第二十話: 囁く海原(後)
「おなかいっぱ〜い!」
満足げに頬を染めながら、お腹をぽんぽんとさするフィン。
私はかわいらしい仕草にほっこりしながら、
さっきの和食御膳の味を思い出した。
(とても、おいしかった)
今まで食べたことのない、上品な味だった。
あまく、つややかな白米。
出汁がふわっと香る、とうふとわかめとねぎのお味噌汁。
細かく散った柚子が爽やかに鼻を抜ける、白菜のお漬け物。
ほどよい塩味の、ほくほくと柔らかな鮭には、
みずみずしい大根おろしが添えられていた。
そして、
お味噌汁は、粒味噌だった。
(あのつぶつぶ、すきなんだよね)
思い出しただけで、ふわっと口の中に香りがよみがえる。
もう残っていないはずの匂いに、思わず小さく舌鼓を打った。
朝食を終えて、再び船内を歩きはじめた私たち三人。
甲板に出られる場所は三箇所あるようで、私たちは一番近い、船首側の階段に向かっていた。
「かいだんあったよ!」
フィンは壁の角からにょきっと顔を出したあと、
うれしそうに私たちを振り返った。
「フィン」
走り出そうとするフィンを透真がやんわり制止する。
その光景を横目に角を曲がると、
少し開けた空間に、階段の入り口があった。
木製の踏板と、白い骨組みの手すり。
手すりの掴む部分は踏板と同じ焦茶色で、
丸みを帯びている。
踏板には、つま先が当たる位置に細い照明が埋め込まれていて、
淡い橙色が段差をやわらかく照らし上げていた。
壁に付いている手すりの下。
そこにも橙が滲んでいて、
アイボリーの壁をやさしく染めていた。
(なんだか、やさしい雰囲気)
上層階はこれまで高級感が強かったけれど、
この空間だけはどことなく、ほっとするような温もりがある。
私は小さく、息を吸った。
「もうおそと?」
フィンがわくわくと体を揺らす。
階段を見上げると、上から日の光が差し込んでいた。
「うん。
階段を上ったら、お外だよ」
私は微笑みながら少し屈むと、右手をフィンの前に差し出した。
「手を繋いで上ろうね」
「うん!」
小さな手が、私の手をぎゅっと握る。
その温もりを確かめながら、
一段ずつ、フィンと呼吸を合わせて上りはじめた。
視界の端。
フィンのすぐ後ろには、透真が静かに続いている。
「うんっしょっ、うんっしょっ」
私の手と手すりの骨組みを握って、
右足、左足と懸命に上るフィン。
小さな指が白い手すりにぎゅっと絡む。
一段、また一段——
上るたびに、息を弾ませていた。
折り返しの踊り場に差し掛かった頃、
上からこぼれる黄金の光に、思わず目を細めた。
わずかに、波風の音が
耳の奥をくすぐる。
階段の上には、
外への出口があった。
「おそとだ!」
扉上部のガラスから覗く空に、フィンはぱぁああっと目を開いて、
いそいそと、残りの階段を上がっていった。
一番最後の階段を上りきり、最上階へと足を踏み入れる。
扉の前の空間は、人が縦に四人は並べそうなほど開けていた。
(ぶつかっても、大丈夫そう)
そんなことをぼんやりと考える。
気づけば、後ろにいたはずの透真が前に出ていて、
甲板へ続く扉の取手に、そっと手をかけていた。
ガチャン。
低い金属音が、開けた空間にこだまする。
そして——
ゆっくりと、扉が押し開かれていく。
ザァアア……ッ!
「!」
水を弾くような大きな音が、鼓膜を震わせた。
同時に、冷たい海風が、
扉の隙間からふわりと肌を撫でていく。
「わあ! おっきい音がする!」
そわそわと足踏みをするフィン。
その様子に、透真はふっと笑みを落とした。
「どうぞ」
扉を開けた透真が、外側でしっかりと押さえてくれている。
「ありがとう、透真」
「どういたしまして」
言葉を交わすあいだにも、
今にも走り出しそうなフィンに手を引かれて、
私たちは甲板へと歩き出した。
落ち着いた色味の木甲板。
一枚一枚、色の濃淡が違っていて、
ところどころ節もある。
どこか古材のようにも見えて、
背中にわずかな緊張が走った。
けれど——足の裏に伝わる感触は、
見た目よりもしっかりしている。
ただ“そういう見た目なだけ”だと分かって、
肩の力がふっと抜けた。
「……海、みえないねー」
少しだけしぼんだ声で、フィンがぽつりと呟く。
私は海の方を向いて、眉を落とした。
甲板は内側に向かってゆるく弧を描いていて、白い壁がぐるりと囲んでいる。
壁の上にある手すりは、フィンの頭よりずっと高い。
そのため、フィンには遠くの海さえも見えなかった。
(だっこ……は、危ないよね)
海が見えなくてしょぼんと肩を落としてるフィン。
どうにかして海を見せてあげたい。
どうしよう、と頭を捻っていたとき。
「向こうに展望デッキがあるみたいだ」
透真が右の足先を船尾側に向けて、私たちを振り向いた。
「展望デッキ……」
「いってみようか?」
フィンに声をかける。
「?」
フィンは首を傾げた。
"展望デッキが分からないんだろうなぁ"
そうは思ったけど、
行くことになるだろうから、特に説明しなくてもいいよね?
フィンはよく分かっていない顔のまま、
それでも「うん!」と元気よく返事をした。
その素直さに、気づけばにっこりと口元が上がっていた。
三人で、今度は船尾側に向かって歩きだす。
私たちが出てきた出入り口の上は操舵室らしく、さらに上まで壁が立ち上がっていた。
操舵室の横を通り過ぎると、再び開けた空間が広がっていた。
そこには白の丸テーブルと椅子が置かれていて、何組かの旅人たちが休憩をしている。
「ここでごはんを食べるのも、気持ちよさそうだね」
「そうだな」
町で買っておいた携帯食もあるし、
フアナにもらったビビオも、まだたくさんある。
十日間もあるから、色んな場所を移動した方が、
きっとフィンの気分転換にもなる。
そんなふうに予定を思い描きながら、テラスを眺めていた。
「あそこが入り口だ」
透真の言葉に、ふっと視線を移した。
テラスの奥に階段が見える。
テラスを操舵室と挟み込むように作られた建物。
私は壁をなぞるように、目をすぅっと上にすべらせた。
階段を上った先の壁は、白い柵に明るい茶色の手すりが付いている。
(あそこなら、フィンも海を見られそう)
うれしくて、口元がふわっとゆるんだ。
展望デッキの建物に近づいていくと、
ふと、階段の横に扉があることに気がついた。
(ここも、制御室なのかな?)
浮かんだ疑問は、透真の言葉ですぐに解決する。
「帰りはここから下がった方が、部屋に近そうだ」
下の階とつながる出入り口だった。
透真の頭の中には、もう船内の地図が出来上がっているみたい。
(そういえば……透真って、道に迷うことなかったかも)
むしろ私が、道に迷いそうになるたびに、
「こっち」と、
正しい道に連れていってくれることが多かった。
船内の位置を覚えることなんて、透真には簡単なことなのかもしれない。
「すごいね、透真」
階段の前で、私たちが上りはじめるのを待っている透真。
私の言葉に、不思議そうな顔をした。
胸の奥がくすぐられて、「ふふっ」と声がこぼれた。
透真がますます不思議そうな顔で私を見つめる。
私はほんの少しだけ目を伏せながら、
フィンと一緒に階段を上りはじめた。
カツン、カツン。
階段を踏み込むたびに、軽い金属音が響く。
横を見ると、広大な海の景色。
フィンにももう見えるはずだけど、
一生懸命に階段を上っていて、そのことには気づいていない。
「よいっしょっ、よいっしょっ」
その頑張る姿に、自然と目を細めた。
「よいっ……しょ!」
最後の一段を上って、顔をぱっと上げたフィン。
小さな口が、ゆっくりと開いていく。
「……わあ!」
はじめて見る景色に声を上げたフィン。
私の手を引いて、デッキをまっすぐに進んでいく。
手すりの側までつくと、フィンの指が離れていく。
私もその指の離れ方に合わせて、そっと手をほどいた。
フィンは自由になった両手で手すりの格子を握ると、
まるで引き込まれるように、じーっと海を見つめた。
後から来た透真が、静かにフィンの横に立つ。
「フィン、どうだ?」
低くやわらかい声で、フィンに尋ねる透真。
いつものフィンなら、透真の方を振り向いて答えるけれど、
「……すごい」
海から目を離すことなく、ぽつりとこぼした。
期待以上に感動しているフィンの姿に、
私と透真は顔を見合わせて笑い合った。
フィンはそれからも、しばらく海を眺め続けた。
時折、
「海と空しかみえない」
「なにかいたよ!」
「あれっ! なんだろう?」
ひとつ見つけるたびにはしゃいでは、
船から見える景色を楽しんでいた。
何十分経っただろう。
海を眺めていたフィンが、くるっと私たちを振り向いた。
「フィン、どうしたの?」
「もう終わりか?」
私と透真が尋ねると、フィンはぶんぶんと首を横に振った。
「ううん、あのね」
私たちは"どうしたんだろう?"と顔を見合わせて、フィンの言葉を待った。
すると、フィンは、花が咲いたように笑って、
「——ありがとう!」
"ここに連れてきてくれて"
音にはならなかったけれど、そう聞こえた気がした。
胸にやわらかな波が広がっていく。
うれしいはずなのに、目の奥がじんわりと熱を帯びた。
「ふふっ」
私が笑うと、フィンはもう一度にこっと笑って、再び海を眺めはじめた。
透真が、フィンの頭をやさしく撫でる。
私も目に浮かぶ海を溶かすように、
青の輝きを、まぶたの裏に焼き付けた____。
第二十話
覗く深海-囁く海原- 完
※今週は本編の金曜更新はお休みです。
※次回は5/3(日)の更新を予定しています。




