秘密の代償
初恋。彼女は、僕を、僕との時間を、そんな風に思ってくれていたのか。
それなのに、彼女は国のために全てを殺し、たった一人で冷たい鳥籠の中へ帰ろうとしている。
「ハハッ、賢明な判断だ」
ユーリは満足げに笑うと、背を向けたまま、僕とこの部屋を嘲笑うように『ラテン語』で付き従う男たちに言い放った。
「Quam stultus puer. Nescit locum suum.《……滑稽な平民の猿だ。自分の身の程も分からず、王女に媚びを売るとは反吐が出る》」
彼らは、僕がラテン語を理解できるはずがないと完全にタカをくくっていた。
アレクサンドラも、絶望の中でギュッと目を閉じている。
――プツン、と。
僕の中で、絶対に切らしてはいけない理性の糸が、音を立てて切れた。
僕はギターを静かにケースに置くと、立ち上がり、ユーリの背中に向けて、氷のように冷たく、はっきりとした声で言葉を紡いだ。
「Tace, stulte.《――黙れ、愚か者》」
その瞬間、ユーリの動きがピタリと止まった。
彼は信じられないものを見るような顔で、ゆっくりとこちらを振り返った。
隣にいたアレクサンドラも、弾かれたように顔を上げ、サファイア色の瞳を極限まで見開いている。
僕は、これまでひた隠しにしてきた全てかなぐり捨て、真っ直ぐにユーリを睨み据えた。
そして、古い文献を読み解き、父から受け継いできた完璧な発音のラテン語で、明確な敵意を叩きつけた。
「Haec puella tua non est. Noli eam tangere.《彼女は、お前の所有物じゃない。その汚い手で、彼女に触れるな》」
「なっ……!? お前、き、貴様……なぜその言葉を……!」
極東の地味な高校生から放たれた、教養の極みである古代言語。
さらに、文化祭の時に西園寺を怯ませた「温度のない殺気」を何十倍にも濃縮した僕の視線に射抜かれ、ユーリは恐怖で顔を引き攣らせ、無様に数歩後ずさった。
「Hic locus noster est. Exi statim.《ここは、僕たちの大切な場所だ。二度と土足で踏み入るな。……今すぐ出て行け》」
絶対的な拒絶。
ユーリは顔を真っ赤にして何かを言い返そうとしたが、圧倒的な威圧感を前に言葉が出ず、「……こ、この屈辱、必ず後悔させてやる!」と捨て台詞を吐き、男たちを引き連れて逃げるように廊下へと消えていった。
嵐が去った同好会室。
静寂の中、僕は荒くなっていた息を細く吐き出した。
(……やっちまった。ついに、言ってしまった)
目立つのが大嫌いで、平穏を愛するはずの僕が、東欧の権力者相手に真っ向から喧嘩を売ってしまった。
恐る恐る視線を横に向ける。
そこには、放心したように立ち尽くすアレクサンドラがいた。
彼女は、信じられないものを見るような目で僕を見つめ、わなわなと桜色の唇を震わせている。
「ゆ、結城……? あなた、今……」
「……」
「ラテン語……話せるの……? 嘘でしょ……じゃあ、もしかして……」
彼女の顔が、みるみるうちに首の根元まで真っ赤に染まっていく。
僕は観念して、静かに頷いた。
「……ごめん。君がいつも呟いていた言葉……最初から、全部聞こえてた」
その言葉を聞いた瞬間、アレクサンドラの瞳からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
それは、恥ずかしさから来るものだけではない。絶望の淵から救い出された安堵と、自分の最も深い本音が、ずっと一番聞いてほしかった相手に届いていたことで、感情が決壊したのだった。
氷の王女様の強がりは、完全に溶け落ちた。
彼女は泣き顔のまま僕の胸に飛び込んでくると、今度は誰に隠すこともなく、日本語で、僕の耳元で思い切り叫んだ。
「……っ、結城のバカッ!! ずっと私の気持ちを知ってて黙ってたなんて、最悪!!意地悪よ!!」
ポカポカと奏の胸を叩くアレクサンドラ。
「痛っ、ごめん、本当にごめんってば……!」
僕は彼女の華奢な体を不器用な手で優しく受け止めながら、これまで隠し続けてきた秘密の代償を、甘んじて受けるのだった。
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