第六十二話:大蔓穂の氾濫
「……」
「……お姉ちゃん?」
「——!」
ハッと、肩を揺らした。
プルーヴィアに到着して四日目。
朝食を終えた私はラケルとふたり、静かな朝を過ごしていた。
私を呼ぶ声に振り向くと、横に座っているラケルが首を傾げて私の顔を覗き込んでいた。
「どうしたの……?」
尋ねると、
……スゥ。
ラケルの目は私の手元を映した。
「お姉ちゃん、ずっと同じところ見てたから……」
そう言われて、自分の手元を見た。
「あ……」
そこにあるのは、年季の入った一冊の本。
厚い表紙のその本は持つには重たくて、両端に手を添えて読み進めていた。……はずだった。
(目次……)
読み始めたのは、この場所——男爵邸の図書室に来てすぐのこと。
「……」
テーブルを優しく照らす温かな光。
その道筋をなぞるように、外へと目を向けた。
(ちょっとだけ、眩しい……)
太陽はレースのカーテン越しでも分かるほど強く輝いている。
(ほんの少しの間……じゃなさそう)
ゆっくりと、ラケルに顔を向けた。
「……ぼーっと、してたね」
この部屋に入ってすぐ目にした時には、太陽はまだ庭園の木々に隠れていて、ここまで眩しくはなかった。
ぼんやりしていた時間は、決して短くはないだろう。
「うん」
ラケルは小さく頷いた。
真っ直ぐに向けられた薄茶の瞳。
思わず、ふっと目を伏せた。
親指が、本の縁を撫でる。
(……)
気づけばぼんやりしてしまう理由。
それは——
この数日間、
透真と全く会えていないからだった。
(最後にちゃんと話したの……いつだろう)
まるで、意図的に避けられていると勘違いしそうなほど、透真との時間が合わない。
ご飯の時でさえ、透真はほとんどいない。
たまに来た時も透真は食事をする訳ではなく、エヴァンさんと少しだけ話をしてすぐに食堂を出ていく。
せめてどこかで話せる時間を……と、会う約束をするため、外にある訓練場に足を運んだ日もあった。
エヴァンさんからは透真もフィンと同じように、作法だけではなく魔法のことも教わっていると思っていた。
だけど、いざフィンたちがいる訓練場に着くと、そこに透真の姿はなかった。
居ても立っても居られず、エヴァンさんに透真のことを聞くと、
『トーマには別のことをしてもらってるんだよね〜。だから、暫く忙しいと思うよ』
そんなことを言われてしまった。
(……それに)
どこで何をしているのか。
それを言うことができない事情があるのか聞こうとしても、エヴァンさんにのらりくらりと躱されて聞くことはできなかった。
廊下ですれ違うこともない。
もしかして、男爵邸の外にいるのだろうか。
(心配、だなぁ……)
一緒にご飯を食べる時間さえ取れないほど忙しい透真。
男爵邸の中なら、何かあってもすぐに気づくことができる。
だけど、もし本当に外にいるのだとしたら——
「っ……」
カタン。
「お姉ちゃん?」
突然立ち上がった私を、ラケルが不思議そうに見上げた。
「なんだか、集中できなくて……。気分転換しようかなって」
小さく笑いかけて、パタンと本を閉じた。
外でも眺めようかと、椅子をしまって窓際へと向かおうとすると、
カタッ。
「?」
ラケルも腰を上げた。
ラケルはそのまま自分が読んでいた本を抱えて、本棚へと歩き出した。
(別の本を読むのかな?)
そう思ったけれど、ラケルは手に持っていた本をしまっただけだった。
新しい本を取ることなく戻ってきたラケルに首を傾げた。
「ラケル?」
「ルゥも気分転換」
ラケルはそう言うと、さっと私の手を握った。
「フィンのところ、いこう?」
ちらっと窓に視線を移して、もう一度私を見つめたラケル。
「……」
フィンは今ちょうど、外にある訓練場でエヴァンさんから魔法を教えてもらっている時間のはず。
(私が外に出たがっていること、感じたのかな)
外は外でも、私が気にしているのは男爵邸の外だった。
だけど、それでもラケルの気遣いに、胸の底から温かいものが込み上げた。
「……うん。フィンのところに行こう」
右手の温もりをそっと握り返すと、目の前の花が小さく綻んだ。
***
〔がんばれ、がんばれ、フィーンー!〕
〔ガンバレ、ガンバレ!〕
訓練場に近づくと、フィンを応援するミントとネロの声が聞こえてきた。
「そーっといこっか」
声を潜めて、隣を歩くラケルに話しかけた。
こくんと、ラケルは小さく頷いた。
〔いけいけ! フィンならもっといける!〕
〔フィン、モットデキル!〕
ふたりの声を聞きながら、こっそりと外壁の角から訓練場を覗き込む。
「ふぅううん!」
訓練場の中央には両拳を握るフィンと、その様子を見守るエヴァンさん。
そのエヴァンさんの肩に乗るネロと、空中に浮いているミントの姿があった。
フィンの周りを、紫色のもやが包み込んでいる。
(何の練習だろう……?)
両腕をいっぱいに伸ばしたほどに広がるもやは、拳ひとつ分くらいの差で大きくなったり小さくなったりを繰り返していた。
「力まないよ〜」
「ふぅん……」
フィンの肩の力が抜けた。
一瞬でもやが萎んで、フィンの体を薄くまとった。
「魔力の流れ、思い浮かべて」
「おなか、おなか……」
「そうそう。お腹から指の先、足の先、頭のてっぺんに流れていくイメージ」
「……」
フィンの髪がふわふわ揺れる。
口と目をきゅっと閉じて意識を集中させるフィンに、ミントとネロもただじっと見つめ続けた。
じわじわと、
ゆっくり、着実にもやは範囲を広げていく。
「はい、散らして」
「——!」
エヴァンさんの合図で、フィンは目を大きく開いた。瞬間——
シュワッ!
フィンの周りのもやが、宙で霧散した。
(!)
一瞬、もやが消える直前に薄い膜のようなものがきらりと光った。
そしてもやは、その膜に吸い込まれて消えていった。
「……できた?」
ぱちくりと瞬きをした後、フィンはエヴァンさんを見上げた。
エヴァンさんはにっこり笑って、アイボリーの頭にぽんっと手を乗せた。
「うんうん、いいね」
「!!」
フィンの顔がぱあっと咲いた。
〔さすがフィン!〕
〔フィン、スゴイ!〕
ふたりの声にフィンは交互に振り返って、自分の手を見つめた。
「〜〜っ!」
両手をぎゅっと握りしめて、バッと両腕を空に掲げた。
「できたーー!!」
くるくると回りはじめたフィン。
その周りを、ミントもうれしそうに飛び回る。
そのうちふたりは手を繋ぎ、一緒に喜びを分かち合っていた。
「今の感覚忘れないように。一回休憩した後、次はさらに広くやってみようか」
「うんっ!」
エヴァンさんの言葉に元気よく返事をしたフィンは、ぽてぽてと壁際にあるベンチへと向かって行った。
(今なら、大丈夫かな?)
ラケルと目を合わせて、建物の陰から体を出そうとしたとき。
「……!」
ふっと、エヴァンさんの視線が私たちを捉えた。
エヴァンさんは微笑んで、すぐにフィンへと視線を戻した。
そのまま、フィンの元へと歩きはじめる。
(私たちがいることに、気づいてた……?)
だけど、それをエヴァンさんからフィンに伝えるつもりはないらしい。
エヴァンさんはフィンに飲み物を渡して、フィンがごくごくと喉を潤す様子を見守っていた。
(どうしよう。行かない方がいい?)
エヴァンさんの考えていることが分からず迷っていると、
〔なーにしてんのよ〕
「!!」
突然耳元で聞こえた声に、体が飛び跳ねた。
咄嗟に振り向くと、呆れた顔のミントが腕を組んで浮いていた。
「お姉ちゃん?」
ラケルは急に勢いよく振り返った私を、不思議そうに見上げている。
(あ……ラケルには見えてないんだった)
危うく、ミントの名前を呼ぶところだった。
私は耳に髪をかけながら、ラケルに笑みを向けた。
「耳元がくすぐったかった気がして、驚いちゃった」
「虫いた?」
〔誰が虫だ!〕
ブオッ!
ミントの怒りで空気がうねり上がった。
スカートの裾が舞って、慌てて両手で押さえた。
「わ」
ラケルも風に煽られた髪とスカートを押さえている。
「む、虫じゃないよ。ぶーんって音はしなかったから。気のせいだったんだと思う」
〔ふんっ〕
否定したことでミントの気が少しおさまったらしい。
激しく巻き上がっていた風は止み、やがて心地よい自然の風がぼさぼさになった髪をひと撫でした。
「! ネナだ〜!」
「!」
今の騒ぎで気づかれてしまったようだ。
フィンがうれしそうに駆け寄って来ている。
(……今度からは、事前に聞いてから来よう)
今さら隠れることもできない。
私は大きく手を振るフィンに笑いかけながら、小さく手を振り返した。
ぽふんっ!
「ネナぼくねーっ、まほうのせいぎょ、できるようになってきたよ!」
「ふふっ。たくさん頑張ったんだね」
「うんっ!」
抱きついて、にこにこと私の顔を見上げるフィンの頭をそっと撫でた。
うれしそうに笑うフィンの目が、ちらっと横に逸れた。
「あっ、ルゥ!」
私の陰に隠れて見えていなかったようだ。
声をかけられたラケルは「訓練、見にきた」とだけ返した。
「そうなのっ?!」
フィンはぱあっと顔を輝かせて、ラケルに向けていた視線を私に戻した。
「うん、そうだよ」
頷くと、フィンはさらに頬を緩ませた。
そして私から体を離したと思ったら、
ぎゅっ!
「いまからやるから見てて!」
私とラケルの手を握って、エヴァンさんのいるベンチへと連れ出した。
「エヴァンさん、突然すみません」
「構わないよ〜。フィンも益々やる気出たみたいだし」
エヴァンさんの前まで来ると、フィンは私たちの手を離して訓練場の中央まで駆けて行った。
「ぼく、いっぱいくんれんする!」
両手を大きく空に伸ばして声高らかに意気込むフィンに、自然と笑みを浮かべた。
「君たちはここにいてね」
エヴァンさんは私とラケルにそう声をかけると、すぐにフィンの元へ向かった。
〔ネナチャ マッテテ〕
エヴァンさんの肩に乗るネロが、小さく手を振っている。
ラケルに気づかれないよう、そっと振り返した。
(そういえばミントは……?)
ふとミントの行方を捜すと、いつの間にかフィンの側に戻っていたようで、フィンの頭の上で8の字を描くように飛んでいた。
「それじゃあ、さっきと同じことしてみよっか」
ぶわっ!
エヴァンさんの声と同時に、ふたりを中心にして薄紫の魔力が広がった。
早速フィンが魔力を使ったのかと思ったけれど、そうではないようで、
「うんっ!」
フィンは元気よく返事をして、深く息を吸った。
(今のは……エヴァンさん? いったい何のために……?)
意図の分からない魔法に首を傾げながら、フィンが魔力を膨らませる様子を眺めた。
(……あ)
エヴァンさんが放った魔力。
その意味に気づいた瞬間、
「はい。散らす」
「!」
フィンはエヴァンさんの合図で、魔力を分散させた。
さっきと同じように。
だけど、さっきよりもすんなりと。
シュワッ!
エヴァンさんの魔力に当たって溶けた、フィンの魔力。
(受け止めてたんだ)
エヴァンさんの魔力は、フィンが放った魔力が周りに影響を与えないための対策だったのだと気づいた。
「できたできた!」
〔フィン、すごいすごい!〕
〔スゴイ! スゴイ!〕
手足をぱたぱたさせて、体を全部使ってよろこびを表現するフィン。
その周りをミントはくるくる飛び回り、ネロはエヴァンさんの肩の上をぴょんぴょん跳ねた。
「うん。ちゃんと覚えてたね」
「うん!」
フィンはエヴァンさんに褒められてにんまり笑うと、くるっとこちらを振り向いてすぐさま駆け寄ってきた。
「ネナ! ルゥ! みた? ぼくのまりょく!」
「うん、見てたよ」
「ルゥも見てた」
飛び込んできたフィンを受け止めて、ぎゅっと抱きしめた。
「あまりに上手だったから、びっくりしちゃった」
「えへへ〜」
フィンの頬は溶け落ちそうなほど綻んでいて、元々緩んでいた私の頬もさらに緩んだ。
ぐりぐりっ
フィンが頭を私の体に押し当てている。
「ふふっ」
ふわふわの頭に手を伸ばした。
髪を梳くように優しく撫でると、フィンは頭を押し付けるのをやめて、気持ちよさそうに目を細めた。
「どうやってやったの?」
ラケルがフィンの顔を覗き込んだ。
フィンは顔を輝かせると、私からぱっと体を離して自分のお腹に両手を当てた。
「あのねっ、まりょくがおなかにあってね、おなかからぐーっとお外にだしたの!」
うれしそうに説明してくれるフィンに、小さく相槌を打つ。
(だから「おなか、おなか」って唱えてたんだ)
ここに来て最初に見た時のことを思い出して腑に落ちた。
だけど、それは一瞬で、
(……あれ?)
——唱えてたのは、今日が初めてだった?
「お腹から出すのがむずかしい。だからすごい」
魔力がどこにあるのかは知っているけど、それを出すのが最初は難しいのだと、ラケルは付け加えた。
そんなラケルにフィンは、
「じゅんばんがだいじなんだって!
——トーマがいってた!」
得意げに、そう答えた。
「とう……まが……?」
どうして、透真が?
思いがけず出てきた透真の名前に、気づけば疑問を口に出していた。
フィンは大きく頷いて、私の問いに答えた。
「うん! おもちゃかってもらったとき、トーマがおしえてくれたの!」
"おもちゃかってもらったとき"
フィンにおもちゃを買ったのは、リベルタにいたときだけ。
そして今は、『おもちゃの使い方』の話をしているわけではない。
『魔力の使い方』の話だ。
どくんっ、どくんっ
何かが喉を這いずるような不快感。
ごくん、と掻き消すように唾を飲み込んだ。
(透真は、リベルタにいたときにはすでに……)
——魔力の使い方を知っていた。
「ネナ?」
「——!」
はっと、肩を揺らした。
ぼやけていた視界が形を取り戻す。
焦点が定まった先に見えたのは、心配そうに私を見上げるフィンとラケルの姿だった。
「あ……、ちょっとぼうっとしてた」
そう言って、笑ったつもりだった。
だけど、
「ネナ、だいじょうぶ?」
うまく、笑えていなかった。
「……心配かけてごめんね。少し眠くなってきちゃったみたい」
目をこする仕草をして、大袈裟なくらいの素振りで眠いのだと伝える。
「今日もマナーの授業があるから、それまでには元気いっぱいにしないとだね」
「ネナ……」
それでもフィンとラケルの表情はほどけなくて、
(やっぱり、演技はダメみたい)
情けない自分に、ふっとまつ毛が落ちた。
「……授業まで、部屋で休んでるね」
フィンの頭をそっと撫でて、みんなに背を向けた。
「あっ、ネナ!」
「フィン」
私を呼び止めるフィンを、エヴァンさんが制止した。
「っ……」
ピリッと、唇に痛みが走った。
フィンに対して申し訳ない気持ちと、引き止められなかった安堵。
知ってしまった透真の秘密と——
(待つって、決めたのに……!)
知りたいと思ってしまうことの、罪悪感。
——胸が、押し潰されてしまいそうだ。
胸の内に降り積もっていく花弁を散らすように、
自分の部屋へと駆けて行った。
第六十二話
芽吹きの地-大蔓穂の氾濫- 完




