第三十一話:黄昏の記憶②
***
途中、町の中心にある広場に寄った。
そこで手を洗い、フィンがフルーツ串を食べ終えるのを待って、再び孤児院へと向かった。
「ここだよ」
大通りから少し離れた、森の近く。
そこには、少し大きめの家が一軒建っていた。
ルイくんは扉を開けると、
「園長先生ー!」
と大声で呼びながら、家の中に入っていった。
(勝手には、入らない方がいいよね)
フィンとふたり、孤児院の前で待つ。
「ねぇねぇ、ネナ」
「うん?」
「『こじいん』ってなに?」
萌木色の澄んだ瞳が、私を映す。
「……孤児院は、たくさんの子どもたちが、一緒に暮らしてる場所だよ」
「かぞく?」
「……だったり、そうじゃなかったり……」
「? どうしていっしょにすむの?」
「それは……」
お父さんとお母さんが、いないから——
(でも、それはフィンも同じ)
本当は、
"身寄りがないから"
フィンにはあって、私たちにはない。
だけど、フィンはまだこの言葉の意味が分からないだろう。
それに、今はまだ分からなくても、いいとも思う。
他に、説明できる言葉があるとしたら——
「いつでも帰ってこれる、お家がないから……かな」
高校卒業後。
透真とふたり、
養護施設を出た日を思い出した。
*
私たちが暮らしていた養護施設。
そこは、十八歳になって高校を卒業すると、出ていかなければならなかった。
透真の提案で同居することが決まっていた私たちは、それぞれの進学先の合格通知が届いたあと、少しずつ荷造りを始めた。
卒業までには、必要なもの以外はすべて、引っ越し先に移していた。
最後の日まで残っていたのは、
たった、スーツケースひとつ分しかなかった。
『おまたせ』
先に準備を終えて、玄関で待っていた透真に声をかけた。
その横には、真美子先生の姿。
『音凪』
透真はぱっと笑顔を向けた。
『忘れ物は大丈夫か?』
『うん。大丈夫だよ』
頷いて、ゆっくりと真美子先生に体を向けた。
(……)
真美子先生は、相変わらず無表情だった。
それどころか、
いつもよりも厳しい顔をしているように感じる。
『……真美子先生』
真美子先生の眉が、わずかに動いた。
『今日まで、ありがとうございました』
深く、頭を下げる。
真美子先生は、物心ついた頃からずっと、
私たちを育ててくれた。
生きていくために必要なことは、教えてくれた。
大人になるために必要なことも。
進路や、アルバイト先の相談だって、聞いてくれた。
してくれなかったのは、愛情を注ぐことだけ。
(……そう、それだけ)
世の中には、
暴力を振るわれたり、十分なご飯が食べれなかったり——
そんな環境で生きている人が、少なくないことを知っている。
その人たちの周りにいる大人と比べたらきっと、
真美子先生は優しいのだと思う。
だから、
育ててくれたことは、感謝している。
静かに、頭を上げた。
目に映った真美子先生の眉間には、深い皺が刻まれていた。
(感謝も、嫌だったのかな)
そう思ったら、目の奥がつんとして、
思わず目を背けた。
『……』
重たい沈黙が続く。
耐えきれなくなって、透真の服を掴んだ。
「透真、行こう」
そう声をかけようとしたとき——
『——音凪』
真美子先生が、名前を呼んだ。
思っても見なかった声に、咄嗟に顔を上げた。
『……』
真美子先生の口元は、何度も波打って、
言いかけては止める、
そう繰り返しているみたいだった。
(何を……言いたいんだろう)
物心ついてから今日まで、
何度も期待して、叶わなかった。
それなのに、
"最後くらいは、優しい言葉と表情で、見送ってくれるんじゃないか"
そんな期待が、頭の中いっぱいに広がった。
胸の奥で、どくん、どくんと音が鳴り、
瞬きをすることも忘れて、真美子先生をじっと見つめた。
——真美子先生の口が、そっと開いた。
『……外を出たら、ここのことは忘れなさい』
頭を、強く打ちつけられたような衝撃。
「……ぇ」
何を言われたのか、分からなかった。
目の前が、黒く染まっていく。
「音凪、行こう」
透真は、服を掴んでいた私の手を握った。
透真に引かれるまま、外へと歩き出す。
『……さよなら』
背中越しに、
掠れた声が聞こえた気がした——
*
(……うん。あそこは、帰る場所じゃない)
ちくりと、
胸の奥に走った痛みには、気づかないふりをした。
「ここでそんな話、しないでもらえます?」
後ろから、鋭い声が飛んだ。
振り向くと、ショートヘアーの女性が、籠を抱えて立っていた。
射るような視線が、体を突き刺す。
「す、すみません」
急いで、頭を下げる。
女性のスカートとエプロンがゆらりと揺れた。
「子どもたちが聞いたらとか、ちょっとは考えてください」
「すみません……」
言葉は選んだつもりだったけど、それだけではダメだった。
考えが甘かったと、さらに深く頭を下げた。
〔ネナチャ……〕
ぽん、ぽん。
肩にしがみついているネロが、もう片方の手で優しく頭を撫でた。
その優しさに頬が緩みそうになって、きゅっと口をきつく結んだ。
頭を上げようと、体を起こした瞬間——
「ネナをおこらないで!」
フィンが前に飛び出した。
(えっ?!)
慌てて、フィンの肩をそっと掴んだ。
「フィ、フィン」
「ぼくがおしえてっていったの!
だからネナはわるくないよ!」
フィンは肩を上下させながら、女性をまっすぐ見上げて叫んだ。
(なだめないと)
膝をついて、フィンに目線を合わせた。
「フィン、ありがとう。
でもね、お姉さんは正しいよ」
「でもっ、でも!」
フィンの目に、涙が溜まっていく。
「あとでねって、言えばよかったの。
それをすぐ答えようって選択したのは私」
「う"〜……」
「だから、お姉さんは間違ってないよ」
溢れ出した涙を、服の裾で拭った。
フィンはぎゅっと、私に抱きついた。
〔フィンに任せておけばよかったのに〕
ミントが睨む。
フィンの背中を撫でながら、小さく笑って誤魔化した。
「で、うちに何か用ですか?」
女性が、ぶっきらぼうに尋ねた。
「その、ルイくんを待っていて……」
孤児院の扉を見る。
ルイくんはまだ戻ってきそうにない。
「ルイ?」
女性の眉間に皺が寄った。
「あいつ、最後の最後に何かやらかした……?」
(最後?)
女性の呟きに、首を傾げる。
だけど、そのことについて尋ねようとは思わなかった。
「失礼」
女性はそう告げて扉の前に立つと、大きく息を吸い込んで——
「ルイーー!!!!」
大声で、ルイくんを呼んだ。
奥の方から、バタバタと駆けてくる音が聞こえてくる。
「分かってるから! 大声で呼ばないでよ!」
駆けつけたルイくんが、荒い息のまま叫んだ。
女性は構わず話しはじめた。
「こちらの方たちはルイが連れてきたの?」
「そうだけど……」
「何か——したの?」
低くなった声に、ルイくんはビクッと体を揺らした。
「えっと、その……」
「図星ね」
女性はそう言い放つと、スッと振り返った。そして、
「ルイがご迷惑をおかけしてすみません」
さっきとは反対に、
今度は女性が深く頭を下げた。
「頭を上げてください……!」
咄嗟に声が出た。
「私もよそ見していたので……ぶつかったのは、ルイくんだけが悪いわけではないんです」
「ぶつかった?」
女性はわずかに顔を上げて、私の言葉を繰り返した。
「……」
もう一度ルイくんに向き直って、じっと見つめる女性。
しばらくすると、ふっと息を吐いた。
「ルイ。あんたまた周りも見ずに走ったんでしょ」
「うっ」
「あれほど周りを見なさいと言ったのに、何回ぶつかってるのよ」
女性は小脇に籠を抱えたまま、片方の腕を腰に当ててルイくんを叱った。
ルイくんは叱られるたび、体を小さくした。
かつ、かつ。
「まあまあ、カレン先生。
ルイも反省しているのだから、そこまでにしておきましょう」
ルイくんの向こう側から人影が見えたと同時に、柔らかな声が差し込んだ。
「園長先生!」
ルイくんの顔に、笑顔が戻った。
園長先生はルイくんを見つめ微笑むと、私たちに視線を注いだ。
「ネナさんとフィンくんで合っているかしら?」
「ぁ……はい」
突然話しかけられて、すぐに声が出なかった。
(変な声、出ちゃった)
耳が少しだけ、熱くなった。
思わず目を逸らすと、部屋の奥からこちらを覗く、子どもたちの姿が見えた。
「ルイから話は聞きました。大事な花をダメにしてしまったと」
園長先生に視線を戻した。
園長先生は申し訳なさそうに眉を下げると、
「私からも謝ります。——ごめんなさい」
深々と、頭を下げた。
その姿を見て、ルイくんも「ごめんなさい!」と謝った。
「もう、謝罪はいただいてます。だから、ふたりとも顔を上げてください」
そう伝えると、ふたりはゆっくりと頭を上げた。
園長先生は目尻に皺を刻んで、私を見つめた。
「優しい方なのね」
喉の奥で、声がつっかえた。
(優しくなんか、ない)
罪悪感に、指先が冷えた。
「ルイが約束した花をお渡しします」
園長先生は手のひらを上に向けた。
すると、手の上の空間が歪んで、ナーリスの花が二つ現れた。
根本は袋で包まれていて、花屋でしてもらったのと同じようにしてくれたのが分かる。
(でも、どうして二つ……?)
呆然と花を眺めていると、園長先生が静かに微笑んだ。
「この花を必要としているということは、お薬として使うのでしょう?
一番日当たりのいい場所に生えていた二本ですから、きっとよく効きます」
園長先生はそう説明しながら、そっと私の手に花を持たせようとした。
「あら……。
あなた、手を怪我しているのね」
「カレン先生」
園長先生が呼ぶと、カレン先生は何も言わず、手をかざした。
「!」
カレン先生の手のひらから水色の光が煌めいて、
指先からじんわりと、手のひらが温かくなる。
(傷が、なくなった)
傘で〈ヒール〉を使ったことはあったけれど、自分がしてもらうところを見るのは初めてだった。
「この花は、ダメにしてしまった花のお詫び。
そして、今のはぶつかってしまったお詫びです」
「受け取ってくれるかしら?」
花をそっと乗せて、私の手を包んだ。
いくらなんでも、もらいすぎだ。
断ろうとした。けれど、
『図太く生きてもいいんじゃない?』
エヴァンさんの言葉が過った。
「……」
花が入った袋を、手のひらで包み込んだ。
「ありがとう、ございます」
受け取ると、園長先生は目を細めて、ゆっくりと手を離していった。
「さあ、あまり引き留めても悪いですから。
カレン先生、大通りまでお見送りをお願いしてもいいかしら?」
「分かりました」
カレン先生は頷いて、籠を壁際に置いた。
「あっ……いえ、ここで大丈夫です」
「そう?」
園長先生は、少しだけ目を丸めた。
「はい。
……ルイくん、お花ありがとう」
「!」
ルイくんはぴくっと背筋を伸ばして、目を丸めた。
だけどすぐに、
「へへっ」
うれしそうに笑った——。
扉の前で手を振る孤児院の人たちに、フィンは静かに手を振り返した。
私も小さく頭を下げて、前を向いた。
「ネナ、お花よかったね」
フィンは真っ赤に腫らした目で、にっこりと笑った。
「うん。早く透真に持って帰ろう」
〔ネナチャ! バシャ アッチ!〕
ネロが「任せて!」と言うように、元気よく、元来た道を指した。
「……ふふっ。ネロ、ありがとう。道案内、お願いね」
〔ネロ! アンナイ!〕
ネロは小さな足をぷらぷら揺らした。
ふと、
〔……〕
フィンの頭の上で寝転んでいたミントが、スッと宙に浮いた。
孤児院の方をじっと見ている。
「ミント、どうしたの?」
フィンが首を傾げた。
ミントはフィンをちらっと見て、
〔散歩してくる〕
それだけ言って、飛んでいってしまった。
「ミントいっちゃった」
フィンはぽつりとこぼして、前を向いた。
「……待った方がいいのかな」
ただでさえ時間がかかってしまった。
本当は、今すぐに帰りたい。
(どうしよう……)
どうしたらいいのか分からず立ち止まっていると、フィンが服を引っ張った。
「ミントはだいじょうぶ! はやくトーマのところにかえろ!」
にぃっと笑うフィンに、ほっと胸を撫で下ろした。
自然と、口元がほどける。
「うん。帰ろっか」
フィンの手をそっと握ると、フィンはにこっと笑って頷いた。
「……」
一瞬だけ、孤児院に目を向けた。
(……私の、帰る場所じゃない)
瞼の裏に浮かぶ、真美子先生の顔。
振り払うように、孤児院に背を向けた。
第三十一話
鏡の島-黄昏の記憶- 完




