氷の姫の奪還
アレクサンドラの帰国前夜。都内の最高級ホテルに隣接する大使館のレセプションホールでは、ユーリ主催による「アレクサンドラ帰国及び婚約発表パーティー」が盛大に開かれていた。
「よし、監視カメラの死角は計算通りだ。日野さん、搬入口の警備員の視線を30秒だけ引きつけてくれ」
「了解ですセンパ〜イ! アタシの泣き落とし演技、見といてくださいね!」
ホテルの裏口。黒いウェイターの制服を身に纏った僕は、インカム越しに日野さんとやり取りをしながら、分刻みの潜入スケジュールを頭の中で組み上げていた。
僕はギターケースを抱えたまま、厳重な警備の網をすり抜け、メインホールのキャットウォークへと到達した。
眼下では、シャンデリアの眩い光の下、着飾った各国の要人たちが談笑している。
正面の豪奢なステージには、得意げな顔をしたユーリと、その隣で純白のドレスを着せられたアレクサンドラが立っていた。彼女の顔は抜けるように蒼白で、サファイアの瞳からは完全に光が失われている。
ステージの最前列には、ポーンランド国王――アレクサンドラの父親らしき威厳ある男性の姿もあった。
「皆様、本日は私の愛する婚約者、アレクサンドラの送別会にお集まりいただき――」
ユーリがマイクを握り、勝ち誇ったスピーチを始めた。
(……今だ)
僕はキャットウォークからPA(音響)ブースの配電盤にアクセスし、メイン照明のブレーカーを強制的に落とした。
バチンッ!
ホールが一瞬にして完全な暗闇に包まれ、ざわめきが起こる。
パニックが起きるより早く、僕は持参したピンスポットライトのスイッチを入れ、ステージの中央に立つアレクサンドラだけを光で照らし出した。
そして、手元のギターを構え、PAシステムに直結したマイクを通して、一音の和音をホール全体に響かせた。
「な、なんだ!? 警備員、不審者だ!」
ユーリが暗闇で喚くが、誰も動けない。
僕が奏で始めたのは、父の遺した革表紙のノートに記されていた、ポーンランドの【失われた幻の讃美歌】だったからだ。
それは、大国に蹂躙される前のポーンランドが建国の理念を歌った、古き良き郷愁と誇りの旋律。
深く、甘く、情念を孕んだギターの音色が、暗闇の中で波のように広がっていく。
「こ、この曲は……!」
最前列にいた国王が、弾かれたように立ち上がり、震える手で口元を覆った。
「おお……我々の祖先が歌い、歴史の闇に消えたはずの……なんと美しい……」
曲が終わると同時に、僕はメイン照明を復旧させた。
キャットウォークから飛び降り、ギターを抱えたまま、堂々とステージのアレクサンドラの前に歩み出る。
「き、貴様! あの時の平民の猿……! なぜここにいる!」
ユーリが激高して護衛を呼ぼうとするが、国王がそれを手で制した。
「待て、ユーリ。……少年よ、お前はなぜその幻の曲を知っている?」
国王の問いに、僕は真っ直ぐに目を見て答えた。
「僕の父が、かつてポーンランドの地を歩き、あなた方の失われつつある伝統と古い楽譜を愛し、翻訳して残してくれたからです」
国王は目を見開き、「そうか……あの東洋の求道者の……」と深く頷き、目に涙を浮かべた。
「ふ、ふざけるな! 警備員、こいつをつまみ出せ!」
ユーリが顔を真っ赤にして叫び、アレクサンドラの腕を乱暴に掴んだ。
「アレクサンドラ! お前からも言ってやれ! こんな極東の平民との時間はただの暇つぶしだったと! さあ、こいつを拒絶しろ!」
腕を掴まれ、アレクサンドラは痛みに顔を歪めた。
彼女は僕を見て、ポロポロと涙をこぼしながら、震える唇を開いた。
「……結城。来てくれて、うれしい。でも、あなたは来るべきじゃなかった……。私たちの時間は、ただの暇つぶし……だから、もう――」
心にもない日本語。
ユーリが満足げに笑う。
だが、僕は一歩前に踏み出し、彼女の言葉を遮るように、ホール全体に響き渡る声で『ラテン語』を放った。
「Ego te amo. Non sinam te ire.《――愛している。君を絶対に帰さない》」
その瞬間、ホールの空気が凍りついた。
現代の人間、ましてや極東の少年が口にするはずのない、古代言語による愛の告白。
ユーリは言葉の意味が分からず「な、なんだその呪文は……」と狼狽えている。
しかし、アレクサンドラには真っ直ぐに届いていた。
彼女の瞳に、再び強い光が宿る。
「Mecum mane, Alexandra.《僕のそばにいてくれ、アレクサンドラ》」
僕がまっすぐに手を差し出すと、彼女はユーリの拘束を力強く振りほどいた。
そして、純白のドレスを翻し、周囲の貴族や父親の目も気にすることなく、僕の胸に真っ直ぐに飛び込んできた。
「Etiam... Te amo! Te amo, Kanade!!《ええ……っ! 愛してるわ! 愛してる、奏……っ!!》」
彼女はラテン語で愛を叫びながら、僕の首に腕を回し、皆の目の前で、背伸びをして僕の唇に自分の唇を押し当てた。
「なっ……!? き、貴様ら、神聖な場でなんてふしだらな……っ!」
完全に蚊帳の外に置かれたユーリが発狂したように叫ぶが、その声を遮ったのは、他でもないポーンランド国王の豪快な笑い声だった。
「はっはっはっ! 見事なラテン語だ! 我が王家の源流たる言語で愛を誓い合うとは、ユーリ、お前の負けだ!」
「こ、国王陛下!?」
「我が国の魂を取り戻してくれた恩人の息子であり、娘がこれほどまでに愛する男だ。政略結婚など、もう必要ない!」
国王の鶴の一声で、会場から割れんばかりの拍手が巻き起こった。
ユーリは完全に面目を失い、膝から崩れ落ちる。
「……っ、やった……」
腕の中のアレクサンドラが、僕を見上げて涙混じりの極上の笑顔を見せた。
その顔は、氷の王女様ではなく、ただの恋する一人の女の子の顔だった。
「ねえ、奏」
「なに?」
「さっきの……もう一回言って?」
悪戯っぽく微笑む彼女の耳元で、僕はため息をつきながら、とびきり甘いラテン語をもう一度囁く。
「Semper tecum ero.《ずっと、君のそばにいるよ》」
華やかな大使館のホールの中央。
僕と僕の愛しいお姫様は、誰にも邪魔されない言葉の魔法に包まれながら、もう一度、深く口付けを交わすのだった。
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