後輩にラテン語で嫉妬する氷の姫
文化祭での予想外のトラブルと、それを乗り越えた熱狂のステージから数日が経った。
あの日以来、僕――結城奏の周りの空気は少しだけ変わった。
廊下を歩いていると、すれ違う女子たちからチラチラと視線を向けられたり、下足箱に見知らぬ手紙が入っていたりする。どうやら「地味で冴えない結城」という僕の隠れ蓑は、あの停電ステージのせいで完全に吹き飛んでしまったらしい。
とはいえ、僕自身は何も変わっていない。目立つのは面倒だし、放課後は相変わらず喧騒から逃げるように、旧校舎のクラシックギター同好会へと足を運んでいた。
「ふう……」
いつものように部室のパイプ椅子に座り、ギターのチューニングを始める。
ほどなくして、コツ、コツと硬質な足音が廊下に響き、控えめだが堂々とした手つきで扉が開かれた。
「……今日も日本の学校は騒がしいわね。仕方ないから、休憩しに来てあげたわ」
銀色の髪を揺らし、氷の仮面を被った王女様、アレクサンドラだ。
彼女は定位置となった僕の隣の椅子に座ると、ふいっとそっぽを向いて小さく呟いた。
「Semper tecum esse volo...《……今日もあなたの隣にいられて、すごく嬉しい》」
甘い本音に、僕の顔がカッと熱くなる。
文化祭以降、彼女のラテン語デレはますます威力を増していた。なんとか平静を装い、「お茶、淹れるよ」と立ち上がろうとした、まさにその時だった。
――バンッ!!
遠慮のかけらもない勢いで、部室の扉が大きく開け放たれた。
「結城センパ〜イっ!! 探しましたよー!」
「えっ?」
勢いよく飛び込んできたのは、少し短くしたスカートにカーディガンを羽織った、いかにも明るい今どきの女子生徒だった。
彼女は僕を見つけるなり、パァァッと顔を輝かせて駆け寄ってくる。
「文化祭のステージ、すっごくかっこよかったです! アタシ、1年の日野莉子っていいます! センパイにギター教えてほしくて来ちゃいました!」
「わわっ、ちょっと日野さん、距離が……!」
日野さんは躊躇なく僕の腕にギュッと抱きつき、下から上目遣いで覗き込んでくる。
その圧倒的な「物理的距離の近さ」と人懐っこさに、僕は完全にペースを飲まれてしまった。
ガチャンッ!
ふと横を見ると、アレクサンドラが持参した高級茶葉の缶を取り落としていた。
彼女は目を見開き、信じられないものを見るような顔で、僕の腕に抱きつく日野さんを凝視している。
「あ、あれ? センパイ、この外人さんの超美人、誰ですか? もしかして彼女さん?」
「ち、違うよ! 彼女はクラスメイトの――」
僕が慌てて否定するより早く、アレクサンドラがスッと立ち上がった。
彼女は王女としての絶対的な威厳を漂わせ、絶対零度の視線を日野さんに下ろす。
「……騒がしい後輩がたまたま迷い込んだのね。ここは私と結城の静かな場所よ。部外者は速やかに退室してちょうだい」
並の生徒なら、このオーラだけで逃げ出すだろう。
しかし、日野さんのメンタルは無敵だった。
「えーっ、でもここ『同好会』ですよね? アタシも入部すれば部外者じゃないじゃないですか! ねっ、センパイ!」
「うっ、まぁ、一応誰でも入れることにはなってるけど……」
「やったー! じゃあセンパイ、さっそくギター教えてください! 手、こうですか?」
日野さんは全く怯むことなく、僕の膝の上にあるギターに身を乗り出し、僕の左手に自分の小さな手を重ねてきた。
「あっ、ちょ、日野さん、コードの押さえ方はこうで……」
「ん〜? センパイの指、長くて綺麗ですね! えへへ、なんかドキドキしちゃう」
無邪気に僕の指に触れてくる日野さん。
その瞬間、アレクサンドラからゴゴゴゴゴ……と擬音が見えそうなほどの黒いオーラが立ち上った。
彼女は優雅な笑みを顔に貼り付け、日本語で静かに言い放つ。
「……ふん、素人に一から教えるなんて、時間の無駄ではなくて?」
だが、その直後。
彼女の口から、機関銃のような早口の『ラテン語』が乱れ咲いた。
「Noli tangere!《ちょっと離れなさいよその泥棒猫!!》」
「|Digiti illi pulchri mei sunt!《結城の綺麗な指に触っていいのは私だけなんだから! ああっ、距離が近すぎるっ! ムカつく!》」
「Quid illa puella est?! Incredibile!《な、なんなのあの雌猫は!? 信じられない! 結城も鼻の下伸ばしてんじゃないわよバカ!》」
(ヤ、ヤバいヤバいヤバい!! 王女様がめちゃくちゃキレてるし、泣きそうになってる!!)
何を言っているかわかってしまう僕の脳内は、嫉妬でパニックを起こしたアレクサンドラの過激な本音のシャワーを浴びて、完全にショート寸前だった。冷や汗が滝のように背中を伝う。
「あー、難しい! アタシの手じゃ届かないかも〜」
「そ、そうだね、初心者にはちょっとネックが太いかもしれないな……」
僕がなんとか冷静さを保とうと必死になっていると、日野さんがパチンと手を叩いた。
「そうだ! じゃあセンパイ、アタシ自分のギターが欲しいです! 今度のお休み、一緒に楽器屋さんに選んで買いに行ってくれませんか?」
「えっ、僕が?」
「はい! センパイとお買い物……つまり、デートですっ!」
ニコッと満面の笑みでウインクする日野さん。
――ダンッ!!
その言葉を聞いた瞬間、アレクサンドラが力任せに机を叩いた。
ビクッとする僕と日野さんをよそに、アレクサンドラは腕を組み、かつてないほど気高い笑顔を浮かべて堂々と宣言した。
「……私も行きますわ」
「えっ」
「えー?アレクサンドラさんは先輩の彼女じゃないんですよね?」
「日本の庶民の楽器店を視察するのも、私のような立場の人間には外交の一環として楽器店の視察も大切ですから」
そう言ってツンと顎を上げたアレクサンドラ。
しかし、彼女の震える唇からは、とどめの『ラテン語』が放たれていた。
「|Numquam ignoscam... Semper iuxta eum ero!《絶対に許さない……! 休日も結城の隣を歩くのは、私なんだから……っ!》」
その声には、怒りよりも、誰かに僕を取られてしまうかもしれないという切実な焦りが滲んでいて――不覚にも、僕はそんな彼女をひどく愛おしく思ってしまった。
「え〜? まぁいっか! じゃあ3人で行きましょうね、センパイ!」
「あ、ああ……うん」
僕を巡ってバチバチと火花を散らす、距離感バグの後輩ギャルと、嫉妬を爆発させる氷のツンデレ王女様。
平穏だった僕の放課後は、どうやら本格的に終わりを告げてしまったらしい。
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