第五十四話:鵯上戸に揺れる海
「おへやじゃないの〜?」
夕ごはんを食べたあと、
部屋と反対方向に歩き出したことにフィンは首を傾げた。
「うん。今日はね、夜の海を見に行こうと思って」
「そうなの?」
繋いだ手をぷらぷら揺らすフィンに、笑って頷いた。
〔昨日見てんじゃん〕
フィンの頭の上に乗っているミントが、そんなことを言った。
「昨日は飾りつけされてたから……。
今日はまた少し、違うと思うよ? ね、透真」
"何がいいんだか"
そんな表情を浮かべるミントに分かってもらうため、透真からの言葉を求めて後ろを振り返った。
「——!」
透真はぼんやりしていたようで、振り向いた私にぴくりと肩を跳ねさせた。
「あ……うん。……そうだな」
目を伏せて視線を合わさない透真に、ちくりと胸の奥が痛んだ。
(やっぱり……言わない方が、よかったのかな……)
昨晩のことが、頭の中を掠めた。
*
透真を抱きしめて、
しばらくずっと、そのままでいた。
どれくらいの時間が経った頃だったか、
透真がふと、私の両肩に手を乗せた。
まるで、すぐに溶けてしまう綿菓子に触れるかのように、迷いながら。
そして……ゆっくりと、体を離した。
『……音凪……ごめん』
普段なら見上げる顔も、その時は見えなかった。
肩に添えられた手は小さく震えていた。
『今は、まだ……。
あと少し。……あと、少しだけ……待っててほしい』
視線は、交わらないまま。
『……っ』
ずきりと軋む胸。
その痛みに気づかないふりをして、
『……待つ。
そのときまで——待ってる』
肩に触れる熱に、そっと手を重ねた。
*
透真は「言いたくない」とは言わなかった。
ただ"今は言えない"だけで、いつかは話してくれるつもりがあった。
聞かなければ分からなかったことではあるけれど、それでも、
(もう少し、待てばよかった)
後悔だけが、降り積もっていった。
(ただ……私より少し早く、この世界に来た。たったそれだけだと思ってたのに)
透真の反応は、とてもそれだけだと言い切れるものではなかった。
(夜景が……気分転換に、なればいいな)
「……」
自然と落ちる視線。
視界の端で、フィンが私と透真を交互に見上げたのが見えた。
振り向くより先に、
「ネナ、トーマっ」
フィンが私たちに声をかけた。
そっと顔を向ける。
「どうしたの?」
重い口元を上げて尋ねると、フィンは空いている手で透真の手を握った。
「ぼく、ぴょーんってやりたい!」
(ぴょーん……?)
一瞬なんのことか分からず首を傾げた。すぐに、
(あ……!)
私と透真がタイミングを合わせて、同時にフィンの体を持ち上げる遊びのことを言っているのだと気づいた。
「……」
通路の先を見る。
幸い、今は私たちの他に歩いている人はいない。
透真も同じことを考えていたようで、前に向けた視線をフィンに戻すと、
「一回だけな」
そう約束をして、一直線になるようにフィンの横へと並んだ。
「うん!」
ぱっと、うれしそうに笑うフィンに目元が緩む。
同時に、なぜだか鼻の奥がつんとした。
「ふふ……それじゃあ、いくよ〜……」
大きく揺れる手の動きに合わせて——
「!」
透真が持ち上げたタイミングに合わせて、慌てて持ち上げた。
それは本当に、わずかなずれだった。
「ぴょーんっ!」
フィンが気づかないまま、はしゃぐほどに。だけど、
「……」
私は見逃さなかった。
透真が一瞬、驚いた表情をしたこと。
(……やだ)
確実に、なにかが変わってしまった。
「……高く、跳べたね〜」
その変化を振り払いたくて、無理矢理笑った。
***
「……」
人々が寝静まり始める頃。
私は再び、一人で甲板を訪れていた。
展望デッキの手すりを掴んで、ぼおっと海を眺める。
(透真……)
寝付けなくて、風に当たろうと寝室を出ると、ソファには透真が座っていた。
『……ちょっと、風に当たってくるね』
それだけ、伝えた。
透真はなにか言いたそうにしていたけど、
『……気をつけて』
無理矢理貼り付けたような笑顔で、私を送り出した。
「……」
船から伸びるわずかな光が、海面を柔く照らしている。
船体で掻き分けられた海に白い足跡を残しては、溶けていく。
(痛みも、傷も……こんな風に、消えればいいのに)
込み上げる熱を、ぐっと押し込んだ。
軋む胸を抑えるように体を縮めて、小さな拳を握った。そのとき。
〔何で我慢してんの?〕
突然聞こえた声に、バッと顔を上げた。
〔気になるなら聞けばいいじゃん〕
呆れた表情のミントが、目の前で浮いていた。
「ミント、どうして……」
〔ネナたちがメソメソしてるから、フィンが気にしてんの!〕
ミントは眉を吊り上げた。
一方で、私はふっと表情を落とした。
「やっぱり、気づいてるよね。……ごめんね」
なんとなく、フィンが気遣ってくれていることには気づいていた。
そして、その優しさに甘えている自分にも。
〔ならさっさと聞きなって〕
ミントはとにかく、私と透真の問題が解決することを望んでいるようだ。
(……ううん)
フィンが何も憂うことなく、ただ楽しく過ごすこと。
それさえできれば、ミントは何でもいいのだろう。
ミントがフィンを本当に一番大事に想っていることに、少しだけ口元が緩んだ。
——でも、心は晴れないまま。
「……聞いたらね」
ぽつり。
「それこそ、元に戻らなくなっちゃう……そんな気がするの」
遠くの海を眺めながら、こぼした。
〔はぁーっ〕
特大のため息が横から聞こえた。
「……」
声の方向に視線だけを注ぐ。
〔本当、人間って意味分かんない〕
ミントは空を仰いでくるりと回ると、流れるように私の目の前まで飛んできた。
そして、
〔それならあたしが教えてあげようか?〕
にやりと、ミントは笑った。
(え?)
目をわずかに見開いた。
「……ミントは、透真が隠してること、知ってるの……?」
(どうして、ミントが……?)
目を見開いたままミントを見つめた。
〔もちろん! だってあたしは特別な妖精、ミント様だからね〜!〕
得意げに胸を張ったミントに、呆然とする。
驚きのあまり何も言えずにいる私にミントはにんまりと笑って、ずいっと顔を寄せた。
〔ネナが「お願いします。ミント様」って言えば、教えてあげないこともない〕
"さあさあ、早く言いなさいよ"
そう言わんばかりの顔で私の言葉を待つミント。
「……」
ミントは私が知りたがっていると疑っていないようだ。だけど、
(それは……少し違う)
小さく、首を振った。
「ありがとう、ミント。
でもね……約束したの。待つって」
海風に舞う髪を耳にかけた。
温かい風が、頬を滑っていく。
「私は……透真の口から、聞きたい」
他の誰でもない。
透真本人から——
「せっかく教えてくれるって言ってくれたのに、ごめんね」
少しだけ口元をほどいて、ミントに謝った。
〔……〕
一瞬で、ミントの顔から笑顔が消えた。
ミントはふいっと顔を逸らすと、
〔だったらフィンを困らせるな〕
それだけ言って、パッと姿を消した。
「……そうだね」
その通りだ。
幼いフィンに気を遣わせるなんて、よくない。
静かになった甲板で、再び海を眺めようとした。その瞬間、
「なに一人でぼそぼそ喋ってるんですか」
ミントとは違う、人間の声がした。
(!)
思わぬ声にびくっと肩を揺らした。
そっと振り向いて、
「シンイーさん……」
その人の名前を呼んだ。
「シンイーでいいです」
ぶっきらぼうにそう言ったシンイーちゃんは、どうしてか私の隣で立ち止まった。
「……」
何かを言いたそうにしているシンイーちゃんを、首を傾げて見つめた。
しばらくして、
「……あなたとは、一度ちゃんと話をしなければならないと思ってました」
シンイーちゃんはそう切り出すと、辺りをきょろきょろ見回した。
そして何かを確認し終えると、スッと私に顔を寄せて——
「エヴァン様の前で、私の気持ちの話は絶対にしないでください」
私を睨みながら、忠告した。
(エヴァンさん……?)
ぽかんと、目を丸くする。
私を上目遣いで睨むシンイーちゃん。
甲板を照らすわずかな光が、シンイーちゃんのほのかに赤く染まった頬を私に見せた。
私はこっそり周りに視線を滑らせてから、
「うん、言わない」
シンイーちゃんの耳元で囁いた。
「透真にも、話してないよ。
だから安心してね。シンイーちゃん」
続けて付け加えると、シンイーちゃんはじっと私を見つめた。
「……約束ですからね」
赤く染まった顔で念を押すシンイーちゃんに、胸の奥がほわんと和んだ。
(かわいい……)
言動は強気でも、内心はそんなことはないのがよく伝わってくる。
(やっぱり、にゃんこ)
重く沈んだ胸の内が、少しだけ和らいでいく。
ほわほわと癒されていると、シンイーちゃんはジトッとした目で私を見上げた。
「それにしても……あなた鈍感そうなのに、どうして分かったんですか?」
体を前に出して、探るような眼差しを向けるシンイーちゃん。
その圧に気押されて、背筋がわずかにしゃんと伸びた。
「……ね、音凪でいいよ。敬語も、なくても……」
「私は誰に対してもこうなので。気になさらず」
シンイーちゃんはそう言うと、乗り出していた体を引いた。
「それで、なぜです?」
余程気になるようだ。
あまり、本人に直接言うことではないと思うけれど、
(シンイーちゃんが知りたいなら……いいよね?)
聞かれたから話すのだと、おもむろに口を開いた。
「視線……目が、そうかなぁって」
透真を好きだと言う女の子たちが、透真に向けていた視線と同じ熱。
それがエヴァンさんに向いていたから、気づいてしまった。
シンイーちゃんはギョッと目を開くと、顔を真っ青にして両手で頬を覆った。
「それって……エヴァン様にも、気づかれてるってことでしょうか……?」
甲板の床に目を向けて、ひとり言のように呟くシンイーちゃん。
視線の違いは予想外だったらしい。
「どう……なんだろう」
「くぅ……っ」
シンイーちゃんは小動物みたいなうめき声を漏らした。
眉を下げて見上げる顔は、まさに恋する女の子でしかなかった。
「ごめんね。私にはエヴァンさんのこと、分からないや」
力になれないと、しょんぼり肩を落とした。
シンイーちゃんはふいっと顔を背けて、
「分かるって言われる方が不快です」
少しだけ、つんと口を尖らせた。
「そうなんだ……」
(女の子と話すの、難しい)
自然と、眉が下がっていくのを感じた。
だけど、エヴァンさんについて分からなかったことが幸いした。
シンイーちゃんに嫌われたわけではない。
せっかく少しだけ話せるようになった後に嫌われてしまえば、さすがに私も落ち込む。
「あなたは違うんですか?」
シンイーちゃんは訝しむように眉を寄せた。
「私……?」
「そうです」
何のことを言っているのだろう。
分からず、何も言えずにいると、
「好きなんですよね? トーマ様のこと」
——ドクンッ。
船体から伝わる振動が、
体の奥に大きな波を寄せた。
第五十四話
芽吹きの地-鵯上戸に揺れる海- 完




