第二十五話:地につく水平線③
「フィン」
透真の呼びかけに、フィンが見上げた。
透真はスマホからタオルを取り出してフィンに手渡し、
そのまま、頭をスッと撫でた。
「これで鼻かんで」
「?」
「固まる前に出しちゃいな」
フィンは目をぱちくりさせて首を傾げながらも、
透真に言われた通り、"ちーん!"と鼻をかんだ。
「まっかぁ〜」
中心だけ赤く染まったタオル。
透真はそれをサッと二つ折りにして、再びフィンに手渡した。
「はい、もう一回」
ちーん!
フィンはもう一度鼻をかむと、私たちにタオルを見せた。
一拍遅れて、フィンの瞳が透真を見つめる。
「ん。もう大丈夫だ」
透真は少しだけ口元を緩めて、頷いた。
そして、フィンからタオルを受け取ると、
その端で鼻の周りをやさしく拭って、スマホへと戻した。
「もう痛くない?」
大丈夫だとは思ったけれど、念のためフィンに尋ねてみた。
「う……っ」
フィンはパッと顔を綻ばせ、頷こうとして首を少しのけ反らして……ピタッと止まった。
「……まだ、ちょっといたいかも……」
フィンは私から目を逸らし、小さな声で呟いた。
(……治ってない?)
傘から降り注いでいた光はもう止んでいる。
もし、傘が小さな傷しか治せないのだとしたら、大きな傷や体の内側の痛みかもしれない。
私はフィンに「どこが痛い……?」と聞いた。
「……せなかぁ」
(……せなか?)
フィンはそう言うと、おずおずと両手を伸ばした。
(背中なのに、手?)
戸惑い首を傾げてる私の横で、スッと影が動いた。
「音凪」
透真はいつの間にか新しいタオルを二つ出していて、一つを私に手渡した。
「風邪ひくから」
「あっ……」
(そういえば、びしょ濡れだった)
「ありがとう」
お礼を言って受け取ると、
透真は小さく頷いて、視線をフィンへと流した。
「……で、背中な」
フィンが遠慮がちに、こくりと頷く。
透真はフッと笑って、もうひとつのタオルを広げた。
そして、フィンをそっと包み込むと、
そのまま、抱き上げた。
左手でお尻を抱え、
右手はやさしく、フィンの"背中"に添えられていた。
(あ……)
フィンはうれしそうに笑って、透真の肩に顔を埋めた。
甘えていたのだと、遅れて気がついた。
透真はそのことに、すぐ気づいたのだろう。
フィンに何かを尋ねることもなく、ただ抱きかかえている。
きっと、起きて透真も私もいなかったから、
今やっと安心して、甘えてくれたのかもしれない。
(私もあとで、いっぱい抱きしめよう)
透真から受け取ったタオルを肩にかけながら、小さく笑って、ふと。
(あれ……そういえば)
エヴァンさんはどうしたのだろう。
自然と、視線は船首を向いていた。
——視界に映る、人影。
「ウゥッ……」
壁に寄りかかりながらヨロヨロと歩くエヴァンさんが、すぐ近くまで来ていた。
「エヴァンさん……」
声をかけると、青い顔のエヴァンさんはへらっと笑って、ゆっくりと右手を上げた。
「やあ……おねーさん。
おつかれさまぁ……うっ」
バタバタッ!
エヴァンさんは口元を押さえ海側に駆けて行くと、手すりを掴んで身を乗り出した。
「おえぇえっ」
吐いたあとも
「うゔっ……え"っ」とえずくエヴァンさん。
相当気持ちが悪いのか、身を乗り出したまま、手すりから離れる様子がない。
「……」
(傘で、治してあげられないかな?)
あまりにも辛そうな姿に、気づけば私は小走りでエヴァンの元へと駆け寄った。
ぴくっ。
近づいた私に気づいたエヴァンさんは小さく肩を揺らし、のっそりと顔を上げた。
「ゔっ……? おねーさん?」
不思議そうな顔で私を見つめるエヴァンさん。
……スッ。
私はそっと、エヴァンさんに傘を差した。
(治せるといいんだけど……)
「……」
けれど、そんな思いも虚しく——
傘は、ただ陽を遮るだけだった。
エヴァンさんはきょとんと、
目を少しだけ見開いて私を見つめている。
(……だめみたい)
私はしゅんと肩を落として、傘をそっと閉じた。
傘はそのまま光の粒になり、腕輪へと姿を変えていく。
手首に温もりを感じたとき。
エヴァンさんが「あっ……」と、小さく声を漏らした。
「もしかして、〈ヒール〉かけようとしてくれた?」
手すりに腕を乗せ、頭を預けながら尋ねるエヴァンさん。
「はい……。でも、傷じゃないとだめみたいです。
すみません……」
段々と、視線が下がっていく。
肩を落とす私に、
「どうして謝るの?」
エヴァンさんがそう尋ねた。
「気持ちだけで十分だよ」
そう言って、エヴァンさんは目を細めた。
「ありがとう」
エヴァンさんはゆっくりと海に視線を移すと、「ふぅ……」とひとつ息を吐いた。
そよそよと吹く海風が、赤茶の髪を揺らしている。
(気を遣わせちゃったかな……?)
体調の悪いエヴァンさんに気を遣わせてしまった気がして、
申し訳なさが胸の奥にじわりと広がった。
「……それで」
エヴァンさんは再び海から視線を外して、そう切り出した。
「今の状況だけど」
エヴァンさんの目が、私の後ろを見た。
つられて振り向くと——
いつの間に近づいていたのだろう。
そこには透真がいた。
(あれ?)
透真の腕の中にいるはずのフィンの姿がない。
そう気づいて、一拍。
視界の端に、小さな影が動く。
ふっと下を向くと、
透真の足に掴まっているフィンがいた。
まんまるの目で私たちを見上げるフィン。
私はにこっと笑って、そっと手を差し出した。
フィンはパッと表情を明るくして、
右手は透真の足を掴んだまま、左手を伸ばした。
小さな手の温もりが手のひらに伝わる。
そのまま、私はエヴァンさんへ向き直った。
「続けるね。
君が引き付けてくれていた間に、俺たち以外の人たちも目を覚ましたよ。
さっきの汽笛の音、聞こえたでしょ?」
エヴァンさんの問いかけに、はっと小さく息を吸いこんだ。
(そうだったんだ……)
あのときは胸がいっぱいで、深く考えてはいなかった。
私はなんだか少し恥ずかしくなって、気づけば視線がわずかに落ちていた。
「一先ず、船員たちは乗客の安全確認のため船内を巡回中。
そして、この船は次の寄港先で丸一日メンテナンスをするって」
エヴァンさんはそこまで言って、
海へと視線を注いだ。
大きく息を吸うと、
ゆっくりと吐き出していった。
次の寄港先は、確か——
(……『ウブラ』)
元々の予定では今日の深夜に到着して、半日の停船だったはず。
プルーヴィアに着くまでは、少しだけ時間が延びてしまったけれど、
このまま、"通常通り運航します"と言われてしまう方が心配。
(長い船旅の息抜きにもなるかも)
そんなことを考えている間に、エヴァンさんは私たちへと視線を戻していた。
「到着は明日の朝予定。
それと、メンテナンス中は乗客全員が一度船から降りることになるみたい」
エヴァンさんはヘラッと頬を緩めた。
ずっと船酔いで辛そうだから、地上に降りれることがうれしいのかもしれない。
傘で治すことはできなかった。
だけど、少しでも楽になる時間ができてよかったと、
胸の奥につっかえていたものが、ひとつだけ解けた。
「現状はそのくらいかな」
エヴァンさんはそう言うと、両手で手すりを掴んだ。
そして、顔を下に向けてぐぅっと背中を丸めると、
「んーっ」と声を出しながら体を伸ばした。
「——ありがとうございます」
私は、エヴァンの顔をまっすぐ見つめた。
今の状況を教えてくれたことだけじゃない。
エヴァンさんがいなかったら、きっと。
船を巻き込まずに、こうして晴れた空を見ることは——できなかった。
エヴァンさんの目が、スッと細められた。
「どういたしまして」
その笑顔に、気づけば私も微笑んでいた。
エヴァンさんは手すりから片方の手をスッと下ろすと、私たちに体を向けた。
「さて、俺はそろそろ部屋に戻るよ。
君たちも、到着までは時間あるからゆっくり休むんだよ〜」
エヴァンさんはそう言って片手を上げると、ゆっくりと身を翻して私たちに背を向けた。
そのまま歩き出そうとして——
「あっ」
ピタッと動きを止めた。
そして、くるっと振り返ったエヴァンさん。
(? どうしたのかな?)
私は小さく首を傾げる。
「そういえば、君たちの名前ちゃんと聞いてなかったね」
「あっ……」
言われてみれば、エヴァンさんからは名前を教えてもらったけれど、
私たちからは自己紹介していないかもしれない。
「すみません。音凪といいます」
「ぼくはフィンだよー!
それでっ、トーマはトーマ!」
透真の服をクイックイッと引っ張りながら、
代わりに紹介をしたフィンに、私はくすっと笑みをこぼした。
(もうすっかり元気になったみたい)
エヴァンさんもフィンを見てやさしい笑顔を浮かべている。
「ネナちゃんとフィンと、トーマね」
エヴァンさんはどこか意味を含むように名前を繰り返し呟いて、
静かに、目尻の皺を深めた。
(……気のせい……かな?)
一瞬感じた違和感は、
すぐにニコッとしたエヴァンさんの笑顔に消えていった。
「じゃ、今度こそ」
エヴァンさんは再び背を向けると、
顔だけ少し振り向き、片手を上げ——
「またねぇ」
上げた片手をひらひらさせて、
手すりに掴まりながら、船首にある出入り口へと向かっていった。
(本当に、お世話になったなぁ……)
ぼんやりと、エヴァンさんの背中を見送っていると、
「俺たちも戻ろう」
透真がそう声をかけた。
私はゆっくりと振り返って頷いた。
「トーマだっこぉ」
フィンは甘えた声で透真を見上げる。
透真がそれに応えようと手を伸ばしたのを、私はそっと止めた。
透真の視線が、静かに私に注がれる。
「フィン」
「なあに?」
「三人で手を繋ぐのはどうかな?」
私は繋いだ手を少し持ち上げて、フィンに尋ねた。
「手が離れちゃうの、さびしいな」
もう少しだけ、
手のひらから伝わるこの温もりを感じていたかった。
フィンはパァッと目を輝かせて、太陽のように明るい笑顔を見せてくれた。
「ぼく、ネナとトーマと手 つなぐ!」
そう言って、もう片方の手を透真の手に伸ばした。
透真も柔らかい笑みを浮かべて、フィンの小さな手をとった。
私たちは誰がともなく、そのまま自然と歩き出した。
横目に見えた海はどこまでも広がっていて——
(……不思議)
さっきまでは、その果てしない景色に不安だったのに、
今、胸の中はとても穏やかで、温かい。
「ネナ〜どうしたの?」
「!」
いつの間にか足が止まっていたみたいで、
フィンが私を見て首を傾げている。
「ううん。なんでもないよ。
——いこう」
左足の踵を、ゆっくりと甲板から離していく。
足裏がふわりと浮いた瞬間、
揺れた髪が海風を含み、きらりと光を弾いた。
「——」
再び訪れたつま先の踏みしめる感触に、
小さな笑みがこぼれた。
第二十五話
覗く深海-地につく水平線- 完
『雨上がりの空で、傘をさす。』を読んでいただき、ありがとうございます。
ついに第四章も完結となりました。
今までの章で一番長く、
書き始めた当初は完結まで随分先に感じていましたが、振り返ってみるとあっという間だった気がします。
執筆の裏話になりますが、
実は四章を書き始めたのは、連載開始前……12月頃でした。
連載は初めてで、
投稿前のチェックをしながら進めることにも慣れておらず、特にクラーケン戦はなかなか筆が進まず……気づけば数ヶ月が経っていました。
途中、筆を折りそうになったこともありました。
それでも、
「読んでくれる人が一人でもいる」
そのことが、書き続ける力になっていました。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。
次回からは第五章に入ります。
【5/29(金) 22:30】
上記日時より投稿を開始します。
音凪たちの物語も、少しずつ終わりへと近づいています。
引き続き、見守っていただければ嬉しいです。
◼︎おしらせ
下記期間に、一章〜四章の分割作業を行います。
5/18(月) 〜 5/28(木)
文章の見直し・修正については誤字脱字のみを予定しており、
推敲や改稿については、完結後に行う予定です。
そのため、物語の内容に大きな変更はありません。
よろしくお願いいたします。
※分割作業が完了しました。(5/20追記)




