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雨上がりの空で、傘をさす。  作者: つな△まよ
四章:覗く深海
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第二十三話:渦巻く潮騒


真っ黒な海で、異様な存在を放つ瞳。

——深海の底へ、引きずり込もうとしているような。



「音凪!!」



透真の声が、切り裂くように届いた。


ハッと我に返った刹那——



ヒュンッ!



白い光が一直線に走り、

私の腰を締め上げていた“触手”を貫いた。


ぶちっ……!


弾けるように力が抜ける。



(今……!)



私は傘を突き上げた。


バッ!


布地が張る鋭い音。

次の瞬間、傘は私の体を軽々と持ち上げ、宙へと浮かび上がらせた。


海風が頬を裂くように吹き抜ける。

海から鳴っている、底から唸るような低い音が耳にまとわりつく。


私の下で、巨影がゆらりと身をくねらせた——。


(な……に?)


どろりと重々しい黒海の中、

うっすらと輪郭の滲んだ影が、わずかに海面から姿を現した。


丸みのある形。

表面はてらりとぬめっている。

そこから伸びる、複数の細い影。


そのうちの一つが——


うねった。



ヒュン!!



「——っ!」



後ろに引きながら体を逸らして、水中から飛び出した触手を間一髪避ける。

視界の端に捉えた、潜む相手の姿。



(巨大な……タコ……?)



丸みのある表面は頭部だった。

そこから延びる複数の触手。

吸盤がびっしり並び、獲物を探すように海面をなぞっている。


ぞくり、と背筋が震えた。



〔音凪! 後方に戻れ〕



透真の声が頭に響く。

私はちらりと後ろを確認した。


——船が、ない。



『敵に明確な意思があった場合、俺はすぐに〈影幕〉を発動する』



(……エヴァンさん……!)


脳裏に、作戦を告げるエヴァンさんの姿がよぎる。


私は巨大タコから視線を逸らさないまま、傘を後ろへと反らした。

動きに合わせて体が引かれ、空中でゆっくりと下がっていく。


〔足元に船がある〕


透真の念話に誘導され、

透明な足場に降り立つように——足裏に“硬さ”が戻った。


(さっきまで、見えなかったのに)


影幕に包まれた船が、視界に姿を取り戻す。


傘は自然と軸を返す。

私は着地と同時に振り返り、船尾へ駆け出した。


「大きなタコ!!」


視界の端。

透真がわずかに目を見開き——すぐに短く頷いた。


私は甲板を蹴って跳び上がり、傘を突き上げる。



バッ!!



閉じていた傘が勢いよく開く。

その瞬間、体が再び空へと引き抜かれていった。


視界から船がすっと消えた、その刹那——


ヒュンッ!!


左側から触手が閃光のような速さで迫る。


(早——っ!?)


反射的に体を捻ってかわした瞬間、

触手の先が服の裾をかすめた。


ヒュルッ……!


わずかな布の感触を捉えたのか、

触手はそのまま“捕捉した獲物”を追うように、鋭く旋回してくる。


「っ……!」


私は傘を傾け、急上昇して一気にそれを振り切った。


ゴムで締め付けたような音。

その音に下を見て、肩がこわばった。


空気を隙間なく締めつける触手。

かすかにミチ……ミチ……と聞こえるほどに。


捕まっていたら、

今ごろはどうなっていたか分からない。



(絶対に、捕まっちゃだめだ……!)



心を奮った矢先から、


バシャア!!


海面から水飛沫を上げて、次々と飛び出してきた。


「っ!」


私は四方八方に身を翻して、触手の猛攻を避け続ける。

一本かわしても、次の触手が迫りくる。

次をかわしても、そのときには別の触手が狙いを定めている。


(斬り込む余裕なんて、ない……!)


まして、本体は黒く濁った海のなか。

私はひたすらかわし続けることしかできなかった。


とにかく、船に被害が向かないようにと、

飛翔したまま上空に居続ける。



〔音凪〕



透真の声。

エヴァンさんに船を脅かしているモノの正体を伝えたのだろう。そういう作戦だった。


私は避けながら、透真の声に意識を向けた。



〔船は先行した。音凪は回避に専念でいい〕



『船は先行した』

私は今、船の後ろについているということ。


そして、『回避に専念』と言うことは、

透真にも今の私の状況が分かっているらしい。


(ということは……)





「俺たちの攻撃の要はおねーさんだ」



エヴァンさんの言葉に、

小さく頷く私と、ただ静かに見つめる透真。


「だけど」


エヴァンさんの視線が、スッと私に注がれる。



「〈影幕〉を使う場合、必要な機動力を持っているのも君だ」



その言葉に、

透真の指がわずかに握られたことを、

私は気づかなかった。



「加えて、相手は海の中にいる可能性の方が高い。

 ——君の戦闘スタイルとは相性が悪いよね」



視線が下がり、まつ毛が下まぶたに触れる。

気づけば今までの戦闘を思い出していた。


陸地や空での戦い。

スピードと、自由に動ける場所が得意なのは、自分でもすぐに分かった。



(……)



もし海のなかに潜ったとしても、

傘を思うように振れるかは分からない。

そこで倒しきれなかったら——


逃げ場は、ない。



私はこくりと、深く頷いた。


エヴァンさんは透真と私を交互に見て、そっと人差し指を立てると、


「そうなったら、攻撃は一つしかない」


立てた指先が、透真を指した。



「——〈光線〉だ」



その言葉に続くように、短い沈黙。

透真はわずかに肩を揺らし、


「……ああ」


俯いたまま、

しぼり出すような掠れ声で頷いた。


(透真……?)


その瞳はエヴァンさんにも私でもなく、

どこか——

ここではない遠い場所を見ていた。



“どうしたの?”

声をかけようとして、手が動く。


けれど、


「……」


伸ばしかけた指先を、そっと下ろす。



どうしてか、

"触れてはいけない"と、そんな気がした。


「敵に明確な意思があった場合、俺はすぐに〈影幕〉を発動する」


エヴァンさんはそう言いながら指を下ろし、

一度だけゆっくりと息を吐くと、

甲板の入り口とは反対側へ視線を向けた。


「おねーさんはすぐに船尾に移動して、船から敵を引き離してほしい」


視線はすぐに私へと注がれた。

声は穏やかだけど、その目は真剣だった。


私が頷くと、エヴァンさんは視線の先を透真へと移して、



「十分な距離が取れたら、〈光線〉を放つ。


 ——タイミングは、任せていいね?」



確信を帯びた声。


透真はまつ毛をふっと震わせ、

わずかに息を呑んだ気配を残してから、

静かに前だけを見据えた——。





——シュッ!


「っ!!」


顔の横を、風が切った。


——あと少し遅れていたら、捕まっていた。



息つく間はない。

私を捕らえようとする触手たちの足先が、

何もかも突き破る勢いで飛んでくる。


(集中しなくちゃ……!)


攻撃の手を緩めない触手の動きに、

神経を研ぎ澄ます。


水を跳ね上げる音。

わずかな風の揺れ。

視界の端で揺らめく影。


ひとつも、取りこぼさないように——。



「はぁっ……!」



直線に逃げていては避けきれない。


体を何度もひねった。


一度でも掴まれたら、そのまま海の底へ引きずられる——

そんな確信に、胸が縮む。


本体はひとつなのに、

“掴まれる”

ただそれだけで、心身の消耗がいつもより激しい。



(船は、今どこ……?)



〈光線〉を放つためには、

船から“安全な距離”を取らなければならない。


私は今、エヴァンさんの〈影幕〉で船の位置は分からない。

透真の声に頼るしかない。けれど。



(透真……?)


——来ない。



次の判断を促す声が、

一向に届かない。



どくん。



喉の奥から、

嫌な音が迫り上がった。



(どうして……)


何かあったのかもしれない。

私は一度、船の方へ引き返そうとした。


だけど——触手は途切れる気配がない。

それに、エヴァンさんの〈影幕〉で、

どこに船があるのかも分からない。


引き返す先が見えないままでは、

方向転換すらできない——

すぐにそう悟った。


……なら。



——信じて、避け続けるしかない。



(大丈夫……透真なら、大丈夫)


パシィッ!


右手で握る傘の柄を、

左手で強く握りしめた。


激しく揺れる体を片手で支えるには、

いくら【身体強化】があっても限界がある。


(海に落ちたら——最後)


今の私は、傘に“吊られる”ようにしがみつくしかなかった。



ヒュインッ!!


「っ!」



下から突き上がってくる触手。

狙いは足元。

私は浮上しながら膝を引き上げて、体をすばやく丸めた。


風圧に揺れる体。

傘がぐらつき、指先がしびれる。


それでも、かわし続けなければ……!


私は次の一手を避けるため海を見た。


水中から覗くふたつの光。



ユラリ……と、



細く、横に引き伸びた。

まるで——嗤っているかのように。



途端、

光は消え、触手とともに海のなかに深く沈んでいく。


(……どういう、こと?)


私は何が起きているのか分からず、

その様子をただ呆然と眺めていた。


海は突如、しん——と静まり返った。


海面は不気味なほど穏やかに波打ち、

さっきまで吹いていた風さえ、ぴたりと止んでいる。



(もしかして……諦め……た?)



足元に広がる海面を覗き込んだ——


そのとき。



〔避けろ!!〕



焦りを滲ませた透真の声が短く響く。

反射的に柄を逸らして上昇した瞬間——



パシュン!!



「ぁっ……!」


傘の露先に、何かが当たった。

その衝撃に傘が大きく跳ね、肩が後方に強く反れた。


「っ……!」


肩を突き抜けるような痛みが走り、思わず顔が歪む。


(——何が飛んで来たの……?!)


考えるよりも先に、ピチャッと冷たいものが頬に散った。

ひやりとした感触が、皮膚をつたって落ちていく。



(……水……?)



そう気づいた瞬間、

水面から、次々と“水の塊”が放たれはじめた。


触手のときよりも明らかに早く、

そして——手数が、段違いに多い。



パシュン! パシュン! パシュン!


「——っ!」



すべてを避け切れるような速さじゃない。

時折、傘に当たっては水が弾け飛び、

飛沫が顔に当たるたび、思わず目をつむる。



視界が——奪われる。



ほんの一瞬。

水が放たれる音に目を開いたとき——


「ぅ……っ!」


水球が腕を掠めた。

じんじんと熱い痛みが滲んでいく。



〔音凪!!〕


〔後方だ! 一回戻ってこい……!!〕



透真にも見えていたんだろう。

懸命な呼びかけに、目の奥が熱くなる。


透真に見えていたということは、船はまだ近くにいる。

そんな状況で戻ったら、巻き込んでしまう。


私は首を大きく振った。



〔音凪……っ! 戻れ——!!〕



その声は、指示というより“懇願”に近かった。


そうこうしている間にも、次の水球が飛んでくる。

私は船から離れるように、前方へ空を駆けた。



〔音凪!!〕



戻れない。

……ううん、戻らない——!



(大丈夫。 少しだけ——見えた)



水球は一定の数と間隔。

そして、まったくの別方向から飛んでくることはない。

放出口は——ひとつ!


(左右に避けず、まっすぐ飛び続ける——!)



パシュン! パシュン! パシュン!



傘と私が通りすぎた跡を貫く水球。

二、三拍の溜め。

再び放たれた水球は、またも影を貫いた。


思わず、口元が緩んだ。



(これなら、避け続けられる……!)



そう確信したのも、束の間だった。



海が大きく揺れた。


——刹那。



バシャァアアン!!



低い唸り音とともに、激しい水飛沫が上がった。そして、




「ゴボォォォオオオ——ッ!!」



——海面を割って、黒い影が姿を現した。




水飛沫の向こうで、

真紅の躯体に浮かぶ青白い“眼”が、こちらを見上げている。



ポツ、ポツ。



傘の布地が水を弾く音がした。


(水飛沫がそんなに高く……?)


空を見上げた瞬間、目を見張った。


ポツ、ポッ、ポッ——



——雨が降り出した。



黒い雲はさらに濃さを増し、空を掻き回すように渦を巻きはじめる。

風は急激に強まり、体が大きく揺れだした。


雨脚は瞬く間に激しくなって、顔は上げていられない。

傘に叩きつける雨音が、周囲の音を完全に奪っていく。



「……っ」



(また……不利になった)



……シュンッ!


「!!」


雨の幕に紛れて、視界に入り込んだ水球。


私は慌てて身を翻し、

そのままの勢いでまっすぐ飛んで、追撃を避けた。


(だめ……っ! 止まれない!)


止まってしまったら、次こそ直撃する。

そんな確かな予感に、気づけば傘の柄を強く握りしめていた。



〔音凪、危険だ!!

 ——戻ってきてくれ……っ!!〕



透真の声。

胸の奥で、ズキンッと鈍い音が鳴る。

透真の声は頭の中で響いているのに、

震えているように感じた。


きゅっと、固く口を結ぶ。


戻らない。

戻らないよ、透真。


透真だって、分かってるはず。



私が戻ってしまえば——

みんな海の底に、沈んでしまうことを。



怪物は完全に私を捉えている。

逃すはずがない。

戻ろうとしたら

きっと、後を追ってくる。


顔を打ちつける冷たい雨粒。

目尻に感じた熱が、水滴に溶けた。


(お願い……透真)


ただ、私を——信じてほしい。


傘を掴む腕に、ぐっと力を入れた。

長い負荷に、肩が軋む。


「っ」


それでも、

歯を食いしばって、顔を上げた。


水球が何度も狙い定めてくる。

その度、透真が私を呼ぶ。



(信じて)



ひとりで死ぬ気はない。

私も含めて、みんなで生きる。


モリスさんや、ラウハの人たち。

フアナたちビエントのみんなに、もう一度会いに行って、


透真と——元の世界に帰る。



「……諦めたくない」



気づけば、零れていた。


自分の声だった。


その音がスゥッと、胸の奥に沁み込んでいく。



——体が、軽くなっていく。



「絶対に私は」



音が遠ざかっていく。


まるで、自分だけが取り残されていくように。



バッ!!

前を見据えた。



「——諦めない!!」



叫んだ瞬間、世界から——音が消えた。



キィイイン……



世界が、


  凪いだ——。



第二十三話

覗く深海-渦巻く潮騒- 完

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