第十九話:揺れる泡沫(後)
案内板を頼りに進み、上層階へと続く緩やかなスロープを歩いていく。
傾いていた足元がやがて平坦になると、上層階の通路へと出た。
「ドアがちがーう!」
フィンの声が、静かな通路に響いた。
下の階と比べて、明らかに減った部屋数——
扉同士の間隔にはゆとりがあって、一部屋一部屋の広さが、それなりの大きさであることが分かる。
(高校の教室……くらい?)
フィンの言う通り、扉の見た目も違う。
下の階は普通の家にあるような、
縦に板を張った木の扉だった。
けれど、この階の扉はシルバーの縁が天窓から零れる朝の光を受けて、
淡く金色を帯びた、濃い茶色の扉をしている。
部屋番号の札も金属製みたいで、
シルバーに黒字の札が扉の横に付けられていた。
「1208室だから……」
目の前の部屋が『1204室』。
船尾方向に進んで、隣の部屋番号を見ると『1205室』。
船尾へ向かって、静かな廊下を進む。
透真の服の裾を掴むフィンが、
時折よろけて「わっ」と声を出す。
さっきよりも揺れやすいみたい。
フィンの歩幅に合わせて、
三人でゆっくりと部屋まで歩いて行った。
「フィン、着いたよ」
部屋の前で足を止める。
足元を見ながら、慎重に歩いていたフィンに声をかけると、
「おへやについたの!?」
勢いよく顔を上げて、まんまるの瞳をキラキラとさせて私を見つめた。
「今、開けるから」
透真が身分証を、扉の取手にかざす。
「そうやって、開けるんだね……」
どうして知っているのだろう。
首を傾げていると、すかさず透真が
「受付の人が言ってた」と言った。
「……言ってた?」
「音凪がぼーっとしてるときに」
「ぼーっとなんて……」
"してなかったよ"
そう言いかけて、止める。
(……してたのかも)
電子音のときや、航海日数が十日と言われたあとに話していたことは……
たぶん、聞いていなかった。
(透真が聞いてくれていてよかった)
誰も聞いていなかったら、扉の前であたふたしていたかもしれない。
「透真、ありがとう」
お礼を伝えると、透真は一瞬きょとんとして、すぐに目を細めた。
「どういたしまして」
笑いながら、取手に手を掛ける透真。
透真が取手を捻ると、
ガチャン。
錠が外れる低い音が、静かな廊下に響いた。
ゆっくりと扉を押し開けていく。
扉の隙間から覗くのは……アイボリーの壁。
それとわずかに、左から外の光が差し込んでいる。
「先にどうぞ」
扉を押したままの透真がそう言って、私はまた「ありがとう」と返す。
そのまま部屋に入り、一歩、二歩と進む。
フィンが、前を歩く私の腰を掴んで、後ろをついてくる。
背後で、扉が静かに閉まる音がした。
角から顔を出して——
眩しさに、思わず目を細めた。
「わー!! すごいすごい!」
後ろにいたフィンが私から手を離して、ぱたぱたと駆けていく。
いつもなら「危ないよ」って声をかけていた。けれど。
(すごい……)
目の前の光景に、ただ見惚れていた。
部屋の作りはシンプルで、通路の正面に焦茶の棚。
奥には、棚と同じ焦茶の丸いテーブルに、深海を思わせる青のL字ソファ。
そして——壁一面を占める、大きな窓。
そこから射し込む光は、波に揺らめく水面をそのまま閉じ込めたように、
部屋いっぱいに反射していた。
「海がみえるよー!」
乱雑に靴を脱いで、窓際に置かれたソファに上るフィン。
両手を窓にべたっと付けると、身を乗り出して外を見つめた。
「フィン。行儀が悪いぞ」
透真の注意にぴくりと肩を震わせる。
少し振り向いて、「ごめんなさい〜」と言うと、そろりとソファに膝をついた。
そして改めて、外を見つめる。
窓の向こうには白茶色のデッキがあって、
ソファと反対側の隅に、ちょこんと観葉植物が置かれている。
デッキと海を隔てる壁は、
一瞬、境目が分からなくなるほどの透明。
目の前に広がる青々とした海が穏やかに揺れている。
朝の光を吸い込みながら、底の方まで透けて見えそうだった。
「外には……出れないんだね」
デッキがあるから出られるのかと思ったけれど、そうではなかった。
一瞬、“目を離した隙にフィンが出ちゃうかも”とよぎった不安が、
心配するまでもなかったと知って、胸をなで下ろした。
「音凪」
透真に呼ばれて、振り返る。
「どっちの部屋がいい?」
二つある扉の前で、透真が尋ねた。
「何か違うの?」
「反転しただけで、ほぼ同じ」
透真はそう言って、片方の扉を開ける。
(! ……引き戸だ)
この世界に引き戸があるなんて。
なんだか、不思議な気持ち。
かつ丼も、おにぎりも、引き戸も。
時々目にする日本文化に、胸の奥がそわそわする。
そういえば——
私たちがこの世界に来た森は、
『転移者が迷い込む森』だった。
(もしかしたら、私たち以外にも”日本人”が転移して来てたのかもしれない)
転移者が元の世界の文化を、この世界に残した。
そういうことも、あったのかもしれない。
「音凪?」
透真の声にはっとして、顔を上げた。
いつの間にか視線は下がり、ぼんやりしていたらしい。
「あ……
透真は、どっちでもいいの?」
私は特にこだわりはない。
そう思いながら尋ねると、透真も同じだったようだ。
「ん」
短く答えて、こくりと頷く。
「それなら、私こっち使うね」
近い方の部屋——外側の部屋を指さす。
海側ではあるけれど、窓があるわけではない。
一人で使うには少し大きなベッドと、
引き出し付きの小さなテーブル。
それだけの、静かな部屋だった。
(フィンと寝る分には、十分)
そう思った瞬間、昨日の朝のことを思い出す。
苦しい思いをさせてしまって、昨日は透真と眠ったフィン。
朝も透真の腕の中で、気持ちよさそうにすやすや眠っていた。
(フィン、もう私とは寝てくれないかも……)
しゅんと肩が落ちた。
「音凪?どうした?」
「……ううん、なんでもないよ」
とぼとぼと、部屋の中に入った。
首を傾げた透真が、遅れて同じ部屋に入ってくる。
「トランクだけでいいか?」
ポケットからスマホを取り出した透真が、片手でスッスッと操作し、視線を上げる。
「うん」
こくんと頷くと、紺色のカーペットの上に光の粒が空気を弾くように浮き上がり、
私のトランクケースが現れた。
部屋にクローゼットはないから、ケースがあってよかった。
(あと、透真のスマホも)
「ありがとう」
透真にお礼を言って、トランクケースを部屋の隅に置いた。
あとは……
ベッドを振り向いて、そっと手を伸ばす。
——ふかっ。
「!」
や、柔らかい……!
片手だけ触れていたベッドに、両手をついて、その弾力を確かめる。
(よく眠れそう)
思わず、口元がゆるんだ。
私の様子を見守っていた透真が、「ふっ」と小さく笑う。
私は少しだけむっとして、余裕そうな透真の手を握った。
透真が驚いたように目を丸くする。
(この柔らかさに気づいてないから)
「透真もほら。ふかふかなんだよ?
ふふっ。早く確かめてみて」
そう言って、透真の腕をベッドへ近づける。
透真は渋々といった顔で、ゆっくりと手を伸ばした。
透真だって、こんなにふかふかのベッドは初めて。
その柔らかさに、きっと驚くはず。
そう思って、透真がベッドに触れる様子をじーっと見つめた。
——透真の手が、白い布地に沈む。
「……柔らかいな。
フィンが喜ぶんじゃないか?」
淡々と言う透真に、拍子抜けしてしまう。
前に生活用品店の店頭で、大きな柔らかいクッションを撫でながら
「いつか家に置きたいな……」と呟いていた透真。
こんなに柔らかいベッドなら、きっとよろこぶと思ったのに——
どうして、こんなに落ち着いているんだろう。
「透真は?」
「えっ?」
不思議そうな顔をする透真。
「透真も、こんなに柔らかいベッドは初めてだよね?」
「寝るの、楽しみじゃない?」
透真の瞳をまっすぐに見つめて尋ねた。
私の言葉に、透真は小さく目を見開いて、
わずかに唇を動かす。
「……あ、楽しみだよ」
ほんの一瞬、言葉に詰まらせてから、
透真は笑った。
そしてごまかすように、
「俺も荷物、出してくる」と言って、
隣の部屋へと入っていった。
「……」
透真が消えていった入り口を見つめ、ゆっくりとベッドに腰をかける。
そして、そのまま沈むように倒れ込んだ。
開いたままの戸から差し込むわずかな光でさえ、今の私には眩しくて、
手の甲で目元を覆う。
手首の腕輪が、ひやりとした。
(透真……)
透真が透真であることは、もう疑っていない。
けれど——透真が何かを隠していることは、もうずっと気づいている。
(なにを、抱えているの……?)
ごまかすたびに、悲しそうな顔をする透真。
“言いたくない”——それなら、いい。
でも、私にはそうは見えない。
“言えない”——そんな、苦しそうな表情。
(……信じてほしい)
だけど、透真に尋ねてしまったら——
ほんとうに、いなくなってしまうかもしれない。
——どうしたらいいの?
もどかしい思いに、きゅっと唇を噛んだ。
「ネーナー?」
私を呼ぶフィンの声に、目元を覆っていた手を頭の横に落とした。
「ねむいの?」
そばに駆け寄って顔を覗き込むフィン。
くりくりと丸い瞳で見つめられ、思わず笑みがこぼれた。
「ふふ……すこしだけ」
「朝はやかったもんね〜」
フィンはベッドに両手で頬杖をして、にこにこしている。
「フィンは、ぱっちり目が覚めたね」
「うん! ぼく、もうねむくないよ!」
「おそとも、はやく見にいきたい!」
うきうきと私の服を引っ張る、すっかり探検モードのフィン。
その張り切りように、「ふふっ」と声を漏らした。
「船が動いたら、見に行こうね」
動き出しは特に大きく揺れるかもしれない。
波に乗り始めて、安定してからの方がいい。
そのことをフィンにも分かりやすく説明すると、
フィンは「わかった!」と大きく返事をした。
「待ってる間、フィンもベッドに寝る?」
乗り過ごすことがないように朝一番に来たけれど、出発まではもう少し時間がある。
私は自分の隣をぽんぽんと叩いて、フィンを誘った。
「んー……」
微妙な反応を返したフィン。
やっぱり、私と寝るのは嫌みたい。
「うぅ……」
スッと両手で顔を覆い、泣いたふりをする。
「えっ?! えっ?!」
慌てるフィンの声。
すぐに左側が沈む感覚がして、ベッドに上がってきたのが分かる。
「ネナ、ごめんね! でもぼく、トーマとねる!」
謝りながらも嘘をつかない、その素直さに口元が緩みそうになって——
「それなら……!」
泣いたふりがバレる前に、がばっと体を反転させた。
「わぁああ?!」
フィンを捕まえて、一緒にベッドへ沈む。
「離さないだけだよ!」
驚くフィンを優しく抱きしめながらも、しっかり離さない。
フィンは身を捩りながら、「きゃああ!」と楽しそうに笑っていた。
「……?」
ふと、人の気配を感じて入り口を見る。
透真が緊迫した顔で私たちを見ていた。
けれど、強張った表情はすぐに解けて、
「楽しそうだな」
そう言って微笑んだ。
「ふふっ、透真も来る?」
(ちょっと狭いけど、たぶん寝れるよね?)
もしかしたら、透真も混ざりたいのかも。
そう思って聞いてみると、透真はぎょっとした顔をした。
「い、いや……俺は……」
「トーマもきーてー!」
フィンのお願いに透真は眉を下げる。
しばらくして、小さなため息を吐くと、ゆっくりベッドに近づいた。
ぽふんっ。
倒れ込むように、横になった透真。
その振動にベッドが揺れて、フィンがきゃっきゃっとよろこぶ。
「きっと、楽しい船旅になるね」
気づけば、そう呟いていた。
——こんな時間が、ずっと続いたらいいのに。
こんなに穏やかで幸せな時間に、そう思わずにはいられなかった。
「うん!」
フィンの頭の横に置いていた、私と透真の手。
フィンは私たちの指を、ぎゅっと握った。
おそらく、無意識の動作。
私と透真は目を見合わせて、ふっと目を細めた。
どこかで汽笛の音が、遠くに溶けていった___。
第十九話
覗く深海-揺れる泡沫- 完




