕事を手伝っていた。


 透の姿を見つけると、すぐに声をかけてきた。


 しかし今、店の中に少女の姿はない。


 透は一歩、店へ近づいた。


 そして、足を止めた。


 昨日のエルナの顔が浮かんだ。


『もう、娘の話をしないで』


 透は拳を握った。


 間違っている。


 自分は嘘をついていない。


 ミナは確かに、昨日まで生きていた。


 それでも、今あの店へ行って何を話せばいいのだろう。


 昨日と同じことを繰り返して、またエルナを泣かせるのか。


 透はしばらく動けなかった。


 やがて、ゆっくりと背を向けた。


 答えが出たわけではない。


 エルナの言葉を受け入れたわけでもない。


 ただ、今は何を言っても伝わらない気がした。


 透は鞄から手帳を取り出した。


 ミナが書いた二つの名前。


 そして、街から遠く離れた場所へ続く一本の線。


 透はその地図を眺めた。


 少女は、自分が帰れるようにと道を描いてくれた。


 実際には存在しないかもしれない道を。


「……行ってくるよ」


 透は小さくつぶやいた。


 誰に聞かせるつもりでもなかった。


 もちろん、返事はなかった。


 手帳を閉じ、鞄へしまう。


 明後日、帝都へ向かう。


 日本へ帰る方法を探すために。


 そして、あの雨が何だったのかを知るために。


 透は夕暮れの通りを歩き始めた。


 その背後で、鐘楼が静かに時を告げた。

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