ラテン語でデレるアレクサンドラさん
放課後。
クラスの女子たちが「ねえ、一緒にカフェ行かない?」とアレクサンドラに声をかけようとしたものの、あの冷徹なオーラに気圧されて誰も近づけず、彼女は早々に一人で教室を出ていった。
残された僕は、誰にも引き止められることなくそっと席を立ち、校舎の端へと足を向ける。
向かった先は、生徒が誰も寄り付かない旧校舎の、一番奥にある古びた教室。
――僕がたった一人で活動している「クラシックギター同好会」の部屋だった。
「ふう……」
誰もいない静寂に包まれた部屋。
窓を開けると、夕暮れのオレンジ色の光が、埃の舞う教室に優しく差し込んでくる。
僕は使い込まれたパイプ椅子に腰を下ろし、ギターケースから愛機を取り出した。
伝説的な製作家のスタイルを受け継いだ、少し大ぶりで年季の入ったヴィンテージのクラシックギター。表板には、かつて世界を渡り歩き、この国の古い音楽を愛した亡き父が残した無数の弾き傷が刻まれている。
父が遺した手書きのノートには、東欧の古い民謡や、中世の賛美歌の原典がラテン語で記されていた。
父の遺したその美しい音楽と真っ直ぐに向き合うために、僕は幼い頃からラテン語を勉強し、今では古い楽譜をきちんと読み解くことができる。
(今日は、父さんの音に近づけるか……)
雑念を払い、深呼吸をする。
左手の指先で硬い弦を押さえ、右手のしなやかな指がナイロン弦を弾く。
爪先から紡ぎ出されたのは、亡き父が愛したポーンランドの伝統曲。
物悲しく、どこか儚げでありながら、一度聴けば胸を締め付けられるほどに美しい、郷愁を誘う旋律。
この教室でこの曲を奏でている時だけは、病気で逝った父と心が繋がっているような気がして、俺は夢中でギターをかき鳴らす。
――その時。
ガラッ と、乱暴に教室の扉が開いた。
「っ……!」
反射的に手を止め、顔を上げる。
そこに立っていたのは、先ほどクラスで別れ際を見たはずのアレクサンドラだった。
彼女は息を荒くし、そのサファイア色の瞳を限界まで見開いて、信じられないものを見るように俺を見つめている。
「どうして……どうして、あなたがその曲を知っているの……?」
その声は、いつもの冷たい氷の仮面が剥がれ落ち、わずかに震えていた。
誰もいない旧校舎の奥。
王女としての鎧をまとったまま逃げ込んできた彼女の耳に、偶然にも、遠い故郷の懐かしい音色が届いてしまったのだ。
突然の侵入者に少し戸惑いつつも、僕はいつもの穏やかなトーンで声をかけた。
「……ここ、静かでいい場所だろ。もしよかったら、君も少し休んでいく?」
媚びることも、彼女の家柄を恐れることもなく、ただフラットに差し出された言葉に、アレクサンドラは息を呑んだ。
彼女はわずかに戸惑った様子を見せたが、やがてその美しい顔に再び強がりを貼り付け、ツンとした態度で足を踏み入れてくる。
「……勝手に勘違いしないでちょうだい。こんなホコリっぽい部屋で、一人でジメジメとギターを弾くなんて暗い趣味ね」
そう吐き捨てると、彼女は俺の隣のパイプ椅子にドスンと腰を下ろした。
――そして、ふいっとそっぽを向き、誰にも聞こえないと思ったのだろう。
彼女の微かに震える桜色の唇から、小さく、しかしはっきりと、美しい『ラテン語』がこぼれ落ちた。
「|Iniquum est……《……ずるい》」
「え?」
「|Sonus dulcis et calidus. Lacrimae meae non desinunt……《お父様と同じくらい、優しくて温かい音……。バカ、こんなの泣きそうになっちゃうじゃない》」
(※注:ラテン語は意訳・雰囲気です)
夕日の差し込む静かな教室で、高慢な氷の王女様が、真っ赤になりながら僕のギターに心を奪われ、ラテン語でデレている。
古い教則本を読み解くためにラテン語をマスターした俺の耳には、彼女の本音が、一言一句クリアに聞こえた。やはり寂しかったんだ、この子も。
僕は微笑みながら曲を弾き切った。
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