第二十一話:誘惑の波音②
***
乗船してから、五日が過ぎた。
この五日間はとても穏やかで、
晴れた空の下、船は順調にプルーヴィアへと向かっていた。
そんな中私たちは、
少しずつ船内を散策したり、甲板で穏やかな時間を過ごしたり、部屋の中でまったり寛いでいたり——船旅を、心ゆくまで楽しんでいた。
「今日は船尾の甲板に行ってみよっか?」
昨日までの晴れ空とは違い、
外は曇り空で、海の色も暗く沈んでいる。
景色を眺めるよりは、船が残す白い航跡を見る方が楽しいかもしれない。
そんな風に思って提案してみた。
フィンは「うんっ!」と無邪気に返事をし、
透真も横で「うん。行こうか」と穏やかに頷いた。
部屋から近いスロープを上がって甲板へ向かう。
途中の踊り場にある異世界版の“自動販売機”でパンを買って、再び甲板を目指した。
「パン パン パパンっ♪」
フィンの軽快な鼻歌が、静かな廊下に色をさす。
右手は私の手をぎゅっと握り、左腕には買ったパンを抱えている。
足を弾ませながら鼻歌を歌うフィンがかわくて、
思わず口元がふわっと緩んだ。
前を歩く透真も、ときどき後ろを振り返っては、
やわらかい眼差しでフィンを見守っていた。
展望デッキ下のドアから、甲板へと出る。
いつもより少し強い風が、肌を撫でつけた。
天気のせいだろうか。
心なしか、南に向かっているはずなのに風が冷たく感じた。
テラスにいる人も、今日は二組しかいない。
恐らく、ほとんどの旅人が部屋で過ごしているのだろう。
長居はしない方が、いいのかもしれない。
「今日は早めに戻った方がよさそうだね」
他の乗船者は、きっと私たちよりも旅に慣れている。
周りの動きに合わせた方が安全に違いない。
「そうだな。 船尾に着いたらすぐに折り返そうか」
透真の言葉に、こくりと頷いた。
「うみ、見れないの?」
私の服の裾をくいっと掴みながら、しょんぼりした声で尋ねるフィン。
私は困った顔でフィンに微笑んだ。
なんと言おうか言葉を選んでいると、
透真がおもむろに腰を屈めて、
——ひょいっ
「わあ!」
フィンを抱きかかえた。
「海、見えるか?」
腕に抱えるフィンに、透真が静かに微笑む。
フィンは透真の顔を見つめたあと、ゆっくりと海の方を向いた。
瞬間、フィンはまんまるの目を大きく見開いて、口元に半月を描いた。
「うみだーー!!」
きゃあきゃあと楽しそうにはしゃぐフィン。
私は"抱っこは危ないんじゃ……"と、
素直にその光景を微笑ましく見ることができないでいた。
けれど透真は体を建物に寄せて歩いていて、
なにより、フィンと一瞬に横を向くその表情は、とても落ち着いている。
無意識のうちに握りしめていた手を、風を逃がすみたいにそっと下ろした。
強張っていた肩の力が、ふっとほどけていく。
(透真だもん。 なにも考えてない、なんてことはないはず)
私はなにも言わず、
ただ、ふたりの後ろ姿を目に焼きつけていた。そのとき。
「うっ……おぇぇ……」
どこからか、苦しそうな声が聞こえてきた。
その声は「うぅ……えっ……」とずっと唸っていて、
すぐに、声の主が船尾の方にいると分かった。
私が透真の影から船尾を覗こうとすると、透真がゆっくりと振り返った。
「そっとしてあげよう」
おどろくほど、穏やかに微笑む透真。
その不自然なくらい柔らかな笑みに、
"どうしたんだろう……?"と、一瞬首を傾げる。
だけど、透真の言葉自体はなにもおかしくはない。
私があの人の立場だったら、確かにそっとしておいてほしいかもしれない。
「……そうだね」
私は船尾を見るのは止めて、
元来た道を戻るため歩き出そうと振り向いた視線の端。
——透真の肩越しに、紫の服が見えた気がした。
***
部屋に戻ってきて、踊り場で買ったパンを食べながら三人で海を眺めていたとき。
一足先に食べ終えたフィンが、透真の太ももに小さな両手をのせた。
「トーマっ、あれ だーしーてぇ」
おねだりする声に、透真は最後の一口をかみしめて飲み込み、
テーブルに置いていたお手拭きで指先を拭うと、スッとポケットに手を入れた。
「ちょっと待ってな」
スマホを取り出し、慣れた指つきで画面を操作する。
しばらくして——
テーブルの上に光の粒がふわりと浮かび上がり、
あの“魔力操作のおもちゃ”が姿を現した。
「トーマ! ありがとぉ」
おもちゃを受け取ったフィンは、ぱぁっと顔を明るくして頬をゆるめた。
透真はふっと笑い、アイボリーの髪にそっと指を沈ませる。
(ほんとう、親子みたい)
胸の奥がふんわり温かくなって、「ふふっ」と声が漏れた。
透真の手が離れると、フィンは目を閉じておもちゃに集中しはじめる。
すぐに水晶が淡く紫色に光を帯びた。
「随分と上手になったな」
透真が感心したように言うと、
フィンは「えっへへー!」とうれしそうに笑い、目を細めた。
それでも水晶の光は途切れず、ずっと瞬いている。
ここ数日でフィンはめきめき上達していて、
ついには、昨日透真に〈催眠〉をかけたと話していた。
そのときの透真の表情が——
なんとも言えない、困ったような苦笑で。
(……私のせい、なんだよね)
胸の奥に小さく罪悪感がよぎって、
思い出した瞬間、耳の内側がじわっと熱くなった。
その熱が頬にまでじわりと広がっていき、
私は冷ますように手のひらでそっと風を送った。——そのとき。
……?
遠くのどこかで、かすかに“揺れるような音”がした気がした。
___スッ
「……音凪?」
静かに立ち上がって外を見つめる私に、
透真が怪訝そうに声をかける。
(……濃い霧)
ガラスの向こう——
空と海の境界が溶け落ちたように、
真っ白なもやが一面を覆っていた。
「透真、外……」
“見て”
……声が、喉の奥で途切れた。
——°
はっきりと、旋律が“流れ込んだ”。
甘くて、不気味で、
頭の中の輪郭をゆっくり溶かしていく音。
ふらっ——
「音凪!!」
視界が、落ちた。
私はそのまま、
まっしろな海の底へ——沈んでいった___。
《???視点》
「音凪!!」
ふっと気を失い、倒れ込む少女。
青年は瞬時に立ち上がり、その細い肩を支えた。そのとき。
——°。°
ふらっ——
青年の体が、傾いた。
青年は足に力を入れてぐっと堪え、
ゆっくりと、少女と共にソファに身を沈めていった。
「ネナ? トーマ……?」
不安げに瞳を揺らして、少女と青年を見つめる幼子。
青年は今にも落ちてしまいそうな瞼を、わずかにハッと開いた。
「フィン……起こせ………
さい、み……んで……」
少女の肩から、青年の手がだらりと落ちていった。
青年はそれだけを言い残して、意識の底へと沈んでいく。
「トーマっ?! トーマ!!
——ネナーーっ!!」
幼子の叫ぶ声が、
不気味なほど静かな部屋に響き渡る。
——°。° °。°
紛れるように、
揺れる旋律が、船に侵食していった——。
第二十一話
覗く深海-誘惑の波音- 完




