第二十二話:滲む水面④
踊り場まで階段を昇って、
聞こえてくる話し声に上を見上げた。
その声に耳を澄ませながら、甲板の入り口へと足を運ぶ。
「寒くないか?」
「うん……」
吹き抜けの格子越しに、開けた空間の隅でしゃがむ透真の姿が見えた。
透真の体からちらりと覗くのは……寝袋?
「どうしたの……?」
階段を昇り切ってふたりに駆け寄る。
フィンは寝袋に身を包んで横になっていた。
大きな瞳はとろんとしていて、
いつもは桃色に薄く色づいている頬も、今はただ白い。
(もしかして、具合が悪い……?)
私はサッと透真の横にしゃがみ込んで、フィンのおでこに手を当てた。
手のひらに伝わる温もりは熱いわけではないけれど、フィンの体温にしてはひんやりしていた。
「たぶん、魔力切れだ」
フィンを見つめたまま、透真は言った。
(なんで……)
分かったのだろう。
透真は魔力を使ったこともないのに。
それに、
どうしてフィンが魔力切れなんて——
(……あ)
ふと、さっきのエヴァンさんの様子を思い出す。
『セイレーンは既に倒されたようだけど……』
エヴァンさんはそう言い留めて、
フィンに視線を向けていた。
もしかして——
フィンが、セイレーンを……?
きゅっと、胸が締めつけられた。
こんなに小さい子が、力を出し切るまで頑張ったんだと。
そしてその間、私は何もできなかった、と。
「フィン、つらくない?」
手のひらを、フィンの頬を包むようにあてた。
フィンは今にも隠れてしまいそうな萌木の瞳で私を見つめて、
「だいじょおぶぅ……ねむい、だけぇ……」
小さく、にこっと微笑んだ。
自然と、眉が下がる。
気丈に「大丈夫」と笑うフィン。
けれど、私は不安が拭いきれないでいた。
(このままにして、いいのかな)
でも、どうしたら……。
元気のないフィンに何もできないでいると、
エヴァンさんがよろよろと階段を昇ってきて私たちに話しかけた。
「おチビちゃん、やっぱり魔力切れだったんだ。
寝れば回復するから、ゆっくり休むんだよ〜」
階段を昇り切ったエヴァンさんが「お疲れさま」と微笑む。
フィンは応えるように、口元をきゅっと上げた。
そして——
その小さな笑顔が落ち着いた瞬間、
フィンは静かな寝息を立て、夢の世界へと沈んでいった。
フィンの呼吸だけが、甲板の片隅でやわらかく響いていた。
「さて」
エヴァンさんの声に、私と透真は立ち上がって振り返る。
相変わらず青い顔のエヴァンさんは、声を潜めながら続けた。
「外を確認する前に方針を決めようか」
エヴァンさんが人差し指を立てる。
私はこくりと頷いた。
「まず、今俺ができるのは〈影幕〉……敵から隠れることくらい。
この船くらいなら、なんとか隠せるかな」
そう言ったエヴァンさんに、私は少しだけ目を見開いた。
船が隠せるなら、それでやり過ごすことはできないのだろうか、と。
けれどその疑問は、続くエヴァンさんの言葉ですぐに吹き払われた。
「だけど相手によっては、発動と同時に注意を逸らす必要がある。
敵が明確にこの船を狙っている場合、目標を失った途端に暴れ始めるかもしれないからねぇ」
エヴァンさんは外をちらりと見据え苦笑いを浮かべると、
私たちに視線を滑らせて——
「……君たちのできること教えてくれない?」
わずかに首を傾けて、そう言った。
(私のできること……)
私は右手首にある、今は腕輪の形をしている傘に指先でそっと触れた。
「俺ができるのはこれくらいだ」
透真はそう言って、
〈放電〉〈発火〉〈念話〉
そして〈光線〉のことをエヴァンさんに伝えた。
状況が状況だからなのだろう。
フアンくんのときとは違って、透真はスマホの能力を隠すことなく教えた。
〈放電〉〈発火〉については威力がそんなにないことも、淡々と告げていた。
「……ふうん?」
エヴァンさんは何か含むように呟くと、
私に視線を流して「おねーさんは?」と尋ねた。
「私は……」
そこで留めて、右手を人のいない方に伸ばす。
(力を貸して)
傘に語りかけた。瞬間、
「!?」
腕輪が光の粒となり、
瞬く間に右手の中に傘の柄が現れる。
そして、柄から光が延びて——
深い海のような、紺色の傘になった。
「この傘で——戦えます」
斬ること、守ること、飛ぶことができる。
そう、エヴァンさんに伝えた。
直後、エヴァンさんは興味深そうに傘を眺め、
目をわずかに開いて声をこぼす。
「……へぇ!」
ほんの一瞬——
その視線が、私ではなく“透真の方”に流れた気がした。
「気になることは結構あるけど、ゆっくりもしてられないからねぇ。
とりあえず、
その武器について、いくつか答えてほしい」
「わかりました」
私が頷くと、エヴァンさんは簡潔に傘について尋ねた。
斬撃の種類、盾の範囲、飛行時間、同時発動が可能か——
他にもいくつか聞かれ、
私はそれらに対して、短く答えていった。
「うん、何となく分かった。 ありがとねぇ」
エヴァンさんは満足そうに頷くと、
スッと見据えて、真剣な表情で
「それじゃあ、作戦だけど……」
数パターンに及ぶ作戦の説明をはじめた——
「——いいね?」
エヴァンさんの言葉に、私と透真はこくりと頷く。
そのまま、甲板へ続くドアへと視線を向けた。
(外に……何がいるんだろう)
胸の奥に広がるざわつきに、視線が落ちかける。
肩が張ったのを感じて、私はそっと首を振った。
何がいようと、やることはひとつ。
——この船を、守る。
もう一度、真正面からドアを見据える。
取手に手をかけたエヴァンさんが、こちらを振り向いた。
「——行くよ」
外の波風が、遠くで微かにざわめいている。
それ以外、何も聞こえない不気味な静寂。
エヴァンさんが手首をひねる。
ガチャン。
錠の落ちる音だけが、異様なほど大きく響いた。
エヴァンさんの腕に、わずかに力がこもる。
ゆっくりと開いていくドア。
その隙間から、冷たい海風が頬を撫でた。
——ドクン。
心臓の音が響くたび、
外から聞こえる荒れた波音が、その鼓動を飲み込んでいく。
視界の端に覗く空は、どこまでも灰色。
重ね塗りされた油絵のように、厚く、重く沈んでいた。
半分ほど開いたドアの隙間から、
透真が甲板へと一歩踏み出す。
エヴァンさんは影に紛れるように一歩退き、
代わって透真が静かにドアを押さえ続けた。
「……」
透真はまず“自分の側”を確認するように、
少し身を乗り出し、もう一歩だけ進む。
その動きを合図に、
私も深く息を吸って、ゆっくりと甲板へ足を踏み入れた。
透真が右。
私は左。
互いに視界を分担しながら、
一つの異変も見逃すまいと周囲を探る。
(……何も……いない)
灰色の波と、重たく沈んだ空。
海はどこまでも暗く、気配という気配が感じられない。
透真も静かに船首側へ歩を進める。
何も起きないことが——逆に怖い。
ぎゅっ。
気づけば、傘の柄を強く握りしめていた。
いつの間にか風は止んでいた。
船の上とは思えないほどの静寂。
さっきまで軋んでいた船体の音すら——消えている。
(……あれ?)
喉の奥が、ひゅっと縮む。
——いつから?
気づいた瞬間。
風を割くような鋭い音。
反射的に振り返ったときには——
ギュインッ!
「っ……!!」
「——音凪っ!!」
腹部を締め上げるような衝撃。
足裏から支えが消え、
私はそのまま宙へと持ち上げられていた。
船の上から、ぐんっと遠ざかっていく景色。
私は必死に体を捻って、下を見た。
灰色の海に——
巨大な黒い影が、静かに浮かんでいた。
青白く揺らめくふたつの眼。
海面越しに、
“触手”で捕らえた私を、
動かず、ただじっと見つめている。
まるで、深海から覗くように——。
第二十二話
覗く深海-滲む水面- 完




