第二十五話:地につく水平線②
(やっと……帰って来れた)
大雨に濡れてしまった私たちの体は冷え切っている。
それなのに、触れ合う部分から熱が全身に伝っている気がして、温かかった。とても——
(……?)
首筋にかかる、透真の吐息が……熱い。
私の体が冷えているから、
余計にそう感じるだけ……?
それでも、熱すぎる気がした。
「……透真」
「うん……」
透真はゆっくりと体を離して、じっと私を見つめた。
その目は、少しだけ赤くなっていた。
「透真、もしかして……具合悪い?
熱……あるの?」
そう尋ねながら、右手で透真の額に触れようとする。
けれど、伸ばした私の手を透真がそっと握って、
私の手が透真の額に触れることはなかった。
「いや……俺より、音凪の方が……」
透真は眉間に皺を寄せてそう呟くと、握った私の手を流れるように裏返した。
「……痛いだろ」
自分を責めるみたいな、低い声。
透真は上に向けた私の手のひらを見て、痛々しそうに顔を歪めた。
摩擦でマメができて、捲れた手の皮。
戦闘中、何度も振り払った痛み。
「……」
透真は何も言わずに、
ただただ、傷に触れないように。
ゆっくりと、
手の甲や縁を撫でている。
「……透真」
私の声に目線だけ上げた透真。
同時に、私はそっと透真の手を解いた。
そのまま、右手を自分の顔に寄せて、ぱっと開いて——
「私……こんな風になるまで頑張ったのは、きっとはじめて」
ふふっ。
思わず声が漏れてしまうほどに、
透真しか見えないほどに目を細めて、笑った。
透真……私、うれしいの。
痛くて、辛くて、苦しかった。
だけどそれ以上に、
最後まで諦めないでよかったって。
そういう自分でいられて、うれしいの。
胸の中は温もりで満たされていく。
頬は、解けたまま——
そんな私を、透真はしばらく見つめていた。
わずかに口を開けて、何かを言いたげに。
そして、透真の喉が小さく動いて、声にならない息が漏れた、そのとき。
「ネナぁあーー!! トーマーーー!!」
私たちを呼ぶフィンの声。
声が聞こえた、透真の奥を見ると、
ぽてぽてっ!
フィンが船首の方から駆け寄ってきていた。
透真もくるりと後ろを振り返ってフィンを見る。
「ネナっ! トーマ!!」
まんまるの萌木色の目から大粒の涙をボロボロ溢しながら、両手を大きく広げて走るフィン。
(! フィン待って、危ない……!)
私は慌てて駆け寄ろうとしたとき。
「あっ!」
フィンのつま先が、
板の間に引っかかって——
ぽてんっ!
「!!」
「フィン!」
フィンの体は一瞬ふわりと浮き、
次の瞬間、甲板に顔から飛び込んでしまった。
「フィン……!」
私と透真はフィンに駆け寄って、甲板にうつ伏せている体をゆっくりと起こした。
「っひぃ……!」
起き上がったフィンの額と鼻先は真っ赤になっていて、すぐに両方からツゥーっと血が流れ出した。
「うわぁああん!」
フィンは泣きながら空を仰いで、大きな声を上げた。
「痛いよね? ごめんね、ちょっとだけ待っててね」
「フィン、下向こう。苦しくなるから」
透真がフィンの頭にやさしく手を当てて下を向かせている。
その間に私は腕輪になった傘を、もう一度元の形にした。
「今、痛いのとってあげるね」
ぱっと傘を開いて、そっとフィンの上にさした瞬間——
パラ……パラ……
傘の内側から、光の雨が降り出した。
舞うように落ちていく光の粒が、傷口にスゥッと染み入って、徐々に傷を癒していく。
「ううっ……ひっく……ひっく……」
傷が消えていくのと同時にフィンの呼吸も落ち着いてきて、
次第に涙も引いていった。
「ひっく……ネナの……〈ヒール〉だぁ……」
フィンは真っ赤な目元で、少しだけ口元を緩めて、私の顔を見上げた。
小さな手は透真の服をぎゅっと握っている。
「あったか〜い」
そう言って、うれしそうに笑うフィン。
笑顔を取り戻したフィンに、
私も気づけば微笑んでいた。
——この〈ヒール〉は、
まだモリスさんたちの小屋にいたとき、
偶然知った、傘の能力。
*
『……』
庭先でモリスさんに特訓してもらって、ひと休みしていたとき。
(私の心次第で、いくらでも姿を変えるかもしれない……かぁ……)
私はそんなことを考えながら、地べたに座って傘を眺めていた。
(変わる……変わる……)
姿が変わると言っても、剣は傘のままだった。
形そのものが変わるわけではないのだろう。
かと言って、この傘がどういう風になるのか、
私にはまだ何も思い浮かべることはできなかった。
バッ!!
傘を開いてみた。
紺の布地が広がって、
わずかに太陽の光を通している。
ごくごく普通の、傘。
(心……)
きっと、何か強いきっかけがないとダメなのかもしれない。
剣になったときは、
"死にたくない"
"透真にもう一度会いたい"
そう強く願っていた。
(見つけようとして、何かすることでもないのかも)
とりあえず今は、剣として使いこなせるようになること。
使う頻度が増えれば、自ずと他の形も見えてくるんじゃないかな。
そんな風に自問自答しながら、
そっと傘を閉じようとしたときだった。
『ネ〜ナ〜!』
食料集めに森の中に出かけていたフィンが帰ってきた。
『フィン、おかえり』
私は傘を閉じるのを止めて、駆け寄るフィンに笑いかけた。
フィンはとてとてやってきて、ぽふんっと私の横に座り込んだ。
『ただいまぁ』
にこにこしているフィンに、私もつられてにこにこ。
『今日は……』
"どんな物が採れたの?"
そう聞こうとして、はっと気づいた。
『フィン、ほっぺどうしたの?』
『ええ〜?』
私の言葉にきょとんと目を丸くするフィン。
そんなフィンの頬には、引っ掻いたような傷ができていた。
『ここ、傷できてるよ』
私は自分の頬を指差しながら、フィンにどの辺りに傷があるのかを教えた。
『ここ〜?』
フィンが触ろうとしたのを、そっと手を握って止めた。
『ばい菌入っちゃうから、触らないよ?』
『はあい』
フィンは頬に伸ばした手をゆっくりと下ろした。
平気そうにしているから、かすり傷かと思えば、
よく見てみると、思ったよりも深そうだった。
(痛くないのかな? ……結構、痛そう)
早く手当てしなければと、
フィンの頬の傷口を洗うために、傘を置こうとしたときだった。
……ポツ……ポツ。
『……えっ?』
きらきらと降り注ぐ、小さな光の粒たち。
傘に穴が空いてしまったのかと、慌てて傘を見上げた。
『!』
傘に穴は空いていなかった。
ただ——
白銀の光が、傘の布地を包んでいた。
傘を包み込む光が、
滴るように落ちていく。
私はフィンに視線を戻した。
『ネナ! これなあに? きれいだね〜』
『ぽかぽか〜』
やさしく降り注ぐ光を見つめ、にこにこと無邪気にはしゃぐフィン。
——頬の傷は、消えていた。
『〈ヒール〉だね』
ふっと、家の入り口から聞こえた声。
振り向くと、モリスさんが静かにドアから姿を覗かせた。
(ひー……る?)
頭のなかで復唱して、
ゆっくりと傘に視線を戻した。
"治す"
そういうことだろうか。
『〈ヒール〉! ぼく、しってるよ!』
モリスさんの顔を見上げて、
ぴょんっと腰を浮かせたフィン。
(!)
私は咄嗟に腕を伸ばして、傘が当たらないように躱した。
(頭、ぶつかっちゃうかと思った……)
ほっと胸を撫で下ろした。
光の雨は、すでに止んでいる。
私は伸ばした腕をフィンと反対側に回して、そぉっと傘を閉じた。
『おにいちゃんとまちにいったときねっ、おねえちゃんがしてたの!
そしたらおじちゃんのけが、きえちゃったんだよ〜!』
くるくると表情を変えて、一生懸命に説明をするフィン。
かわいらしさに、思わず「ふふっ」と声が漏れた。
——ふと、感じた視線。
見上げると、一緒にフィンを見ていたモリスさんの視線が、
いつの間にか私に注がれていた。
一瞬、笑ってしまったのが良くなかったかなと、
わずかに、胸の奥がざわついた。
けれど、モリスさんの表情は穏やかで、
すぐにそうではないと気がついた。
(でも、どうして……)
見ているんだろう。
そう思ったとき、モリスさんがそっと口を開いて——
『とても、君らしい能力だね』
そう微笑んだ。
*




