第二十七話:紫煙に霞む
「透真?!」
ふらりと傾いた、透真の体。
私は咄嗟に手を伸ばして支えた。
足に力が入らないのか、そのまま私に体重を預けてくる。
「はぁ、はぁっ」
肩で息をする透真。
顔を覗き込むと、辛そうに顔を歪めていた。
(急に悪化するなんて……)
ほんの少し前までは、ここまで酷くなかった。
本当に、突然だった。
(どうしよう……!)
心臓がばくばくと波打つ。
自分の手が、小刻みに震えているのを感じた。
まだ船は停まっていないのに。
ウブラにはいつ着くの?
ひとりで教会を探しになんて行けない。
透真に、何かあったら……。
焦りで、考えがうまくまとまらない。
「トーマ、どうしたの?」
フィンの声に、はっと息を飲んだ。
顔を向ける。
フィンの瞳が、不安げに揺れていた。
(……落ち着け)
私は静かに、深く息を吸った。
そしてゆっくりと、透真の体をベッドに倒した。
「透真、ちょっと疲れちゃったみたい」
フィンの不安を溶かしたくて、無理矢理笑った。
フィンは眉を下げたまま私を見つめ、
横に寝かせた透真へと視線を移した。
(だめだ。全然、安心させてあげられてない)
透真なら、どんな言葉をかけただろう。
気がつけば、視線が下がっていた。
「ネナ」
フィンが呼んだ。
応えの代わりに、そっと顔を上げる。
目に映ったのは、
丸い、萌木色の瞳。
「トーマの手……
にぎったらいいんだよね?」
まっすぐな声が、耳を鳴らした。
「っ」
目の奥が、熱を帯びた。
フィンを安心させたかった。
それなのに、
心を解いてもらったのは、私の方だった。
(……本当に、情けないなぁ)
「ネナ……?」
フィンが再び、不安げな声で呼びかける。
(なにをしてるの、私)
私は口の端を上げて、目を細めた。
「うん。手を、握ってあげて」
きっと、さっきより上手に笑えている。
……そんな気がした。
「わかった!」
フィンはにっこり頷いて、両手で透真の左手を握った。
「げんきになぁれ」
フィンは声を落として、繰り返しそう呟いた。
フィンのおかげで、少し心が落ち着いた。
だけど、
「はぁっ……くっ……」
透真が、苦しそうにしていることは変わらない。
(誰かを呼んでこよう)
今私にできることは、それくらいしかない。
船員さんに話せば、もしかしたら対応してくれるかも。
「フィン」
「なあに?」
フィンは透真の手を握ったまま、私を見上げた。
「透真のこと、お願いしてもいいかな?」
そう尋ねると、フィンは小さく首を傾げた。
……うまく伝わらなかったみたい。
私は目線を合わせて、
「あのね」と続けた。
「ウブラに着く前に、船の人に聞いておきたいことがあるの。
透真とお留守番……できる?」
ゆっくりと、伝えた。
フィンは表情を固くして、わずかに口をきゅっと結んだ。
だけどそれは一瞬で、
次の瞬間にはにこっと笑って——
「ネナ、すぐかえってくるでしょ?
ぼく、だいじょーぶだよ!」
そう言って、透真に視線を戻した。
「トーマ、だいじょうぶ。だいじょうぶだよ」
フィンは小さな子をあやすように、透真に声をかけ続けた。
「ありがとう」
私は屈めていた体をそっと起こした。
そのままふたりに背を向けて、
一歩、部屋の外に向かって踏み出す。
(透真……少しだけ、待ってて)
戸枠に手をかけて、少しだけ振り向いた。
「いってくるね」
「うんっ。いってらっしゃい」
フィンは小さく手を振った。
その姿を端に、
横たわる透真を見て、私はまた背を向けた。
(船首に行けば、誰かいるかな?)
甲板の操舵室……は関係者以外入れないかも。
それなら……食堂?
迷惑になっちゃうかな……?
とりあえず、部屋を出たら一度、案内板を確認しよう。
ぐるぐると考えながら、通路へと続く扉を開けた。
「おっと」
扉の先から聞こえた声。
下がっていた視界に映った、黒い靴。
聞き覚えのある声に、私はそっと顔を上げた。
「今日はぶつからなかったね。ネナちゃん」
「おはよう〜」
フードを脱ぎながら緩く笑ったのは——エヴァンさんだった。
「エヴァンさん……」
(どうしてここに……?)
ぽかんと見つめていると、エヴァンさんは笑みを浮かべたまま片手を上げた。
「びっくりさせてごめんねー。
ここの船長から君たちへの伝言を預かっててさ」
(伝言?)
しかも船長さんからだなんて、いったいなんだろう。
「どこかに行こうとしてたみたいだけど、今大丈夫?
ネナちゃんが急いでるなら、トーマに伝えておくけど」
エヴァンさんの言葉に、はっとする。
「エ、エヴァンさん……!」
「えっ?」
エヴァンさんは驚いた顔で気の抜けた声をこぼした。
私は構わず続けた。
「透真が苦しそうにしていて……っ。船の人に助けてもらえないか、聞きに行こうとしてたんです」
「苦しそう……?」
エヴァンさんは目を見開いて、私の言葉を繰り返した。
そして一瞬わずかに視線を落とすと、すぐに顔を上げて、
「トーマの様子見せて」
そう言って、私の返事を待つことなく、室内に入ってきた。
そのまま、奥へと進んでいく。
「え……?」
びっくりして、頭と体がぴたっと止まった。
はっと、慌ててエヴァンさんの背中を追いかける。
角を曲がると、
翻った紫のローブが、奥の部屋に消えていくのが見えた。
「なんでいるのー?!」
驚くフィンの声。
急いで部屋に入ると、すでにエヴァンさんが透真の様子を確認していた。
「あっ」
エヴァンさんに向けられていたフィンの大きな瞳が、私に向いた。
「ネナ」
フィンの表情が、ほっと緩んだ。
「ネナちゃん、少しの間トーマと二人きりにしてもらえる?」
エヴァンさんが振り向いた。
どうして?
その言葉が浮かぶよりも先に、エヴァンさんが続けた。
「トーマの体を詳しく診たいんだよね。
服脱がすし、魔力も使うから離れてほしい」
淡々と説明をするエヴァンさんに、
なるほどと思いかけて、ふと。
「でもエヴァンさん、船酔いで魔法は……」
そこで言葉が途切れた。
(あれ?)
健康的な顔色。しゃんと伸びた背筋。
昨日までの様子とは、全く違う。
(体調、悪くなさそう……?)
私の表情で気づいたのか、
エヴァンさんは小さく笑って頷いた。
「今はこの通り大丈夫だから」
「気になるなら後で話すよ。
さ、トーマの容体が悪化する前に」
いくらエヴァンさんでも、透真と二人きりにするのは不安だった。
だけど、「悪化する前に」なんて言われてしまえば、もう任せるしかない。
「……分かりました。
フィン」
私の顔を見上げるフィンに声をかけて、手を伸ばした。
フィンは私の手を取って、ベッドからいそいそと足を下ろす。
「透真を、よろしくお願いします」
背を向ける前に、それだけ伝えた。
エヴァンさんが頷いたのを見届けて、
フィンとふたり、部屋の外へと出た。
フィンをソファに座らせようと、部屋の前から離れた。瞬間——
カラカラッ
「!」
戸を閉められてしまった。
外から様子を見ることが、できなくなってしまった。
「透真……」
本当に、
二人きりにしてよかったのだろうか。
(……ううん)
うまくは言えないけど、エヴァンさんは悪い人じゃない。
少なくとも、透真に対しては何もしないはず。
『苦しそう……?』
透真の状況を話したときの、エヴァンさんの様子が頭の中に浮かぶ。
「ネナ?」
フィンが首を傾げている。
私は小さく笑って、手を握りなおした。
(……信じよう)
「なんでもないよ。座って待とうか」
フィンはまん丸の目で私を見つめたあと、
「うん……!」
大きく頷いた。
再びソファへ向かい、フィンが座ったときだった。
ユラァ……
「わっ……」
船が大きく揺れた。
思わず、ソファの背もたれに手をつく。
「ネナ、だいじょーぶ?」
「う、うん。大丈夫だよ」
アナウンスからはそこそこ時間が経っていた。
……ようやく、着いたのだろうか。
私はソファに腰を下ろしながら、
ぼんやり、そんなことを考えていた。
「ネナ」
私を呼ぶフィンの声に、そっと振り向く。
「うん?」
「どうしてエヴァンがいるの?」
「あ……」
「エヴァンはおふねのひと?」
「おふねのひとに、おはなしきくっていってたもんね〜」
フィンはぶらぶら揺らす、自分の足を見つめた。
(そうだった……)
エヴァンさんが部屋の前にいたことは、フィンは知らないんだった。
装いや昨日の話のことを考えたら、エヴァンさんは船の人ではないはず。
「えっとね、船の人ではないと思うよ。
私たちに話したいことがあったみたい」
「おはなし?
エヴァンもおはなしあったんだ〜」
「なんだろうね?」
フィンはエヴァンさんの話が気になるようだ。
「船の人からのお知らせを伝えに来てくれたんだって」
「? エヴァンとおふねのひと、なかよしなの?」
「うぅん……どうなんだろうね」
(うーん……)
私はフィンと話を続けつつ、別のことが引っかかっていた。
(呼び捨て……やめさせた方がいいのかな)
失礼ではないか。
それが気になっていた。
だけど、この世界では普通かもしれない。
フィンはエーリオさんのことも呼び捨てにしていたから。
(そういえば、)
昨日、甲板で別れ際に名前を名乗ったとき、エヴァンさんもフィンと透真のことを呼び捨てにしていた。
性格にもよるんだろうけど、
この世界、そういう人は多い気がする。
そもそも、今までは気にしていなかった。
それなのに、どうして急に、
こんなことが気になったんだろう。
私は膝の上に乗せた手を、そわそわと動かしていることに気づいた。
ちらりと、
ふたりのいる部屋に視線を向けた。
(まだ、かな……)
待っている時間が、とても長く感じる。
胸の奥がざわついて、落ち着かなかった。
ブォオオオ!
「っ!」
突然、鳴り響いた汽笛の音。
振動が船体を伝って、体がわずかに揺れる。
「ついたの?」
フィンは驚かなかったようで、
平気そうに後ろの窓を振り返った。
外の様子を、じっと見つめている。
(ウブラ、どんな場所なんだろう)
リベルタのような港町だろうか。
そんなことを考えながら、
外を眺めるフィンをぼんやり見ていた。
そのとき——
——カラカラ。
戸を開けるレールの音が響いて、
バッ!
私は立ち上がり、部屋へと向かった。
「終っ——おっ?!」
「……っ」
入り口に立っていたエヴァンさんは、咄嗟に体を逸らした。
私はその隙間から部屋へと入り込み、透真の元へ駆け寄った。
「とうまっ……」
横になっている透真の顔を覗き込む。
透真は私を見つめ、かすかに笑った。
「音凪……大丈夫だから……」
呼吸が、さっきよりは少し落ち着いている。
体に変わった様子はない。
ほっとして、気づけば息をついていた。
「普通は大丈夫じゃないんだけどねー」
後ろから聞こえた、エヴァンさんの言葉。
私ははっと振り向いた。
「どういう、ことですか……?」
エヴァンさんはちらりと透真を見やった。
(あっ……)
エヴァンさんの後ろから、フィンがひょこっと顔を出した。
心配そうに、こちらを見ている。
「っ」
喉の奥が、きゅっとした。
(フィン、ごめんね)
申し訳なさを感じながら、そっとエヴァンさんに視線を戻した。
いつの間にか、
エヴァンさんの視線は、私に向けられている。
「魔力暴走だよ」
(なに……?)
"魔力暴走"
その言葉の意味を、すぐに理解することはできなかった。
「あれ? 魔力暴走、聞いたことない?」
エヴァンさんはわずかに目を丸くした。
この世界では、知っていることが当たり前なのだろうか。
知らない、
と答えるのは、やめた方がいい気がした。
「その……どうして、透真が……?」
「ああ、そっちね」
(そっち?)
「まあ、小さい子の発症がほとんどだしねぇ」
エヴァンさんはフィンへと視線を向けた。
「ちびちゃんは今のところ大丈夫そうだね」
「! フィンだよっ」
「おっと、ごめんごめん」
ヘラッと笑うエヴァンさん。
フィンはぷくっと頬を膨らませた。
私は誤魔化せたことにほっとした。
だけど少しだけ、
罪悪感に視線が下がった。
(……それでも、本当のことは言えないから)
ここはラウハではない。
"異世界からきた"と伝えたら、
今みたいに、親切にはしてくれないかもしれない。
それにどのみち、
私ひとりで決めることじゃない。
透真に相談せずに、話すことはできない。
今は、透真の療養が優先だ。
「エヴァンさん」
私は顔を上げた。
エヴァンさんの視線が、フィンから私に移った。
「さっきの言葉、
透真は大丈夫って……
そう思って、いいんですよね?」
エヴァンさんの目を、まっすぐ見つめた。
紫の瞳は、わずかに細められる。
「とりあえずは、ね」
エヴァンさんはそのまま歩き出した。
そしてベッドの横に立ち、透真を見下ろしながら、
「ほんと、よく抑え込んでるよ」
そう呟いた。
(……?)
エヴァンさんの言葉が引っかかった。
だけど、なぜかは分からなくて、
ただ言葉にできない違和感だけが、胸をざわつかせた。
「治癒系は専門じゃないからさ、確かなことは言えないけど」
エヴァンさんはぱっと顔を上げて、
さっきより明るい声で言った。
「死亡率の高い魔力暴走でここまで保ってるんだし、大丈夫だとは思うよ」
さらっと放たれたその言葉に、
目を大きく見開いた。
——死亡率が高い。
反射的に、透真を見た。
透真はエヴァンさんに鋭い視線を向けていた。
だけど、私にそれを気にする余裕はなかった。
(そんなこと聞いて、安心なんてできない……!)
透真の視線が、私に流れた。そして、
「っ!」
私の顔を見て、目を丸くした。
「透真っ、ウブラに着いたらすぐに船降りよう。私がおんぶするから、そのまま——」
「ね、音凪、落ち着け……」
気づけば、私はじりじりと顔を寄せていた。
透真はたじろぎながら、そっと私の肩を押した。
「私は落ち着いてるよ」
「音凪」
「ちゃんと、考えてるもん……」
声がかすかに震えて、段々と消えていった。
鼻の奥がつんとして、
目の奥に、じわりと熱が広がっていく。
死んじゃうかもしれないのに。
それなのに、
大丈夫だろうって、そんな風に思えない。
何もしないで過ごすことは、したくない。
くしゃっと、シーツを握りしめた。
「んー……」
エヴァンさんが、再び口を開いた。
私はゆっくりと顔を向けた。
エヴァンさんは何かを思い出すように、視線を斜め上に向けている。
「正直、俺たちができることはそんなにないけど」
視線が、私たちに向いた。
「薬草でも飲ませたら? 心配ならさ」
そう言って、エヴァンさんは指先を宙に向けた。
瞬間、黒いもやがじわりと滲み出した。
もやは徐々に形を成して、植物のような姿へと変わっていく。
「あっ!」
フィンが声を上げた。
振り向くと、フィンは黒いもやを指差していた。
「ナーリスのお花ににてる!」
フィンはうれしそうに言った。
「そうそうナーリス。よく知ってるねぇ」
「うん! ぼくしってるよ!
ナーリスのお花はねー、白くて、ちょっときいろで、
それとね、ぽかぽかしてるんだぁ」
フィンは頬に両手を当てて、にんまりと笑った。
(花がぽかぽか……?)
どういうことだろう。
触ったら温かいのかな。
元の世界とは違うから、そういうこともあるのかも。
ひとり首を傾げながら、そんなことを考えていた。
目の奥の熱は、いつの間にか引いていた。
フィンの言葉に、エヴァンさんはうんうん頷いて続けた。
「ナーリスは光の元素を多く含んでる花だからね。
——闇属性の魔力を中和するのに最適だよ」
「……え?」
闇属性の魔力……?
……透真に?
ジジッ……
『皆様、長らくお待たせいたしました。
本船はウブラの停泊場に完全停止いたしました』
到着を告げるアナウンスが、
白く霞む意識の向こうで響いた——
第二十七話
鏡の島-紫煙に霞む- 完




