第二十話: 囁く海原(前)
『本船は、間もなく出航いたします』
そんなアナウンスの五分後。
——船が動きはじめた。
出港を告げる汽笛の音が三回響いたあと、間もなくして船がわずかに揺れ始めた。
静かな唸りが船体を伝っていく。
そしてすぐに、大きく揺れ動いた。
三人でベッドに横になり、アナウンスのあとはじっと静かにしていた。
体に伝わってくる船の揺れに、フィンがそわそわとし始める。
「うごいた?」
体を起こそうとするフィン。
けれど、まだ揺れは収まっていない。
「まーだ」
透真側のフィンの肩をやさしく掴んで、ゆっくりベッドへと抱き寄せた。
「うごいてないの?」
「ううん、動いたよ。
でも、まだ起きないでね」
やんわり止める。
フィンは少しだけ不満げに「わかったぁ……」と、唇を尖らせた。
「あと少しだけだから。な?」
透真がすかさずフォローをする。
フィンは透真の方を振り向くと、その優しい眼差しを大きな瞳でじーっと見つめた。
「あとすこしって、どれくらい〜?」
「そうだな……」
透真が説明を始めようとした、その時——
グラッ!
船が一際、大きく揺れた。
「わっ……!」
ベッドの端ぎりぎり。
外側にいた私はその揺れに落ちそうになって、慌ててフィンから手を離す。
ひとり落ちるつもりだった。けれど。
——がしっ。
「あっ……」
透真がフィンごと、私の肩を抱き寄せた。
「あっぶな……」
安堵の表情。
ベッドに留まった私に、透真が小さく息を漏らした。
「……ありがとう、透真」
声を落とすように伝えると、
透真は一度だけ小さく頷いて、
私の肩に回していた手を、そっと緩めた。
片足だけが、ベッドの外に落ちていた。
「ネナ、だいじょうぶ?」
フィンが垂れ眉をさらに下げて、心配そうに尋ねる。
「大丈夫だよ。
心配してくれてありがとう」
不安げなフィンに微笑んで、柔らかな頭をそっと撫でる。
フィンは気持ち良さそうに目を細めた。
「さっきの揺れは、旋回の揺れみたいだな」
そう言って起き上がった透真。
「まだ動かない方が、いいんじゃないかな?」
まだ揺れるかもしれない。
そう思って透真を引き留めようとしたけれど、
「たぶん、もう大丈夫」
透真は穏やかに笑って、部屋を出ていった。
私とフィンは顔を見合わせる。
(大丈夫……なのかな?)
体を起こそうと腕に力を入れたとき、
透真が再び部屋の入り口まで来て、
「来てみ?」と私たちに手招きした。
入り口の向こうを照らす朝の光が、
その眩さを増していく。
透真の姿が、白く滲んで見えた。
ベッドがわずかに揺れて、視界の端を影が横切る。
ぴょんっ。
フィンがベッドから飛び降りた。
そのままぱたぱたと、部屋の向こうへ駆けていく。
私もそっと立ち上がり、後を追った。
部屋から顔を出して、窓の方を見る。
そこには、
窓の真ん中に張り付いているフィンと、
端で静かに外を眺める透真の姿。
ふたりの間に立って、一緒に外を見つめた。
(海と空が、動いてる)
実際に動いているのは、船の方だけど。
船の周りでは、水飛沫が白い軌跡を描いていた。
舞い上がった水滴が日の光を纏い、きらきらと輝いている。
海と空、そして遠くに見える岩山が、
ゆっくりと後ろへ流れていく。
——船が確かに進んでいるのが分かった。
部屋の防音がしっかりしているのか、残念ながら海の音は聞こえない。
(甲板に出たら、もっとすごい迫力なんだろうな)
フィンが甲板でびっくりして飛び上がる姿を想像して、思わず笑みがこぼれた。
「もう、おそといく?」
わくわくと目を輝かせたフィンが、私たちの顔を見上げる。
私は反対側にいる透真を見上げて、「いいよね?」と目で合図を送った。
透真は静かに微笑み、小さく頷く。
「お外、いこっか」
もう一度フィンに向き直ってそう告げると、
フィンはぱぁっと瞳を輝かせて、
「わーい! おそとっ! おそとっ!」
とくるくる駆け回った。
(あ、危ない!)
まだ揺れが止まったわけじゃないのに。
そうフィンに向かって手を伸ばそうとした、そのとき——
「わあっ!」
フィンがよろける。
「フィン……!」
間一髪、フィンの体を受け止めた。
「もう……走っちゃだめだよ。
転んじゃうからね?」
そう念を押すと、フィンは「ごめんなさぁい」と言いながら、
私の顔を見上げて笑った。
***
支度を整えて、三人で部屋を出た。
透真が扉を開けると、
隙間から、まぶしい光がふわっと差し込んだ。
思わず目を細めながら、一歩、外に出る。
通路には天窓から光が降り注ぎ、
天窓の真下に張られた床のカーペットまで白く染まっていた。
(すっかり日が昇ったんだなぁ)
刻々と時間が進んでいくのを感じる。
それと同時に——ふと気づいた。
(そういえば、起きてから何も食べてない)
一度意識してしまうと、急に空腹が顔を出す。
「フィン、お腹は空いてない?」
興奮していて忘れているだけかもしれない。
そう思って声をかけると、フィンは一瞬きょとんと目を丸くしたあと、
「おなかすいた〜」
両手でお腹を押さえて、へろへろ〜っと大げさに体を傾ける。
その姿につい、くすくすと笑ってしまった。
(食堂は……)
部屋に向かう途中、一定間隔で設置された案内板に「食堂」の文字を見かけていた。
私は一番近い案内板まで歩いていき、
そこに描かれた見取り図をじっと見つめた。
「……向こうだね」
1201室と1202室の向かいにある通路。
そこを曲がると、食堂の入り口があるらしい。
「はやくいこ〜!」
フィンが焦れた声を上げる。
私たちは足並みを揃えて、船首側へと歩き出した。
通路の先では、天窓からこぼれる光が、
ゆらゆらと壁の金属を撫でている。
「ごはんっ、ごはんっ♪」
静かな船内に、フィンの歌声が響く。
両手には、それぞれ私と透真の手。
フィンはぶんぶんと元気に振りながら、にこにこと笑っていた。
「ぴょーん!」
無邪気な掛け声に合わせて、透真とふたりでフィンの体を持ち上げる。
浮いた体がふわりと宙を舞い、フィンはきゃっきゃと笑い声をあげた。
そんなことを繰り返しながら、
長い通路を進んでいった。
「ここだね」
1202室の入り口を過ぎて、1201室の前に差し掛かる場所。
客室とは反対側に、奥へと続く通路があった。正面にはお手洗い。
(あってる……?)
左右を見回すと、左側に大きな両開きの扉。
アンティーク調の焦茶色の木。
腰より上のガラス面には、黒のアイアンで模様が描かれている。
取手も黒で、よく見ると魔石が埋め込まれていた。
その重厚な造りに、思わず足が止まる。
(……絶対、高そう)
じぃっ……と扉を見つめる私の横で、
透真が取手にスッと手を伸ばした。
ピッ。
何度目かの電子音。
「……え?」
思考が追いつく前に、
目の前の扉がゆっくりと開きはじめた。
微かに、磯とパンの香りが鼻をくすぐる。
「すごーい!」
フィンが興奮気味に声を上げる。
私はぽかんと口を開けたまま、慌てて声を潜めた。
「フィ、フィン。小さな声で、ね?」
中はしんと静まり返り、ワインレッドの絨毯が敷き詰められていた。
ダークグレーの壁には銀糸のような模様が描かれていて——
(……どう見ても、高級レストラン)
「透真……」
思わず声を潜める。
「別のところに行こう」と言いたかった。
透真はすぐに私の気持ちを察したようで、目を細めて笑った。
「大丈夫だって」
何が大丈夫なのか分からない。
高級レストランのごはん代なんて、想像もつかない。
「と、透真ぁ……」
声が裏返る。
止めなきゃ、と思って口を開いた。
「絶対に、やめた方がいいよ」
そう言葉を紡ぐより早く——
「受付の人が言ってただろ?」
透真が苦笑いを浮かべる。
「『朝と夜の食事は宿泊費に含まれています』って」
(……)
え?
「……そう、だったっけ?」
「うん」
「……そうなんだ」
たぶん、聞いていなかったときの話。
私は少しだけ、耳の奥がじんわりと熱を帯びるのを感じた。
(私、そこまでぼーっとしてたんだ)
何かを見落としているような気はする。
けれど、落ち着いている透真の姿を見ていたら、胸の奥のざわめきがスーッと引いていった。
(透真がそう言うなら……うん、大丈夫)
考えるのはやめた。
代わりに、漂うパンの香りを深く吸い込んだ。
「おいしそうな匂いだね」
ひそひそとフィンが笑う。
「ふふっ、そうだね」
さっきまで感じていた不安は消え、
今はただ、この時間を楽しもうと胸が高鳴った。
赤い絨毯を進んでいくと、
少し開けた場所の右側に受付カウンターが見えた。
「いらっしゃいませ」
側に立っていたスーツの男性が、私たちを出迎える。
「1208室、三名様でございますね」
私たちは何も言っていないのに、確信を帯びた声。
透真が頷くと、男性はにこっと微笑んだ。
「ありがとうございます。それでは、ご案内致します」
そう言って、出入り口からまっすぐ伸びる通路へと歩き出す。
ここのレストランはすべて個室のようで、
通り過ぎる扉は入り口と同じアンティーク調。
ただし、仕切りは引き違い戸だった。
「こちらのお部屋にお入り下さい」
案内されたのは、五つ目の戸——
一番奥の個室だった。
ウェイターさんが、ゆっくり戸を開けた。
からから……。
引き戸の音が止むと、
隙間から微かに優雅な音楽、
こぽこぽと低い水の音が耳に触れた。
(戸を開けるまで、何の音もしなかったのに……)
驚きながらも中を覗いた次の瞬間——
「!!」
思わず息を呑んだ。
目の前には、大きな水槽があった。
水中では宝石のように光が揺らめき、
白い石とサンゴが海藻の緑を鮮やかに引き立てている。
小ぶりな魚たちが尾ひれを揺らして、自由に泳いでいた。
(すごい……)
呆然と立ち尽くす私の背を、透真がそっと押す。
「ほら」
平然と微笑む透真。
私はウェイターさんにぺこりと頭を下げ、
おずおずと個室の中へ入っていった。
水槽の前には木製のテーブルが置かれ、
両側に椅子が二つずつ。
いつの間にか先に中へ入っていたフィンが、
奥の椅子によじ登ろうとしていた。
「あ……!」
私は慌てて駆け寄り、フィンが登ろうとしている椅子を押さえた。
フィンは動きを止め、こちらを振り向くと無邪気に笑った。
「ネナ、ありがとう〜」
そして、またよじ登り始める。
「フィン、ひとりで大丈夫?」
「うん!」
お尻を支えてあげようと思ったけれど、その必要はなかった。
椅子を押さえると、フィンは難なく席に着いた。
無事座ったフィンを見て、ほっと息をつく。
そのまま、フィンの隣の席に腰を下ろした。
ウェイターさんは三人が座ったのを確認すると、柔らかく微笑み、話しはじめた。
「メニューはこちらになります」
スッと目の前に差し出されたのは、
木製の縁取りに乳白色の盤——メニュー板だった。
黒文字で料理名が刻まれている。
一番上には、『朝食』と書かれていた。
「ご注文がお決まりになりましたら、お申し付けください」
微笑んだウェイターさんは下がる気配がなく、注文を聞くまではこの場に待機し続けるみたいだった。
(時間かけたら、申し訳ないよね)
そう思って、急いでメニュー板に目を落とした。
「!」
そこに書いてある文字を見て、息を呑んだ。
——まさか、こんなものまであるなんて……!
「透真っ」
うれしさに、自分でも驚くほど声が弾んだ。
透真は声を弾ませた私を見て、
わずかに口元を緩ませ、首を傾げる。
「……どうした?」
私は震える指先で、メニュー板のある項目をそっと示した。
「——和食御膳っ、あるよ……!」
「〜っく」
興奮気味に顔を上げた私に、透真が吹き出した。
「よ……よかったなぁ」
肩を震わせて笑っている。
けれど、今の私にはそんなこと気にならなかった。
(お味噌汁かな……? 漬け物はなんだろう?)
頭の中に、次々と“和食”のイメージが広がっていく。
ただただ——
この『和食御膳』に、胸を高鳴らせていた。
「ネナ、"わしょくごぜん"ってなーにー?」
丸い瞳でじっと見つめるフィン。
私はにこっと口元をゆるめ、そのまま和食御膳について話し始めた。
「和食御膳っていうのは、和食のごはんとスープ、色んなおかずがひとつのお盆に乗っていて……」
「わしょく〜?」
「和食っていうのは、に……」
そこまで言いかけて、ふと気づいた。
和食は日本料理の総称。
メニュー板に書いてあったから気にしていなかったけれど、
この世界で『和食』とは、どういうものなんだろう。
返答に困って、言葉に詰まる。
しばらく沈黙が続いたあと。
「お客様」
静かに様子を伺っていたウェイターさんが、そっと声をかけてきた。
「よろしければ——
僭越ながら、『和食』について私からご説明してもよろしいでしょうか?」
ウェイターさんの申し出に、表情がぱぁっと明るくなった。
この世界の人に説明してもらえるのなら、願ったり叶ったりだ。
「ぜひ、お願いします」
ほっと胸を撫で下ろしながらそう答えると、
ウェイターさんは微笑み、軽く頭を下げた。
「ありがとうございます。それでは、ご説明致します。
『和食』とは、このアウレニア帝国より遥か東方に存在した国から伝わった料理の総称でございます」
“アウレニア帝国”
(そういえば……はじめて聞いたかも)
知らなかったこの国の正式な名前に、
“ここ、帝国だったんだ……”と、ぼんやり思った。
ウェイターさんが続ける。
「主に、海で採れた魚や海藻から煮出した出汁、
豆を原料とした発酵調味料で味を調えた主菜、副菜が特徴でして……
素材の味を活かした調理法ゆえ、
“健康的な食事” と称されております」
丁寧な説明に、フィンは頭の上に疑問符が浮かびそうなほど目を丸くしている。
その様子に気づいたウェイターさんは、言葉を補うように続けた。
「また代表的な点として、主食がパンではなく“お米”であることも挙げられます」
「……おこめ?」
首を傾げるフィンに、私は思わず添えた。
「“かつ丼”や“おにぎり”も和食なんだよ」
ウェイターさんは上品に微笑み、再び頷いた。
「左様でございます。
さらに、フォークやスプーンではなく、“お箸”という二本の棒を用いて食事を頂くことも、大きな特徴でございます」
和食は、もともとこの世界に存在した国の文化らしい。
けれど、私の知っている日本食と大きくは違わないようだ。
(今は……もうない国なのかな。
いってみたかったな)
"残念"と、胸の奥がほんの少しだけ沈んだ。
「こちらご注文の場合、お箸以外でのお食事をご所望でございましたら、スプーンやフォークもご用意可能でございます」
「それでは、ご注文をご検討くださいませ」
にこっと微笑んで説明を終えたウェイターさんは、再び控えるように静かに立った。
「フィン、どんなものが食べたい?」
私はもう和食御膳に決めていたので、フィンのメニュー選びを手伝うつもりで声をかける。
「うーんとね。ぼく、あまいものがたべたい」
どうやらフィンには“和食”は響かなかったらしい。
幼いフィンに和食の説明を理解してもらうのは難しいよね、と私は小さく苦笑した。
(でも、甘いものかぁ……)
甘い料理なんてあるかなと、メニュー板の上から視線を滑らせたとき。
「それなら、この『日替わりパンセット』がいいんじゃないか?」
透真がメニュー板の下の方を軽く指で示した。
そこには、『日替わりパンセット』の文字と “本日のパン” が並んでいた。
「『クロワッサン』と……
ぱん・お・ふりゅい?」
(なんだろう、"ぱん・お・ふりゅい"って)
私ははじめて見たパンの名前に、小さく首を傾げた。
「ぱんおふりゅ?」
私の言葉に、フィンも一緒になって首を傾げる。
ふたりで"なんだろうね?"と顔を見合わせていると、透真が小さく笑った。
「『パン・オ・フリュイ』な。
ドライフルーツやナッツを練り込んで焼いたパンだよ」
ドライフルーツやナッツが入ったパン……。
「!」
しばらく思考を巡らせて、はっと気づいた。
(フリュイって、フルーツのこと……?)
そういうことだったんだと、
すとん、と頭の中が澄み渡った。
私は目を丸くしてメニュー板の文字を見つめた。
「フルーツのパン! ぼく、たべたいっ!」
目をきらきらと大きくして、片手を上げるフィン。
ウェイターさんはにこりと微笑み頷いた。
「『日替わりパンセット』でございますね。
セットのお飲み物がミルクとフルーツジュースからお選び頂けます」
「どちらになさいますか?」
ウェイターさんの問いかけに、フィンは迷わず「ミルク! おねがいします!」と答えた。
(ちゃんと"お願いします"って言えて、フィンおりこうさんだぁ)
そう思いながらにこにこしていると、透真が「音凪」と話しかけた。
「音凪は『和食御膳』?」
尋ねる透真に、私はこくりと頷いた。
透真には私の気持ちはお見通しだったらしい。
私は恥ずかしさに、少しだけ胸の奥にむずがゆさを感じた。
「『和食御膳』二つでお願いします」
落ち着いた声でウェイターさんに伝える透真。
私の分と一緒に注文してくれた透真に、小さな声で話しかけた。
「透真も和食御膳なんだね」
「そろそろ、味噌汁や煮物が恋しくなってな」
私と同じだ。
透真も、同じことを思っていた——
その事実が体の内側でふわっと溶けて、
うれしさに思わず「ふふっ」と声が漏れた。
「では、ご注文を確認させて頂きます」
私たちのやり取りを静かに見守っていたウェイターさん。
その手には、いつの間にかオーダー表が握られていた。
私は足をぷらぷら揺らしながら水槽を眺めているフィンに、
「いっしょに確認しようね」
と声をかける。
「うんっ」
お行儀よく座り直したフィンの姿に、ウェイターさんはにこっと微笑み、オーダー表を読み上げた。
「和食御膳がお二つ。
日替わりパンセットがお一つ。
日替わりパンセットのお飲み物はミルクでお間違いないでしょうか?」
「はい!」
フィンは勢いよく手を挙げた。
私と透真も、こくりと頷く。
「ありがとうございます。ご注文承りました」
ウェイターさんは丁寧にオーダー表をしまうと、
「それでは、ごゆっくりお過ごしくださいませ」
深くお辞儀をして、物音ひとつ立てずに振り返った。
指先で引き手に触れ、
からから……。
戸を開けて一歩出ると、またこちらへ向き直って、
「失礼致します」
もう一度、深く頭を下げる。
そして、からから……と引き戸を静かに閉めていった。
引き戸が閉まりきって、一拍。
私は壁一面の水槽へと、ゆっくり振り返った。
フィンはすでに水槽に夢中だ。
反射したガラス越しに、
泳ぐ魚に合わせて視線を忙しなく動かしているのが見えて、ふっと口元が緩んだ。
私も並んで、水槽の中を眺める。
フィンの感嘆の声。
水中で空気が浮かぶ、こぽこぽという音。
控えめで上品な曲。
どれもが心地よく耳に馴染んだ。
「わあっ! みてみて!」
フィンがきらきらした顔で振り返った。
水槽の左側を指さしている。
フィンの頭で隠れてよく見えなくて、
私はそっと椅子を引いて立ち上がった。
「音凪」
名前を呼ばれて、振り返る。
透真も椅子から立ち上がっていた。
「こっちの方が見やすいから」
そう言って、目線でフィンの正面を示す。
私が奥に行きやすいように、テーブル脇へと移動してくれていた。
「ありがとう、透真」
透真のさりげない気づかいに、自然と目を細める。
私がフィンの前へ向かおうとすると、
透真はそのままフィンの隣に腰を下ろした。
私も、フィンの向かいへ、
わずかに遅れて腰を下ろした。
(席、代わってくれたんだ)
元の席には戻らず、私が座っていた場所に腰を下ろした透真に、
なんとなく、そう思った。
私は視線を、水槽の方に流した。
さっきフィンが指をさしていた場所には、
もう、なにもいない。
ガラスに反射した、笑い合うふたりの姿だけが、揺れていた。
(……いいなぁ)
心の中でぽつり、つぶやく。
私は淡く照らされた水槽を、
ゆっくりと漂うように、眺め続けた——。




