第二十二話: 滲む水面②
***
ふかく ふかく 沈んでいく——。
「晴海さんっ!」
名前を呼ばれて、私はハッと顔を上げた。
目の前には、知らない男の人。
同じ高校の制服……のはずなのに、どこか輪郭がぼやけている。
(……私、今なにしてたんだっけ)
「晴海さん……あの、その……」
男の人はそわそわしながら、何かを言おうとしていた。
(……あ。 そうだ……私、急がなきゃ)
理由は曖昧なのに、急がなきゃいけないことだけが妙にしっくり胸に落ちた。
「俺っ——」
「ごめんなさい」
私はその言葉を遮って、ぺこりと頭を下げた。
男の人はぴたっと固まった。
「私……アルバイトに行かなくちゃ」
"アルバイト"
気づけばそう言っていた。
私はそれだけ告げると、校門へ向かって歩き出した。
そのとき。
「音凪」
聞き馴染みのある声——
けれど、
ほんの少しだけ遠い気がした。
私はそっと振り向く。
「透真」
校門の壁際に透真が立っていた。
いつもの笑顔のはずなのに、
その“いつも通り”がなぜか胸に引っかかった。
「バイトだろ? 俺もだから、一緒に行こう」
透真は歩き出しながら、そう言った。
私は笑って、小さく頷いた。
*
「音凪ちゃん」
ハッと、顔を上げた。
(あ、れ……?)
目の前には見覚えのある面談室。
養護施設の、あの小さな部屋。
さっきまで、透真と駅に向かって歩いていたような……。
「音凪ちゃん、おめでとう」
その声に横を振り向くと、
真美子先生が、やわらかな眼差しで微笑んでいた。
その表情はやさしいのに、なぜか胸の奥がざわついた。
「ま……みこ、せんせい……?」
("音凪ちゃん"なんて、呼んでたっけ……?)
「大学合格、おめでとう」
「大学……」
「よく頑張ったね」
そうだ。
私は晴れて、春から大学生になるんだ。
受験勉強に勤しんでいた日々が報われた。
そう思ったら、自然と口元がほどけた。
真美子先生は私をぎゅっと抱きしめた。
私は戸惑いながらも、
そっと、真美子先生の背中に手を回した。
(……うん。
この違和感はきっと、気のせい……)
私は静かに目を閉じて、
真美子先生の温もりを確かめた。
*
「音凪」
透真の声に、私はふっと目を開けた。
橙色の光に染まった海岸。
私と透真は並んで堤防に座り、海を眺めていた。
「明日で最後だな」
「そうだね」
何が“最後”なのかは分からない。
けれど、気づけば返事だけは口から漏れていた。
「別々の道を行くことになるけど……」
透真は視線を海から外し、ゆっくりと私に向けた。
「お互い、頑張ろう」
——ちく。
胸の奥が痛んだ。
でも私は、笑って言う。
「うん。 元気でね、透真」
見上げた透真の顔が——
闇に溶けていった。
*
カッコー……カッコー……
鳥の声のはずなのに、どこか機械的な音。
バッ!
顔を上げた。
カッコー、カッコー。
「……」
私は、スクランブル交差点の真ん中で立ち止まっていた。
横切る人たちが、怪訝な顔で私を見る。
「あ……」
私はゆっくりと歩き出した。
どこに行くのかも、分からずに。
(どこに……行くんだっけ……)
ぼんやりする頭で、記憶を呼び起こす。
けれど、まったく思い出せない。
「早く帰らなきゃいけないのに〜!」
ふと、慌てる女性の声が聞こえた。
(そうだ……私も、"帰らなきゃ")
信号を渡り切って、家に向かおうとしたときだった。
「うわぁああん!!」
——遠くから、
小さな子どもの泣いてる声が聞こえた。
その声に私はなぜか——
「行かなくちゃ……」
早くそばに行かないと。
抱きしめてあげないと——
後ろを振り返って、駆け出した。瞬間。
ププーー!!
耳をつんざくような大きな音に振り向いて、
白く……強い光に溶けていった。
*
「……」
気がつくと、
まっしろな空間に、ぽつり佇んでいた。
一切の音がなく、
自分の息遣いさえも聞こえない。
(ここは……?)
「……」
声に出したつもりだった。
けれど、それは音にならず、
ただ無音の世界があり続けた。
(私は……なにを……)
何をしていたんだろう。
そう思ったとき、
つきんと、胸の奥に痛みが走った。
手の感覚も、立っているはずの地面の感覚もない。
それなのに、胸の痛みだけがちくちくと突きたてる。
(いたい)
何かを、忘れている気がする。
私はどうしてここに?
どうしてこんなに
——悲しいの?
(! ……悲しい……?)
私はまどろんでいた瞼を開いて、顔を上げた。
何が悲しいのか分からない。
けれど、
その感情がすとんと、胸の内に落ちていった。
私は、悲しかった。
大事な何かを失ってしまって、悲しかったんだ——。
そう気づいた瞬間だった。
「……て」
音のない世界に、かすかに聞こえた声。
指先に、ぬくもりが戻りはじめる。
私はだらりと下がっていた腕を、
そっと持ち上げ、
「おきて!!」
「! ——フィン!!」
はっきりと聞こえた
"フィン"の声に、
大きく手を伸ばした——。
*
「……」
閉じていた瞼を、
まつ毛をほどくようにそっと開いた。
体の左側に、やわらかな温もりが寄り添っている。
視界がまだぼんやりして、世界の輪郭がつかめない。
そのとき——
「ネナ!!」
ぎゅうっ!
小さな温もりが胸に飛び込んできた。
「……フィン?」
その声と感触で、ようやく正体を悟る。
分かった瞬間、胸の奥がきゅ、と痛むように締めつけられて——
理由もなく、ただ無性に愛おしいと思った。
「フィンっ!」
「ネナぁあ……っ!」
腕の中でわんわん泣くフィンを、
私は強く、でも優しく抱きしめた。
そして、
まつ毛の縁からツゥっと雫が頬をつたった。
指先で触れて、ようやく——
(……私、泣いてる……?)
胸の奥がちくりと疼く。
理由は分からない。
ただ、なにか喪ったような——そんな感覚だけが残っていた。
「音凪」
左側から透真の声がした。
その声を聞いた途端、ぼんやりしていた世界が少し輪郭を取り戻す。
私が振り向いたのと同時に、
「起きたばかりで悪いが——
外の様子がおかしい」
透真は短く告げ、窓の外を鋭く見据えていた。
「外……?」
(あれ? そういえば、
どうして私は……眠って……?)
混濁する頭のまま、視線を外へと向ける。
——霧が、ない。
その瞬間、記憶のかけらが頭の中で弾けた。
(……そうだ……私……
あの音を聞いて……外を見て……)
霧に沈む海。
視界が揺れて——落ちていく感覚。
外の霧は完全に消えていた。
けれど。
黒い雲が空を覆い、
海は深い底の色をして、どろりと濁っている。
まるで——
次に起こる“何か”を、静かに待っているみたいだった。




