お茶に賛美を
翌日の放課後。
今日もクラスの喧騒から逃れるように、僕は旧校舎の奥にあるクラシックギター同好会の部室へと足を運んだ。
昨日の出来事――アレクサンドラがここで涙ぐみながらラテン語で呟いた言葉――が頭から離れない。あれは幻だったんじゃないか。そんなことを考えながら、いつものようにギターケースを開けようとした時だった。
ガラッ。
昨日よりも少しだけ遠慮がちに、だが堂々とした足音とともに扉が開いた。
「……また来たわよ」
振り返ると、そこに立っていたのは、銀髪を夕日に輝かせた氷の王女様、アレクサンドラだった。
「あ、えっと……いらっしゃい」
「勘違いしないでよね。日本の学校はどこもかしこも騒がしすぎるのよ。だから、この誰も寄り付かない薄暗い部屋を、今日から私の専属の休憩所にしてあげるって言ってるの」
彼女はそう言ってツンとそっぽを向きながら、小さな缶を僕の机にコトンと置いた。
見慣れない細工が施されたその缶からは、蓋が開いていないにもかかわらず、微かに上品な香りが漂ってくる。
「母国から取り寄せた茶葉よ。場所代代わりに、私にお茶を淹れるという光栄をあげるわ」
王族特有の、ナチュラルな上から目線。
普通の男子高校生なら、あまりの美少女の威圧感にオドオドしてしまうかもしれない。しかし、僕の思考は全く別のことを考えていた。
(……この茶葉の香り、ポーンランド特有の微発酵茶か。だとすれば、お湯の温度は少し低めの85度前後。蒸らし時間は3分半がベストだな)
僕は優柔不断で流されやすい性格をしているが、実務や物事の段取りをするときは、自分でも引くくらい几帳面なのだ。特に、父から受け継いだギターの緻密なメンテナンス作業で培われた手際の良さは、こういう時に勝手に発動する。
「わかった。少し待ってて」
僕は戸棚からカセットコンロとケトルを取り出し、温度計で正確にお湯の温度を測り始めた。砂時計をセットし、安物だがピカピカに磨き上げたティーカップにお湯を注いで、ポットとカップをあらかじめ温める。
一切の無駄がないその動きを、アレクサンドラはパイプ椅子に座りながら目を丸くして見つめていた。
「お待たせ。どうぞ」
琥珀色の液体から、華やかで心を落ち着かせる香りが立ち上る。
アレクサンドラは恐る恐るカップを手に取り、そっと一口飲んだ。
その瞬間、彼女のサファイア色の瞳がパチリと大きく見開かれた。
だが、すぐに彼女はコホンと小さく咳払いをして、いつもの氷の仮面を被る。
「……ふん。庶民が淹れたにしては、まあ、マシな味じゃない。飲めなくはないわね」
日本語では、相変わらずの高飛車な塩対応。
しかし直後。カップに顔を隠すように俯きながら、彼女の口から微かな『ラテン語』がこぼれ落ちた。
「|Mirabile... Caloris et odoris perfectio est.《――信じられない……温度も香りも完璧。お城のメイド長でも、こんなに美味しく淹れられないわ》」
「|Hic locus adeo tranquillus est... Cor meum pacatur.《……すごく落ち着く。ここなら、ずっといられそう……》」
――ブワッ、と僕の顔に一気に熱が集まった。
やばい。やばいやばい。
「飲めなくはない」とか言っておきながら、大絶賛じゃないか! しかも「ずっといられそう」って、それもう最高の褒め言葉だろ!
古い教則本のおかげでラテン語を理解している僕の耳には、彼女の蕩けるような本音が鮮明に届いていた。
「……ど、どうしたの? 結城、顔が赤いけれど」
少し不思議そうに、そして怪しむように僕の顔を覗き込んでくるアレクサンドラ。
「な、なんでもない! ちょっとお湯を沸かして暑かっただけだから!」
僕は必死に誤魔化し、慌ててギターを抱え込むと、ポケットからガラスヤスリを取り出して無心で右手の爪の手入れを始めた。
心臓のバクバクという音が、彼女に聞こえてしまわないか本気で心配になる。
「……変な人」
アレクサンドラは小さく息をつくと、もう一度紅茶を口に含み、今度は本当に幸せそうな、年相応の柔らかい笑みを浮かべた。
夕暮れの旧校舎。クラシックギターと、ラテン語の甘い本音。
どうやら僕の静かなる聖域は、可愛くて厄介なお姫様に占拠されてしまったらしい。
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