第二十四話: 荒れ狂う大波
激しく吹きつける風の音。
大きく揺れる海の音。
怪物の咆哮。
すべてが——溶けていった。
自分の身に何が起こっているのかは、すぐに分かった。
自分が何をすべきかも。
(——選ぶ)
世界から削ぎ落とされた音のなかで、
私は——必要な音だけを、拾う。
今いちばん、聞きたい音。
(それは)
海から放たれる——水球の音。
……パシュン。
——それだけを、摘みとった。
「っ!」
傘を傾け、上昇する。
無音の風が体を大きく揺らす。
——!
水球が足先をかすめた。
【身体強化】以上に、運動能力が上がったわけでもない。
世界が遅くなったわけでもない。
(水球の音だけじゃ、だめ)
必要な音。
何が必要——?
思考が、鋭くなる。
強風に煽られて、ぐわんぐわんと体が波打つ。
(風さえおさまってくれれば……)
「!」
ハッと、顔を上げた。
(……風の音)
おさまらなくても、風に煽られなければいい。
状況を、利用するんだ。
「……すぅ」
私はひとつ、深く息を吸った。
全部はだめ。
必要な分だけ、摘みとる。
避けるために。
吹く方向が分かれば、
あとは『身をまかせる』だけでいい。
——意識を研ぎ澄ます。
……フッ
——パシュン。
「——!」
ほぼ同時に聞こえた音。
右から近づく風の音に合わせて、左に傘を傾けた。
ビュオオオオ!
——シュンッ!
私がいた場所を貫いた水球は——
かすることなく、上空で弾けた。
(……軽い)
傘を握る手が、少しだけ楽になった。
さっきまでは風に激しく揺さぶられて、常に強く握り締めないと吹き飛ばされそうだったのに。
今は、最小限の力と動きで避けられる。
——!
続く水球も、
風に乗って避けた。
「……」
聞いているのは水球と風の音だけ。
置かれている状況とはほど遠い、静かな世界。
——怪物の攻撃の範囲から、出られるかもしれない。
攻撃対象を失えば、怪物が暴れる可能性があった。
船との距離が近いままでは、
巻き込まれてしまう可能性があった。
加えて、激しくなった攻撃で上昇するのも難しい状況だったけれど——
(今なら、できる)
この【音摘】の発動で、
透真の念話が遠くなってしまった。
だけど一瞬、
かすかに聞こえた声。
『距離が取れた』——と。
だけど、この嵐のなか透真が〈光線〉を撃つのは、きっと難しい。
それなら、私が射程範囲から外れる方が一番いい。
(ここで死んでもいいなんて——思わない)
私は水球の音の隙間で、上昇しようと空を見上げた。
傘の布地が黒く濁った空を映す。
——雲を裂くような、閃光も。
「——っ!!」
理解するより先に、反射的に軌道を逸らした。瞬間——
——!!!
稲妻が、海に向かって走って行った。
海は一瞬白く光り、
刹那、海面を電気が這っていく。
(雷……!)
空を見ていなかったら気づかなかった。
気づかなかったら……
撃たれていた。
背筋に、ひやりとしたものが走った。
(死んでいたかもしれない)
私はすぐに【音摘】で雷の音を拾い上げた。
ゴロゴロと低くうねり上げる音が聞こえ始める。
水球の音に、風の音。
雷の音にまで注意を払わなくてはならなくなった。
もし、このまま聞くべき音が増え続けてしまえば、【音摘】の効果は意味をなさなくなってしまう。
苦しさに、顔が歪んだ。
希望が見えた、そのたび、
すぐに握りつぶされる。
目の奥にじんと、
熱いものが込み上げてくるのを感じた。
(だめ)
避けることに集中する。
それ以外は、考えちゃだめ。
「っ」
それでもふと、
——見えない船の姿を、探してしまった。
(透真……っ)
合図は——
まだ、来ない。
***
《透真視点》
視界を遮る暴風雨。
雨粒の遠く向こうで、空を飛び回り攻撃を躱す小さな影。
——音凪の姿。
「はぁ……っ、はぁ……!」
浅い呼吸に、小刻みに震える右手。
異常な程の、喉の渇き。
『クラーケン』と船の距離は、
既に十分、離れていた。
あとは俺が〈光線〉を、アイツに当てればいい。
早く撃たなければ、音凪が保たない。
分かってはいる。しかし、
(状況が、悪過ぎる)
ただでさえ距離があり、狙いを定め難い。
そこに風向きと、視界不良という悪条件が重なる。
それだけならまだいい。
当たるまで、撃てばいい。
だが、俺はそれができないでいた。
「……っ」
無力感に、顔が歪んだ。
もし万が一、
音凪に当たったら——
最悪の状況を想像した瞬間、
肺が潰れるように、息が止まった。
俺が——
音凪を殺すかもしれない、と。
理屈では、
当たる可能性は低い。
だけど—— 0ではない。
(撃て……! 撃たないと、音凪が……)
クラーケンの攻撃を躱し続ける音凪の姿を見つめては、自分にそう言い聞かせる。でも——
(……撃てない)
指先に、
一縷の魔力すら、込められなかった。
『——透真』
目を細めて俺を呼ぶ、
音凪の顔が浮かぶ。
(音凪……っ)
『側にいなくても、生きてさえいれば』
もう、それだけでいい。
それだけでいいんだ。それなのに——
「っ……くそっ……!」
タイミングを誤れば、
今度こそ、永遠に失ってしまう。
しかし、今この状況で、撃たないという選択肢がないのも分かっている。
他の策があれば、
とっくに音凪は戻ってきている。
堂々巡りの思考が、
照準を、狂わせる。
(音凪……っ)
——撃つんだ。
早く音凪を、解放するために。
俺は歯を食いしばって、指先を海面に向けた。
魔力は——流れない。
《透真視点》 end.
***
風を掴み、水球と雷を避ける。
「っ……!」
避ける度に、しなる体。
手と腕にかかる負荷。
それでも変わらない状況。
そして、聞こえない——透真の声。
何度も……何度も、避け続けた。
その度、透真の声を待った。
(透真……、透真……!)
どうして?
どうして、合図が来ないの……?
唇をぎゅっと食んだ。
ぴりっと走った痛みに、少しだけ冷静になる。
私は嫌な感情を振り払うように、小さく首を振った。
(本当は、分かってる。……分かってるの)
透真のこと、ずっと見てきた。
物心ついたときから、十九年ずっと一緒にいた。
だから、分かってる。
透真が今、何を考えているのか——分かる。
『——』
真剣な目で私を見つめる、
ダークブラウンの瞳。
透真はきっと——
良くない結果になることを、恐れている。
*
『トーマ! ぼく "こうせん"見てみたい!』
ラウハの町を出て二日。
イノシシに似た動物を倒したあとのことだった。
動かなくなったイノシシの血抜きをしている透真。
その様子を眺めていたフィンが、
ふと、思い出したように透真にお願いをした。
以前私が、
"透真の〈光線〉に助けられた"
と話したことを、きっとフィンは覚えていたんだろう。
私もその話を、フィンがきらきらした瞳で聞いていたことをよく覚えている。
期待に頬を桃色に染めるフィン。
しゃがみ込んでいた透真は、静かにフィンに視線を向けると苦笑いをした。
『危ないから、難しいな』
透真の言葉に、フィンがこてんと首を傾げる。
『あぶない?』
『ああ』
透真は小さく頷くと、再びイノシシに視線を戻した。
『見通しのいい場所じゃないと』
透真の言葉に、フィンはさらに首を傾げた。
そんなフィンを透真は横目で見て、
少しだけ口元を緩めて、またイノシシを見る。
『例えば、もし木の先に人がいたら、取り返しがつかない。
当たる直前に気付いたとしても、〈光線〉は曲げられない。
撃った時点で既に……手遅れだ』
透真が言い終えると、フィンはくるりと辺りを見回しはじめた。
一周したところでぴたっと止まると、木々の奥を窺うようにじーっと見つめた。
『そっか〜』
フィンは透真が〈光線〉を撃たない理由に納得したようだ。
『"こうせん"は、あぶないっ』
そう呟いて、大きく頷いた。
その様子を見ながら、私はぼんやりと考えていた。
(あのとき撃てたのは、どうして……?)
透真がぼーっとしている私に気がついた。
ゆっくりと私に顔を向けて——
『音凪の命が一番だから』
まっすぐ、私の瞳を見つめた。
透真には私の考えがお見通しらしい。
なにも言っていないのに、私の疑問に答えてくれた。
『それに、あの時は"確実に間違えない"自信があった』
透真は続けてそう言った。
私は『そうなんだ……』と呟いて、
『ありがとう、透真』
透真に向けて、口元をそっとほどいた。
真剣な瞳をしていた透真の目が、スッと細められた——
*
透真は私に〈光線〉が当たることを恐れてる。
例えそれが、どんなに低い可能性だとしても、透真は無視することができないんだ。
(でも)
——! ——!
連続して落とされる雷。
右、左と、荒れ狂う風に乗って、間一髪で避けた。
私は傘を握る両手を、強く握りしめた。
(透真……)
透真ひとりで、
背負う必要はない。
パシュン!パシュン!パシュン!
下から狙い定める怪物。
放たれる水球から逃げるように、傘を傾けた。
そう。
透真が外しても、終わりじゃない。
私だって——動ける。
(……お願い)
お願い透真。
私のことを——
私はまっすぐ前を見つめ、
大きく息を吸って
叫んだ。
「透真っ!!
私を——信じて!!」
——信じて、透真。
つきんと喉に鋭い痛みが走る。
叫んだ声が震えているのを感じた。
——。
嵐の中で不自然な——
やさしい風が吹き抜けていった。
***
《透真視点》
「くっ……!」
黒く唸る海面から覗くクラーケン。
そいつに向けて伸ばした指先を、
冷たい雨風が激しく打ちつける。
早く撃たなければ、音凪が——
歯を食いしばって、
体に流れる魔力を込めようとした。
だが——
「っ……!」
自分の放った〈光線〉が、音凪に当たる。
そんな光景が、
脳裏を駆け巡った。
虚な瞳で落ちていく、音凪の姿が——
「——ヒュッ」
喉の奥で空気が震えた。
魔力は、込められなかった。
やり切れない思いに気づけば俯き、
強く歯を噛み締めた。
口の中で、歯が軋む音が響く。
間もなくして直ぐに、鉄の味が広がった。
どうにもならない状況に体の力が抜けかけた。
伸ばした指先が、落ちはじめた。
その時——
「透真っ!!
私を——信じて!!」
息が止まった。
届くはずのない——
音凪の声が、聞こえた。
俺は固く目を瞑った。
(音凪っ、音凪——!)
ごめん。
情けない奴でごめん。
だけど俺は、音凪を失うことだけは、
それだけは——
バッ!と顔を上げて、音凪のいる先を見つめた。次の瞬間。
「——」
クラーケンの紅い眼が、一際強く発光した。
何かが来る。
音凪が——死ぬかもしれない。
「——音凪っ!!!」
刹那、
指先に——熱が灯った。
第二十四話
覗く深海-荒れ狂う大波- 完




