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雨上がりの空で、傘をさす。  作者: つな△まよ
四章:覗く深海
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第二十二話: 滲む水面③


「ひっく……ネナ?」



腕の中のフィンが、不安げな瞳で私を見つめた。そのとき——



グラァッ



船が大きく揺れた。


「わあっ!?」「きゃっ……!」


座っていても揺さぶられるほど、大きな揺れ。

右腕だけで抱えていたフィンの体を支えきれず、

フィンと共に、その重みにつられた私の体は透真の方へと倒れ込んだ。



「っ!」



透真はとっさに左半身を私たちに向けて、

私の膝から転がり落ちたフィンごと、私の体を支えた。


「あ……ありがとう、透真」


顔を上げた瞬間——


目の前に、透真の顔があった。



思わず息を呑む。

透真も、一瞬だけ目を見開いた。


薄い唇からこぼれた息が、かすかに鼻先を掠める。



(……近い)


胸の奥で、何かが跳ねた。



慌てて透真から体を離そうとしたとき、

船がまた大きく揺れた。そして——



ギシッ……。



どこからか、

何が軋む音が船体を伝った。


(な……に……?)


一体、何が起こっているの……?

わずかに焦りの滲んだ透真の声が、上から降ってきた。



「まずいな……」



苦い顔で再び外を見つめた透真。

外に、何かあるの……?


「透真……?」


「急ぎ状況の確認が必要だ。俺が……」


透真が話している途中で、

私はすくっと立ち上がった。


外、だよね。



「私——外、見てくる……!」


「えっ?! 音凪、待て!!」



私は部屋の出口へと駆け出した。


私の方が機動力があるし、

何かあったときには傘で対応できる。

なにより、

フィンと一緒に、透真が安全な場所にいた方がいい。


透真の制止の声も聞かず、

部屋の外へと飛び出した。

そのとき——



ドンッ!!


「きゃっ!」「っ!!?」



何かにぶつかって、

そのまま床に倒れ込んだ。


「音凪っ!!」

「ネナっ!?」


部屋の中から、慌てたふたりの声が近づく。

体の下に感じる、人の体温。

私は思わずつむった瞼をそっと開いて、

視界に入った光景に目を大きくする。



「うぅ……」


私は——見知らぬ男性の上に乗っていた。



「やっ、やだっ!」


私が「ごめんなさいっ!」と言って飛び退こうとすると、

息を詰めたような音がして、

浮いた腰がふわっ、と横に引き寄せられる。



「音凪、落ち着け。

 今度は後ろに倒れるから」



耳元にかかる落ち着いた声に横を向くと、

しゃがみ込んだ透真が、私の腰を支えていた。


透真はそのまま、私の体を引き上げながら立ち上がると、

眉間に皺を寄せて、私から視線を逸らした。


「そう……だね。 ありがとう、透真」


一瞬、その表情に怒っているのかと思い、謝ろうとした。

けれど、それはすぐに違うと気づいた。


逸らされた鋭い視線は、倒れている男性へと向かっている。


私ははっとして、

男性を振り向こうとしたとき。



「あっ、お外でげえげえしてたお兄ちゃんだぁ」



部屋から顔を覗かせたフィンが、声を上げた。

瞬間、

私の瞳が、その男性の姿をはっきりと映した。


(あれ……?)


見覚えのある特徴的な装い。

驚きに、私の目がゆっくり開いていく。



「はは……

 二度目だねぇ、かわいいおねーさん」



そこにいたのは、

苦笑いを浮かべた——紫のローブの男性だった。


フードは脱げていて、赤茶の柔らかそうな髪が緩くカーブを描いたり跳ねたりしている。

少し吊り上がった瞳もあいまって、どこか猫っぽい。


男性は青い顔で私たちを見上げている。

フィンの言葉通りなら、今も体調が良くないのだろう。


「本当にごめんなさいっ」


私は座り込む男性に近づこうとした。

けれど、腰に回された透真の手が阻む。


(透真……?)


透真の顔を見上げようとしたとき、

男性が「大丈夫、大丈夫」と苦く笑った。



「起きてる人に会えたしー。

 いやー、よかったよかった」



男性はふらつきながら立ち上がると、

壁に手をついて体を支え、唐突に自己紹介をした。



「俺はエヴァン」



辛そうながらも、

人懐こそうな笑顔を浮かべるエヴァンさん。


そのまま私たちの言葉も待たずに、

エヴァンさんは今置かれている状況を説明しはじめた。



「詳しいことは省くけど、

今船内の人間は【セイレーン】の歌によって眠らされてる。

 まあ、セイレーンは既に倒されたようだけど……」



エヴァンさんはちらりと、私たちの後ろに視線を流した。

その視線の先にいるのは、きょとんとした顔のフィン。


(セイレーン……? ……フィン?)


訳がわからないまま、エヴァンさんの話は進んでいく。

エヴァンさんはスッと視線を私たちに戻し、重々しい表情を浮かべて——



「別の何かが、船を狙ってる」



低く、言葉を紡いだ。


ドクンッと、胸の奥で嫌な音がした。

静かな通路内に緊張が走る。


「今起きてる人間は、たぶん俺たちだけ。

 他の人たちを置いて小型船で脱出もできるけど、襲われる可能性が高い。そしたらもれなく海の藻屑となるわけでー……」



一度船尾に視線を流したエヴァンさんの瞳が、再び私たちを映した。



「選択肢は——この船を守るしかない、ってね」



ごくりと、喉が鳴った。


エヴァンさんの言うことが確かなら、船員もみんな眠っている。

悠長に起こしている時間もなければ、

起こしたところで、外の"何か"に対処できるとも限らない。


(……)


まつ毛が、ふっと揺れる。


三人なら、傘で飛ぶことはできる。

でもきっと、陸地まではフィンが耐えられない。

それに——


何もせずに、

他の人たちを見捨てることは、できない。



「と言っても、あいにく俺は船酔いで魔力の制御ができないから、大したことはできないけど。

 ヘタしたら暴走に巻き込んじゃうしねー……」



エヴァンさんは申し訳なさそうに眉を下げて、

遠くを見つめながら、乾いた笑いを漏らした。


けれど、すぐに表情は引き締められ、

まっすぐに私たちを見据えた。



「でも君たち——冒険者でしょ?」


「何とかできない?」



尋ねているのに、どこか確信を帯びた声。

私の腰を支える透真の手に、わずかに力がこもった。


今の間にも、

船はギシ……ギシ……と軋む音を立てている。


——迷っている時間はない。



「……わかりました」



私はエヴァンさんを見つめて、深く頷いた。

そして一拍。

透真の顔を振り向く。


「透真はフィンとここにいて」


「っ」


私の言葉に、透真の顔が歪んだ。

怒っているような、悲しんでいるような。

そんな、表情。


透真は一瞬何かを言おうとして、言葉を飲み込んだ。

顔を逸らして俯き、短く息を吐くと、

静かに私へと視線を戻した。


「音凪」


落ち着いた透真の声。

ふたりの視線が重なる。


私は逸らさず、

焦茶の瞳をじっと見つめた。



「俺たちも行く」



透真は短く言った。

そして、スッと目を逸らして、

流れるようにフィンの元へと近づいていく。


「トーマ?」


「フィン、抱えるぞ」


そう言ってフィンを抱き上げた透真を、私は戸惑いながらも止めようとした。


「透真……っ」


「まとまった方がいい」


透真はそれだけ言って、

階段のある船首側へと駆け出した。



「はっや」



エヴァンさんはぼそっと呟いて、

へろへろと小走りで透真を追いかけていった。


「あっ……」


とっさに伸ばした腕は空を切り、

行き場のない手が虚しく宙に浮いている。


透真は目を逸らしたあと、

私に視線を戻すことはなかった。


ズキンッ——


"まとまった方がいい"

言葉通りなのかもしれない。

けれど、一度言葉を飲み込んで視線を逸らした透真の行動。


それが、

諦められたような、

信じてもらえないような。

そう思えて、ひどく胸の奥が痛んだ。


自然と目線は下がっていく。


息が詰まって、一瞬。

私は深く息を吸って、静かに首を振った。


そして、胸の内の雲を吹き払うように、

勢いよく顔上げて前を見据え——



(今は……悲しんでる場合じゃない)



そう自分に言い聞かせ、

小さくなっていく三人の背中を追いかけた。


途中、追いついたエヴァンさんに、

「先行っていいからぁ……」と真っ青な顔で言われた。

気にかかりはしたけれど。


「……すみません」


私は小さく頷いて、先を急いだ。



踊り場まで階段を昇って、

聞こえてくる話し声に上を見上げた。


その声に耳を澄ませながら、甲板の入り口へと足を運ぶ。


「寒くないか?」


「うん……」


吹き抜けの格子越しに、開けた空間の隅でしゃがむ透真の姿が見えた。

透真の体からちらりと覗くのは……寝袋?


「どうしたの……?」


階段を昇り切ってふたりに駆け寄る。

フィンは寝袋に身を包んで横になっていた。


大きな瞳はとろんとしていて、

いつもは桃色に薄く色づいている頬も、今はただ白い。


(もしかして、具合が悪い……?)


私はサッと透真の横にしゃがみ込んで、フィンのおでこに手を当てた。

手のひらに伝わる温もりは熱いわけではないけれど、フィンの体温にしてはひんやりしていた。



「たぶん、魔力切れだ」



フィンを見つめたまま、透真は言った。



(なんで……)


分かったのだろう。

透真は魔力を使ったこともないのに。


それに、

どうしてフィンが魔力切れなんて——



(……あ)


ふと、さっきのエヴァンさんの様子を思い出す。



『セイレーンは既に倒されたようだけど……』



エヴァンさんはそう言い留めて、

フィンに視線を向けていた。


もしかして——

フィンが、セイレーンを……?


きゅっと、胸が締めつけられた。

こんなに小さい子が、力を出し切るまで頑張ったんだと。

そしてその間、私は何もできなかった、と。


「フィン、つらくない?」


手のひらを、フィンの頬を包むようにあてた。

フィンは今にも隠れてしまいそうな萌木の瞳で私を見つめて、



「だいじょおぶぅ……ねむい、だけぇ……」



小さく、にこっと微笑んだ。


自然と、眉が下がる。

気丈に「大丈夫」と笑うフィン。

けれど、私は不安が拭いきれないでいた。


(このままにして、いいのかな)


でも、どうしたら……。

元気のないフィンに何もできないでいると、

エヴァンさんがよろよろと階段を昇ってきて私たちに話しかけた。



「おチビちゃん、やっぱり魔力切れだったんだ。

 寝れば回復するから、ゆっくり休むんだよ〜」



階段を昇り切ったエヴァンさんが「お疲れさま」と微笑む。

フィンは応えるように、口元をきゅっと上げた。


そして——

その小さな笑顔が落ち着いた瞬間、

フィンは静かな寝息を立て、夢の世界へと沈んでいった。


フィンの呼吸だけが、甲板の片隅でやわらかく響いていた。



「さて」



エヴァンさんの声に、私と透真は立ち上がって振り返る。

相変わらず青い顔のエヴァンさんは、声を潜めながら続けた。


「外を確認する前に方針を決めようか」


エヴァンさんが人差し指を立てる。

私はこくりと頷いた。



「まず、今俺ができるのは〈影幕〉……敵から隠れることくらい。

 この船くらいなら、なんとか隠せるかな」



そう言ったエヴァンさんに、私は少しだけ目を見開いた。

船が隠せるなら、それでやり過ごすことはできないのだろうか、と。


けれどその疑問は、続くエヴァンさんの言葉ですぐに吹き払われた。



「だけど相手によっては、発動と同時に注意を逸らす必要がある。

 敵が明確にこの船を狙っている場合、目標を失った途端に暴れ始めるかもしれないからねぇ」



エヴァンさんは外をちらりと見据え苦笑いを浮かべると、

私たちに視線を滑らせて——



「……君たちのできること教えてくれない?」



わずかに首を傾けて、そう言った。


(私のできること……)


私は右手首にある、今は腕輪の形をしている傘に指先でそっと触れた。


「俺ができるのはこれくらいだ」


透真はそう言って、

〈放電〉〈発火〉〈念話〉

そして〈光線〉のことをエヴァンさんに伝えた。


状況が状況だからなのだろう。

フアンくんのときとは違って、透真はスマホの能力を隠すことなく教えた。


〈放電〉〈発火〉については威力がそんなにないことも、淡々と告げていた。


「……ふうん?」


エヴァンさんは何か含むように呟くと、

私に視線を流して「おねーさんは?」と尋ねた。


「私は……」


そこで留めて、右手を人のいない方に伸ばす。


(力を貸して)


傘に語りかけた。瞬間、


「!?」


腕輪が光の粒となり、

瞬く間に右手の中に傘の柄が現れる。


そして、柄から光が延びて——

深い海のような、紺色の傘になった。



「この傘で——戦えます」



斬ること、守ること、飛ぶことができる。


そう、エヴァンさんに伝えた。


直後、エヴァンさんは興味深そうに傘を眺め、

目をわずかに開いて声をこぼす。



「……へぇ!」



ほんの一瞬——

その視線が、私ではなく“透真の方”に流れた気がした。


「気になることは結構あるけど、ゆっくりもしてられないからねぇ。

 とりあえず、

 その武器について、いくつか答えてほしい」


「わかりました」


私が頷くと、エヴァンさんは簡潔に傘について尋ねた。


斬撃の種類、盾の範囲、飛行時間、同時発動が可能か——

他にもいくつか聞かれ、

私はそれらに対して、短く答えていった。



「うん、何となく分かった。 ありがとねぇ」



エヴァンさんは満足そうに頷くと、

スッと見据えて、真剣な表情で


「それじゃあ、作戦だけど……」


数パターンに及ぶ作戦の説明をはじめた——



「——いいね?」



エヴァンさんの言葉に、私と透真はこくりと頷く。

そのまま、甲板へ続くドアへと視線を向けた。


(外に……何がいるんだろう)


胸の奥に広がるざわつきに、視線が落ちかける。

肩が張ったのを感じて、私はそっと首を振った。


何がいようと、やることはひとつ。



——この船を、守る。



もう一度、真正面からドアを見据える。

取手に手をかけたエヴァンさんが、こちらを振り向いた。


「——行くよ」


外の波風が、遠くで微かにざわめいている。

それ以外、何も聞こえない不気味な静寂。


エヴァンさんが手首をひねる。


ガチャン。


錠の落ちる音だけが、異様なほど大きく響いた。


エヴァンさんの腕に、わずかに力がこもる。

ゆっくりと開いていくドア。

その隙間から、冷たい海風が頬を撫でた。



——ドクン。



心臓の音が響くたび、

外から聞こえる荒れた波音が、その鼓動を飲み込んでいく。


視界の端に覗く空は、どこまでも灰色。

重ね塗りされた油絵のように、厚く、重く沈んでいた。


半分ほど開いたドアの隙間から、

透真が甲板へと一歩踏み出す。


エヴァンさんは影に紛れるように一歩退き、

代わって透真が静かにドアを押さえ続けた。


「……」


透真はまず“自分の側”を確認するように、

少し身を乗り出し、もう一歩だけ進む。


その動きを合図に、

私も深く息を吸って、ゆっくりと甲板へ足を踏み入れた。


透真が右。

私は左。


互いに視界を分担しながら、

一つの異変も見逃すまいと周囲を探る。


(……何も……いない)


灰色の波と、重たく沈んだ空。

海はどこまでも暗く、気配という気配が感じられない。


透真も静かに船首側へ歩を進める。


何も起きないことが——逆に怖い。


ぎゅっ。


気づけば、傘の柄を強く握りしめていた。


いつの間にか風は止んでいた。

船の上とは思えないほどの静寂。

さっきまで軋んでいた船体の音すら——消えている。



(……あれ?)



喉の奥が、ひゅっと縮む。



——いつから?



気づいた瞬間。


風を割くような鋭い音。


反射的に振り返ったときには——



ギュインッ!



「っ……!!」


「——音凪っ!!」



腹部を締め上げるような衝撃。

足裏から支えが消え、

私はそのまま宙へと持ち上げられていた。


船の上から、ぐんっと遠ざかっていく景色。


私は必死に体を捻って、下を見た。


灰色の海に——

巨大な黒い影が、静かに浮かんでいた。


青白く揺らめくふたつの眼。


海面越しに、

“触手”で捕らえた私を、

動かず、ただじっと見つめている。


まるで、深海から覗くように——。



第二十二話

覗く深海-滲む水面- 完

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