第二十一話: 誘惑の波音①
《???視点》
「天気悪りぃなぁ……」
ある貨物船の操舵室。
一人の船員が、ガラス越しに外の様子を見て呟いた。
窓の向こうは一面の灰色。
水平線は境界を失い、海と空が濁ったように混ざり合っていた。
正面は白いもやがじわりと広がりはじめている。
——霧だ。
「この辺りは障害物もねぇし……他船もレーダーに映ってねぇが……」
「どうしますか?」
船員の言葉に、操舵手が船長へと声をかける。
船長は黙って外を見据え、短く言った。
「——速度を落とせ。
警笛と、見張りの増員だ」
船員たちは一斉に動き出す。
だが、次の瞬間——
遠くから、
かすかに“揺らぐ音色”が届いた。
低いような、高いような。
風でも波でもない、不思議な響き。
胸の奥の“どこか”をくすぐられるような——
ふらっ——
「……っ?」
立ち上がった船員の身体が、ぐらりと揺れた。
操舵手も、船長も。
まるで同時にめまいを起こしたように、頭を押さえる。
「な……んだ……? ねむ……け、が……っ」
言葉の途中で、耐えられず船員が崩れ落ちた。
「……っ!」
船長は必死に意識を繋ぎながら、操作盤へ手を伸ばす。
視界の端で、操舵手が既に意識を失っているのが見えた。
(緊急……事態だ……)
救難信号のスイッチまで、あと少し。
指先が触れかけた、その瞬間——
——バタンッ!!
船長の身体も、音を立てて崩れ落ちた。
ギシ……ギシ……
操舵室に、船体が軋む音がひとつ、またひとつ。
そして、静寂を破るように——
どこからか、「水」の流れる気配が立ち上った。
《???視点》end.
***
ガチャリ。
「ただぁいまー!」
フィンの元気な声が、静まり返った部屋に弾んだ。
私たちはしばらく展望デッキで海を眺めていた。
潮風で肌が冷えはじめた頃、
透真が「今日はもう戻ろう」と言い、
三人でゆっくりと甲板を後にした。
そして、今。部屋へ戻ったところだった。
「あー!」
フィンが短く声を上げる。
(えっ?)
何かあったのかと、慌ててその背中を追う。
壁の角からそっと覗くと——
「わすれてたぁ!」
両腕にタオルマフラーを抱えたフィンの姿があった。
平穏な光景に、胸の奥の力がふっと抜けていく。
フィンはビエントでの一件以降、
ご両親のタオルにほとんど執着を見せなくなった。
それは決して悪い意味ではなく——むしろ、前に進んでいる証だった。
モリスさんの小屋を出てからしばらくは、
フィンはどこへ行くにもタオルを離さなかった。
眠るときはぎゅっと握りしめ、
起きている間も、無意識のうちに首元へ手が伸びていた。
少しでも離れると不安げに目を揺らし、
落ち着かない様子を見せることも多かった。
けれど今のフィンは、そばにタオルがなくても穏やかでいられる。
(……成長、したんだね)
こんなに小さな身体でも、確かに一歩を踏み出している。
その事実が胸の奥に、じんわりと温かな灯りをともした。
「フィン」
タオルマフラーを抱えたまま、きょろきょろと部屋を見回しているフィンに声をかけた。
「マフラー、ここにかけておく?」
置き場所を探しているのかな——
そんな気がして、部屋の隅にある棚の上を指しながら尋ねると、
フィンはぱぁっと表情を明るくして、大きく頷いた。
「うんっ!」
とてとてと私に寄ってきて、「はいっ」とタオルマフラーを差し出す。
私はそれを受け取って、棚の上にある壁付けのフックにそっと掛けた。
「ネナ、ありがとぉ」
えへへと頬を緩ませるフィン。
その笑顔につられて、私もふわりと口元が緩む。
「ふふっ、どういたしまして」
「えへへ」
「うふふ」
なんだか無性に抱きしめたくなって、すっと腰を落とす。
それに気づいたフィンも、小さな手を広げて——
ぎゅっ。
腕の中に、やわらかな温もりが飛び込んできた。
フィンの小さな手のひらが背中に回ると、
そこから広がるぽかぽかとした熱が、
波のように身体の芯まで沁みていく。
その心地よさに、胸がじんわりと満たされた。
「? ……なにしてるんだ?」
少し驚いたような、かすかに戸惑ったような透真の声。
ゆっくりと振り向くと、
寝室の前で立ち止まっている透真が、不思議そうにこちらを見つめていた。
「『だいすき』ってしてたの!」
フィンがぎゅっと、さらに抱きしめる力を強める。
その小さな腕の温もりに、思わず胸がきゅっとなる。
私も応えるように、
フィンの頭にそっと頬を寄せて、ぎゅうっと抱きしめ返した。
そのとき——
(あれ? ……なんだろう、これ)
ふと視界の端に入ったものに、首を傾げた。
部屋の隅にある棚。
膝下くらいまでの高さが両開きの収納になっていて、
その上には棚板が二枚。
棚板には、八つの筒がずらりと並んでいた。
上段に四つ、下段に四つ。
それぞれの筒の下には、
金属製の薄い台座のようなものが取り付けられている。
照明の光が、銀色の円盤の縁をふわりと撫でていた。
筒に意識を取られて抱きしめていた腕の力が自然とほどけると、
フィンがきょとんと目を丸くして私を見上げた。
「ネナ〜? どうしたのぉ?」
「これが気になっちゃって……」
私の言葉に、フィンはくるっと棚の方へ振り向く。
フィンしばらくじーっと眺めていた。
だけど、フィンも分からないらしく、
私の方へ振り向き戻して首を傾げた。
「なんだろうね〜?」
「ね〜」
私もフィンに合わせて、同じように頭を傾ける。
改めて棚に視線を戻し、上段の筒に目を凝らすと——
筒の上部に何か文字が刻まれていることに気がついた。
「み……ず……水?」
どうやら、この筒の中には“水”が入っているらしい。
同じ段にある他の筒を見てみると、
『紅茶』
『コーヒー』
『ココア』
と、ひとつずつ文字が刻まれている。
下段の筒にも、同じ種類の文字が並んでいた。
「『ドリンクサーバー』らしいな」
棚をじっと眺めていると、
いつの間にかすぐそばまで来ていた透真が、後ろから声をかけてきた。
「ドリンクサーバー?」
「どりく、さぁばぁ?」
「……ドリンクサーバー、な」
フィンのたどたどしい真似に、
透真はふっと笑みをこぼす。
そのまま膝をついて、フィンの背後から棚へ手を伸ばし——
カチッ。
『ココア』の筒をひょいと取り外した。
そして「ここ開けるぞ」と、棚の下の収納を指差す。
私とフィンは透真の動きを邪魔しないように、
そろりと横へ下がっていく。
透真の肩越しに覗く私と、横から背伸びして覗くフィン。
「なにがあるのかな……」と胸を弾ませながら、
透真が開き扉のくぼみに指先をかけるのを見守った。
キィ……と、わずかに軋む音。
ゆっくり開いた扉の中には、コップと——
「……木の実?」
握りこぶしくらいの瓶に、
小さな木の実がぎっしり詰められていた。
瓶の横には、少し底の深い小皿も置いてある。
透真はコップを一つ手に取り、ココアの筒の上部を軽く確認すると、
そのままコップへと傾けた。
ふわっ——
甘い香りが、唐突に鼻をくすぐる。
次の瞬間、
とく、とく、と小気味いい音を立てて、温かなココアが注がれていく。
コップの中からは、湯気がほわりと立ち上がった。
(す……すごい……!)
さっき近くで見ていたときは熱気なんて、まったく感じなかったのに……!
驚きと感動に、胸の奥がざわっと震えた。
透真は注ぎ終わったコップを、横にいたフィンへと差し出す。
「?」
「ココアっていう飲み物だ。 甘くて、美味しいやつ」
その言葉に、フィンの耳がぴょこんっと跳ねた。
目を丸くして、頬もうっすら桃色に染まっている。
「ふぅふぅしながら飲んでみな?」
透真の口から出た“ふぅふぅ”というやさしい響きが
なんだかかわいらしくて、つい「ふふっ」と声が漏れた。
「どうした? 音凪」
「ううん。 なんでもないよ」
そんな私たちのやり取りなど、もはや耳に入っていないようで——
フィンは両手でしっかりコップを持ち、
夢中になって「ふぅー、ふぅー」と息を吹きかけていた。
視界の端で首を傾げる透真を横目に、
私はフィンの一生懸命な姿にそっと目を細めた。
ちょん……こく、こく。
「!!」
口を離して、フィンはココアをまじまじと見つめた。
ピンク色の舌がちろっと覗き、口の端に残ったココアをぺろりと舐める。
「おいしいっ!!」
萌木色の瞳がきらきらと輝いて、
そのまま私たちを見上げて満面の笑みを浮かべた。
「よかったね、フィン」
「うんっ!」
フィンは元気に頷くと、ニコニコしながらココアをまた口に運んだ。
「続きは、ソファに座って飲もうね」
いつ揺れるか分からない船の上だから、念のためそう声をかける。
……けれど、そのときにはもう飲み終わっていたらしく、
フィンは空になったコップをこちらに向けて
「からっぽ〜!」
と得意げに見せてきた。
「ふふっ。そんなにおいしかったの?」
「すぅっごく!」
「『すぅっごく』かぁ……ふふ」
「うんっ!……ぼく、おかわり ほしいなぁ」
フィンが小首をかしげて、控えめにおねだりしてくる。
かわいくて「いいよ」って言ってあげたくなるけど……。
(飲みすぎは、よくないよね……)
どう言おうか迷っていると、
棚の中をかちゃかちゃと確かめていた透真が、ふいに振り返った。
「ココアは今日あと一回だけど……
今、おかわりする?」
「?!」
途端にフィンの眉ががーんと垂れ、私も思わず目を見開いた。
(……回数制限があるんだ)
ぽかんとする私に、透真が横目で視線を送る。
その目が、ほんのすこし和らいだ。
(あっ……)
ドリンクサーバー自体には、回数制限はないのかもしれない。
“飲みすぎないように”という、透真なりの配慮。
同じ気持ちなんだと分かって、気づけば口元がゆるんでいた。
「ううっ……おみず、ください」
フィンは悩んだ末に、今はココアを我慢することにしたらしい。
がっくりと肩を落としながら、しょんぼりとコップを透真に差し出した。
透真が水の筒を取り外して、フィンのコップに注ぐ。
「飲むのはソファに座ってからな」
「はあい」
とぼとぼとソファへ向かうフィン。
その小さな背中がいじらしくて、思わず頬がゆるみそうになるのを、きゅっとこらえた。
「音凪は何飲む?」
透真がコップを片手に尋ねる。
私は「そうだね……」と、
四つの筒をなぞるように視線を滑らせて——
「お水、かな」
(たくさん歩いてきたから……うん)
答えると、透真は「水な」と言って、静かに注いでくれた。
「はい」
「ありがとう。透真」
(透真って……ほんとうに面倒見がいいなぁ)
押しつけがましくなく、自然に気遣いができる人。
こういうところが、年下の子に慕われて、友だちにも恵まれる理由なんだろうな……と、ぼんやり思った。
同時に——
元の世界に帰らなければ。
そう、改めて思った。
(藤咲くんたちも、きっと心配してる)
藤咲くんと榊くん。
中学・高校と一緒だった、透真の友だち。
透真はふたりの前ではツンツンしていたけれど、
高校を卒業してからも頻繁に連絡を取っていた。
それくらい、仲のいい友だち。
元の世界で、私たちがどうなっているのかは分からない。
当たり前に時間が進んで、失踪扱いになっているかもしれないし、
あるいは、最初から“いなかったこと”になっている可能性だってある。
だけど、私たちは元の世界の人たちを覚えている。
透真だって——戻れるなら、戻りたいはず。
(絶対に、見つけよう)
——帰る方法を。
和やかな空気の中で、そっと前を向いた。
ガラス越しに見える空に、白い雲が滲んでいた。




