第十九話: 揺れる泡沫(前)
水平線に、まだ日が隠れる夜明け。
冷たい空気に吐いた息が、白く溶ける。
横からは、「すぅーすぅー」と——
透真に抱えられたフィンの寝息が、静かに響いていた。
——いよいよ、乗船だ。
乗船券を購入したとき、渡された案内。
そこに記された乗船場所を目指す。
「二番乗り場、だよね」
まだ、人が寝静まる早朝。
私は声を潜めて、透真に話しかけた。
「ああ。ここが五番だから——向こうじゃないか?」
透真が振り向いた先。
その方向に、一隻だけ、大きな船が停まっていた。
「あれかな?」
「行ってみよう」
足先を、船の方へ向けた。
静かな波音に合わせて、ゆっくりと歩き出す。
横切る乗り場の看板には、『四番乗り場』の文字。
(うん、こっちであってるみたい)
少し先、桟橋の前には船員が立っていて、
ぽつぽつと集まる人々に案内をしていた。
話を終えた人たちは、順にスロープを渡っていく。
徐々に近づく船。
三番乗り場の手前で、その大きさに息を呑んだ。
これが……動くの?
町に並ぶどの建物よりも高く、長い船。
覗き始めた朝日に照らされて、白い躯体の縁がゆらりと光を返した。
(高校の校庭に刻まれた、二百メートルトラックくらい?
だとしたら、全長百メートル近くあるのかな?)
海に浮いているのが不思議。
「……透真」
「ん?」
「大きいね」
どうやって動くんだろう。
帆はないし、エンジン……でもないよね?
この世界、車もないし。
(……ということは)
驚いている私とは反対に、
「そうだな」と平然としている透真。
けれど——一拍。
「魔法って、すごいんだね」
私の言葉に、透真は固まった。
数秒の沈黙。
私は首を傾げて、「透真?」と声をかけようとしたとき。
「音凪……
元の世界には——もっと大きい船があるぞ」
透真は、一瞬視線を落としてから、そう答えた。
「……うん?」
私は透真が言いたいことが分からず、首を傾げた。
透真はばつが悪そうに続ける。
「この船は百メートルあるかどうかだろ?
元の世界では……これの四倍近くの大きさの、船がある」
「よん……ばい?」
私たちの世界の船ってそんなに大きいのもあるの?
それを、魔法もなしに機械で動かしてるの?
透真の説明に、ぽかんと口が開いていく。
(魔法は、すごくなかった)
機械だけで動かしてる方がもっとすごい。
魔法より勝る部分もあるんだなぁと、
しばらく呆然と船を見つめた。
海面に映る朝日が、船体を淡く照らしている。
立ち尽くす私に
「行こう」
と透真が声をかけた。
「うん」
私たちは再び、二番乗り場へと歩きはじめた。
桟橋前まで近づいて、船員さんに話しかける。
「おはようございます」
船員さんはこちらに視線を向けると、にこっと笑って「おはようございます」と返した。
「身分証のご提示をお願いします。
乗船券のお支払いがご一括でしたら、代表者様の身分証のみで構いませんよ」
その言葉に、透真が身分証を差し出した。
(そういえば……)
私はふと、透真の身分証をしっかり見たのは、今回が初めてだということに気がついた。
黒に金のラインが入った身分証。
朝日に照らされて、時折、小さな粒が七色に煌めいていた。
(なんだか、とても高級感のあるデザイン)
その上質な見た目に、"きれい"と思うのと同時に、
少しだけ透真が遠くに感じた。
船員さんが透真の身分証を船体に向けてかざすと、また懐かしい電子音が鳴った。
「……はい。問題ありません。
こちらにお進みください」
「それでは、良い旅を」
笑顔で送り出す船員さんに、ぺこりと頭を下げて、スロープへと歩き出した。
スロープを踏み出した足元が、かすかに揺れる。
それだけで、喉の奥がきゅっとして、ほんの一瞬、不安がかすめた。
(落ちない、よね?)
けれど、その心配はいらなかった。
無事昇り切って、船の中へと足を踏み入れた。
ダークグレーの絨毯が敷き詰められた床を進んでいく。
左右にはいくつもの木製の扉が並んでいて、その上部には番号が書かれた札が付いていた。
「普通の宿みたいだね」
船の中とは思えない造りに、きょろきょろと見回す。
「むぅ……?」
目を覚ましたフィンが、ボーッと辺りを見つめた。
「おはよう」
まだ目が開ききっていないフィンに、透真が優しく微笑んだ。
私もフィンに「おはよう」と声をかける。
「ここ……どこぉ……?」
透真の胸に抱えられていたからだろうか。
片側の頬が赤く染まっていて、
ふわふわの髪は不自然に跳ねていた。
フィンの寝癖を解くように、そっと頭を撫でた。
「船の中だよ」
「おふね……?」
フィンは首を傾げて、眠たげな瞳をぱちぱちと数回上下させた。
しばらくして、やっと頭が回り始めたのか、
目をぱっと開いたフィンは「おふね!」と声を張った。
透真がゆっくりとフィンを下ろして、背中に手を添える。
フィンは少しよろけて、慌てて透真の脚を掴んだ。
「わっ! びっくりしたぁ……」
少しだけ揺れる足元を、フィンは目を丸くして見つめた。
小さいフィンには、大きく感じるのかもしれない。
私も自分の足元を見つめる。
今のところ、バランスを崩すほどではなかった。
(それでも、油断は禁物だね)
壁に手をつこうと、腕を上げたとき。
グラッ——
船が大きく揺れた。
「わっ」
思わずよろけて、後ろに体が傾く。
次の瞬間——背中に温もりを感じた。
がっしりとした安定感。
振り向くと、
「大丈夫か?」
透真が支えてくれていた。
「あ、りがとう……透真」
(気をつけようとしたそばから……)
透真から身を離そうと、急いで正面に向き直った。
ふと、視界に入った紫の影。
一人、並ぶ扉の一室から出てきた。
その人はこちらに背を向けて、奥へと進んでいく。
見覚えのある姿に、首を傾げた。
(あのマントみたいな服、どこかで……)
「あっ」
思い出した。
一昨日、ご飯屋さんでぶつかった男性と、同じ服。
背格好からしてみても、きっと同一人物。
(同じ船に乗るんだ……)
「どうした?音凪」
ぼーっと前を見つめる私に、透真が尋ねる。
そういえば、透真に寄りかかったままだった……。
私はそっと透真から身を離した。
そして振り向いて、声を潜めるように、両手を口元に添えた。
私のポーズに、少し身を屈めた透真。
近づいた耳元で、こそっと話す。
「前の人ね……
たぶん、一昨日ご飯屋さんで、ぶつかっちゃった人」
透真の眉がぴくりと動いた。
私は透真の表情が固まったのを見て、きょとんとする。
(あ……トラブルがあったと勘違いしたのかも)
誤解を解くために、慌てて補足した。
「優しい人だったよ?」
「心配しないで」
そういうつもりで言ったのに、
「……へぇ?」
少しだけ、不機嫌そうに呟く透真。
けれど、目線は私ではなくて、前を歩く男性に向けられていた。
「透真?」
男性を睨む透真に声をかける。
透真はハッと、眉間の皺を取り去った。
その表情に、私は——
「ふふふっ」
気づけば笑っていた。
「ね、音凪?」
いきなり笑い出した私に、透真がうろたえる。
その様子が余計に心をくすぐった。
「ふふっ」
高校を卒業する前まで、よく見ていた透真の姿。
(警戒心の強い、柴犬みたいな)
言ったら拗ねちゃうから、言わないけれど。
——安心した。
昨日の朝から時々、
透真がいなくなってしまうような。
私の知ってる透真が——
もう、いないような。
そんな不安が積もっていた。
だけど、やっぱり透真は透真だった。
そう思ったら、胸の奥の雲が、少しだけ晴れた気がした。
「……どうしたんだ?」
「ネナ、おもしろいの〜?」
ふたりが頭にハテナを浮かべている。
私は戸惑うふたりに向かって。
「——なんでもない」
晴れやかに笑って、そう答えた。




