第六十四話:蠟梅に触れる
「本日はここまでにしましょう」
マナーの授業の途中、ランドル子爵夫人が突如告げた。
「え……?」
いつもの半分の時間も経っていないタイミングでの声かけに、思わず小さな声が漏れた。
夫人は両手を体の前に添えて、背筋をまっすぐ伸ばしたまま続けた。
「気分が優れないようですから」
「あ……」
昼食までの間、透真のことを考えないようにして過ごしていた。
この数日間でランドル子爵夫人から教えてもらったことを復習したり、モリスさんへの手紙を書いてみたりして、頭の中がいっぱいになるようにしていた。
少し不安が残るなか迎えた昼食の時間は、心配とは裏腹に穏やかに過ぎた。
上手に気持ちを抑え込めたと、思っていた。だけど、
(できて、なかった……)
夫人には見抜かれていたらしい。
もしかしたらフィンたちも口には出さなかっただけで、本当は気を遣ってくれていたのかもしれない。
「……申し訳ございません」
時間を割いてもらっているのに、失礼な態度をとってしまった。
夫人だけでなく、夫人を呼んでくれたヤコブさんにも申し訳なくて、気づけば視線を足下に落としていた。
カツン。
夫人が、一歩近づいた。
恐る恐る顔を上げる。
(きっと、嫌な気持ちにさせてしまった)
そんなことを思いながら、夫人の顔を見た。目が合うと——
夫人は表情を緩めて、静かに口を開いた。
「私が今日の授業を終了する判断に至ったのは、貴女が日々真面目に取り組む姿を見せてくれたからです」
優しい声色。
息がすっと抜けていく。
夫人の目が、私の頭からつま先をゆっくり渡った。
「貴女は飲み込みも早い。そんな貴女に対して最低限のマナーを教えるのに、たった一日早く切り上げたところで支障はありません」
強張っていた頬が解けていくのを感じる。
胸の奥が、なんだかくすぐったい。
(……うれしい)
夫人の言葉には自信が満ちている。
そんな人に褒めてもらえて、うれしくないはずがなかった。
「しかし」
夫人の目が、わずかに細められた。
「次はありません。
自身の不調を悟らせないのも淑女の務めです。いいですね?」
「はい……!」
夫人の口元が、柔らかく弧を描いた。
「よろしい」
その言葉を合図に、私はスカートの裾を摘んで、片足を後ろに引いた。
「本日もご指導、ありがとうございました」
夫人は満足気に私を見つめた——。
……パタン。
夫人に挨拶をして部屋を出た。
いつもなら、このあとはフィンやラケルとお茶をしているけれど、
(ふたりはまだ、終わってないよね)
フィンはマナーの授業を受けているし、ラケルも今の時間は別のことをしていると聞いている。
(本……)
図書室がある方を向いて、
ぴたっ。
(……また、ぼーっとしちゃうかも)
踵を返して、ゆっくりと歩きはじめた。
(体を動かそう)
じっとしているより、動いていた方がきっといい。
たくさん動いて、眠くなるまで動いて。
考える余裕もないくらいクタクタになって——
夢を見ることもなく、深い眠りにつけるように。
(……じゃないと)
いつまでも悩んでしまいそうだ。
コツ、コツ
今は誰もいないはずの訓練場へとまっすぐ向かう。
マナーの授業を受けている部屋からは直接行ったことはないけれど、一階に降りて裏の出入り口から出るだけ。
(一番端まで行けば、どこかに階段があるはず)
ヤコブさんからは、屋敷の中は好きに歩き回っていいと言われている。
入ってはいけない場所や部屋は入れないようにしているから、と。
(探検、してるみたい)
廊下に並ぶ、初めて見る絵や置物を眺めながら、ぼんやり。
昨日までは、必要な場所しか歩き回っていなかった。
気分転換にはちょうどよかったのかもしれない。
(もうすぐ端っこ)
突き当たりが近づいてきた。
正面の壁には大きな絵が飾ってある。
「? ……?」
だけど、左側から伸びる光が真っ白に塗りつぶしていて、何が描いてあるのかほとんど見えない。
(……どっちにも行けそう)
光が右に抜けている。左右に道は続いてそうだ。
右に階段があるなら右。
ないなら左。
足を進めながら次の道を決めて、ついに別れ道に着いたとき。
(……女の人)
白くなっていて見えなかった絵が見れた。
椅子に腰を掛けて微笑む、女性の絵。
絹のように柔らかそうな白茶の髪。
優しそうな眼差しは、とてもあたたかい。
(……でも)
絵をじっと見つめた。
知らない女の人なのに、なぜだろう。
どこか見覚えがある気がして、だけど何も思い浮かばなくてすっきりしない。
「……?」
ぐぃーん。
気づけば、大きく首を傾げていた。
(……だめみたい)
これ以上考えても、答えは分からなさそうだ。
ちらっと右を見た。
階段はない。左を向いた。
「……あ」
太陽は雲に隠れてしまったのか、外が少し薄暗くなった。
(また、雨が降るのかな?)
空を見上げようとして、
「……!」
窓に薄く映った、自分の姿に目が留まった。
……すっ。
そっと、自分の頬に触れた。
(少しだけ……私と似てる)
静かに、絵の中で微笑む女の人へと視線を戻した。
どこが似ているかと言われると、言葉にはできない。
だけど、何となく似てる。そう感じた。
「その絵が気になりますかな?」
後ろから声をかけられた。
はっと肩を揺らして、ゆっくりと振り返った。
「ヤコブさん……」
そこにいたのは、にこにこと笑顔を浮かべるヤコブさんと、私に向かって頭を下げている使用人の方だった。
ヤコブさんは静かに絵を見上げた。
「この絵は、妻が生前の時に描いてもらったものでしてね」
「あ……」
いつもより、少しだけゆっくりと話すヤコブさん。
その声色には懐かしさと、寂しさがこもっている気がした。
(ラケルの、お母さん……)
ラケルのお母さんがすでにこの世にいないことを知ったのは、ここに来たその日……
採寸が終わった後のことだった。
*
『……』
体を隅から隅まで測ってもらい、サンプルの生地や飾りをいくつも合わせてもらうこと数時間。
私は慣れないことに疲れ切って、ソファに座って放心していた。
透真とフィンは採寸の後、早速エヴァンさんからマナーについて教えてもらうことになって、ラケルもまた"用がある"と部屋を出て行った。
『ネナ様』
メイドさんが声をかけた。
『あ……』
『お茶でもお持ちいたしましょうか?』
仕立て屋さんも帰ったのに、一向にソファから動こうとしない私を気遣ってくれたようだ。
『す、すみません。部屋を出るので、大丈夫です』
『かしこまりました。お部屋にお戻りになられますか?』
『は……』
頷こうとして、途中でやめた。
『あの……』
『はい』
『ラケルのお母さ……まに、挨拶をしたくて……』
長期間も滞在させてもらうのだから、早いうちに挨拶を……と思い、そう切り出した。
『……』
メイドさんは一瞬だけ顔を強張らせて、すぐに洗練された笑みを浮かべ直した。
『かしこまりました。ご案内いたします』
『お願いします』
ソファから立ち上がってお辞儀をした。
そのままメイドさんと一緒に部屋を出て、ラケルのお母さんの元へと歩き出した。
長い廊下を進み、階段を下ってしばらく。
メイドさんはある扉の前で立ち止まると、
キィイイ……。
目の前にあった扉を、慎重に開けた。
ふわっと、風が吹き抜けた。
同時に、雨の匂いが鼻をくすぐった。
(外……?)
雨は止んでいた。
ラケルとフィンと庭園にいるときに降った雨は、どうやら通り雨だったようだ。
『段差にお気をつけくださいませ』
扉を支えてくれているメイドさんにぺこりと頭を下げて、外へと出た。
(裏庭……?)
玄関側にあるラケルが案内してくれた庭園は華やかで、
恐らく、誰かに見せることを前提とした造りだった。
だけど、メイドさんが進んでいく道は静かで落ち着いていて、どこかひっそりとしていた。
メイドさんについて行きながら、歩き進めて数分。
それまでの道より開けている場所に出た。
太陽が出ていたら、陽の光がたくさん入ってきそうな場所だった。
前を歩いていたメイドさんが、体を避けた。
(え……?)
『あちらに居られますのが、奥様でございます』
メイドさんが手を伸ばす先、
そこにあるのは——墓石。
(勘違い……?)
メイドさんが指しているのは墓石ではなく、その先に人がいるかもしれないと目を凝らした。
だけど私たちの他に、近くに人はいなかった。
(……亡くなってるんだ)
ふと、庭園でのやり取りを思い出した。
お母さんが好きなお花の前で、少しの間、口を閉ざしていたラケル。
その理由が自ずと分かった。
『……側まで近寄っても、大丈夫ですか?』
『お触れにならなければ、問題ございません』
メイドさんの言葉にこくりと頷いて、静かにラケルのお母さんの元へと歩み寄った。
『……』
墓石の前に立ち、じっと見つめた。
雨に濡れて湿っている石。その表面には、
【愛しい人 ツェリル・アルカラ ここに眠る】
そんな文字が刻まれていた。
(ツェリルさん……)
『……』
そっと、目を瞑った。
——初めまして。音凪と申します。
——少しの間、お世話になります。
『……』
ゆっくりと瞼を開いた。
墓石の雫が、つうっと落ちた。
*
「……優しくて、温かいですね」
ツェリルさんを見上げて、呟いた。
「ははっ」
うれしそうに笑う声に振り返ると、ヤコブさんは柔らかな眼差しでツェリルさんを見つめていた。
(ヤコブさんは、今でもツェリルさんのことを愛してるんだ……)
墓石に刻まれた文字を思い出して、そんな風に感じた。
「そう言ってもらえて妻も喜んでいることでしょう。
何せ、彼女はそれを望んでいましたから」
ヤコブさんの言葉に首を傾げた。
(望んでた……?)
どういうことだろう。
尋ねようとした時、ヤコブさんが自身の胸ポケットから懐中時計を取り出した。
「さて」
懐中時計をパカッと開いて使用人さんに目配せすると、ヤコブさんは私に向き直った。
「ネナ殿、私はこれにて失礼させていただきます。
何か困り事などありましたら、気軽に使用人に申しつけてくだされ」
「あっ……ありがとうございます」
ヤコブさんはにこっと微笑んで頷いた。
「では、失礼」
ヤコブさんは使用人さんと一緒に、右側の通路へと去って行った。
(望んでた……って、どういうことだろう)
小さくなっていく背中を眺めながら、ぼんやりと思った。
引き止めてまで聞くことではない。
何となく、気になっただけ。
機会があれば、その時に聞いてみればいい。
(……私も、行こう)
遠くを歩くヤコブさんに背を向けて、
今度こそ、訓練場へと歩きはじめた。
第六十四話
芽吹きの地-蠟梅に触れる- 完




