第十七話:波紋の一滴(前)
「音凪……おはよう」
わずかな間のあと、すぐに顔を上げた透真。
透真が一瞬見せた表情を、私は見逃さなかった。
(傷ついた顔、してた……?)
どうして?
どうして、そんな顔をしたの——?
そう思ったら、勝手に体が動いていた。
ズンズンと透真の前まで距離を詰めて、
そのまま、ぎゅっと抱きしめた。
「……え?」
透真の驚く声。
私は少しだけ、抱き締める力を強めた。
「ね、音凪? ……どうした?」
透真が困惑した声を出す。
その声はいつもと変わらない、
昔から知っている、普段の透真だった。
ゆっくりと、口を開く。
「私も、抱きつきたくなったの」
透真の胸に頭を預けて、そう答えた。
私と透真の間にいるフィンが「おそろいだね〜」と見上げてくる。
「ふふっ、そうだね」
透真が行き場のない手を彷徨わせているなか、ふたりで笑い合った。
けれど、
一度心の中で生まれた不安は、確実に影を落とす。
(どうしたって……)
さっきの透真の表情を思い出す。
今にも消えていなくなってしまいそうな、そんな表情を——。
***
あのあとすぐ、透真が「朝ごはん、食べに行こう」と言った。
透真の様子は気になるけど、きっと聞いても話してくれない。
私は「うん」と笑って、透真から身を離した。
三人で外に出ると、フィンが「あさごはん〜!」と飛び跳ねる。
町の通りには、パンの焼ける香りと人々の声が流れていた。
外は変わらず冷たい潮風が吹いていて、厚手の上着がないと歩けないくらい肌寒い。
——空を見上げる。
(でも、天気はいい……)
眩しい光に目を細めた。
太陽の熱が、冷えた体を温かく包み込んでくれる。
その温かさは、私の不安も癒そうとしてくれているような、
……そんな気がした。
「あさごはんっ、あさごはんっ」
フィンがぴょんぴょん跳ねながら口ずさむ。
その姿にそっと口元が緩んだ。
「フィン、なに食べたい?」
腰を屈めて、にこにこしているフィンの顔を覗き込むと、フィンはきょとんと目を丸めた。
「えっとね〜」
少し考える素振りをして一拍。
パッと笑顔が咲いた。
「おにぎり!」
昨日食べたおにぎりが気に入ったらしい。
フィンは「ツナマヨ〜」と言いながら、左右に体を揺らしている。
私は気づけば「ふふっ」と笑い声をこぼしていた。
(自分たちで作れないかな?)
こんなに気に入ってくれたなら、今後も食べれるようにできないだろうかと、思考を巡らせる。
材料さえ揃えば、お米を炊くことや具を作ることは難しくない。
ただ、その材料を揃えるのが難しいのだけど……。
(特に、ツナは売っていないかも)
だけど、ツナマヨのおにぎりがあるなら、全くできないわけではない。
知識を得れば、なんとかなるかもしれない。
そんなことを考えていると、透真が視線をフィンから道の先に注いだ。
「俺も今日はツナマヨにしようかな」
透真もおにぎりで問題ないようだ。
(……いつも通り)
さっきの表情は見間違いだったんじゃないか。そう思うくらい、普段と変わらない。だけど——
(そもそも……
普段から"そう見せている"としたら?)
視線が落ちた。
まるで、地面に吸い込まれていくように。
「私も昨日と同じのにしようかな」
視線を無理矢理剥がすようにふたりを見た。
「みんなツナマヨだね!」
フィンがにこっと、うれしそうに笑った。
***
おにぎり屋さんに行くと、昨日と同じ店員さんが迎えてくれた。
すぐに私がおにぎりを注文すると、
「お姉さん、ボルケーノ食べ切ったんですか?」
店員さんは驚いた表情をした。
私たちの顔を覚えていたらしい。
頷くと、店員さんはさらに目を見開いた。
「すごいですね! しかもこんな短時間でまた買いに来た人初めてですよ〜!」
「余裕でした? 具の量増やせますよ」
と、続けて尋ねられて、わずかに顔が火照るのを感じた。
(なんだか恥ずかしい……)
私は小さな声で
「……おねがいします」
と答えた。
「ネナ、ボルケーノおいしいの?」
フィンが目をキラキラ輝かしている。
私が「すごくおいしいよ〜」と答えると、
「!」
フィンの耳がぴょんっと跳ねた。
「ぼくもたべたい!」
興味津々に「食べたい」と言うフィン。
(小さな子には辛いかも)
そんな風に思っていると、店員さんが「えっ?!」と声を上げた。
フィンは店員さんを見て首を傾げている。
透真がスッと屈んで、フィンの肩をやさしく掴んだ。
「フィン、それはデミドアさんのとこで音凪が食べてたスープパスタと同じくらいの辛いやつだぞ」
「え……」
透真の言葉に、フィンの顔から笑顔が引いていった。
フィンは引きつった顔でゆっくりと私を見る。
パチッ。
目が合った瞬間、ふいっと逸らされた。
「ぼく、ボルケーノはたべない」
「ハムたまごはどうだ?」
「それにする!」
フィンのもう一つが決まったところで、透真がふたり分まとめて注文をはじめた。
「すみません。小のツナマヨとハムたまご一つずつと、大のツナマヨと……」
(やっぱり、フィンにはまだ辛いのは早いよね)
頬が緩みそうなのを堪えて、ふと。
そういえば、私が辛いものを好きになったのって、いつからだったっけ?
(たしか……そうだ)
小学生の宿泊学習のとき、クラスの男の子がいたずらで夕飯のカレーにラー油を入れたことがあった。
(クラスの子は先生に怒られてたけど)
そのカレーがすごくおいしくて、それから私は辛いものが好きになった。
私は店員さんと話している透真を見つめた。
「……と、燻製肉、焼き野菜でお間違いないですか?」
宿泊学習から帰ってきたあと、透真はこう言っていた。
『二日目に出た昼食の肉。あの独特な匂いが、食べにくかった』
と。
(知らない間に、苦手じゃなくなったのかな)
きっと、大人になって好みも変わった。
そうでなければ、こんなにたくさん種類があるなかから、わざわざ選ばないだろう。
そう思った、けれど——
「……」
なぜだか、胸の中はすっきりとしなかった。




