第五十九話:雨の先の紅葉
「あれはバラ」
「これはセイル」
「この花はクレマチス」
楽しそうに教えてくれるラケルに、そっと笑みをこぼした。
庭園に植えられた植物たち。
よく知る名前の植物もあれば、初めて見聞きする植物もあった。
だけど、どれも共通して、
(きれい)
色とりどりに咲く花も、形を整えられた植え込みも——
どれもが、きれいだった。
(枯れ葉が、全然見当たらない)
時期的な関係もあるかもしれない。
それでも、素人の私から見ても丁寧な手入れが行き届いているのだと感じる庭園だった。
「こっちの花は、アルケミラ・モリス」
「!」
フィンが私の顔を見上げた。
「おじいちゃんといっしょ!」
きらきらと目を輝かせるフィンに、にこっと笑いかけた。
「いっしょ?」
「うん! おじいちゃんのおなまえ、モリス・シルヴァ!」
「それじゃあ、フィンはフィン・シルヴァ?」
「うんっ」
庭園を歩いている内に、ラケルはフィンとも普通に話すようになった。
ラケルが植物たちの話をするたびにフィンが反応するのがうれしかったようだ。
(なかよくなれてよかった)
しゃがみ込んで花を眺めるふたりの姿を、頬を緩ませ見守っていた。
〔ふん……〕
ミントが鼻を鳴らした。
ふよふよと宙に浮きながら、不満げな顔でふたりを見つめている。
さっきは、フィンに素っ気ない態度をとったラケルに怒っていたミント。
だから今の状況は、ミントにとってもうれしいだろうと思っていたけれど、
〔それ以上近づくんじゃないわよ小娘〕
仲が良すぎるのもダメらしい。
(フアナのときは、どうしてたんだろう)
ビエントにいた時は、まだミントの姿は見えていなかった。だけど——
あの戦いの日、ミントは確かに側にいた。
「……」
フアナは、今のラケルよりもさらにフィンと仲良くなっていた。
このミントの様子なら、怒って風を巻き起こしてもおかしくはない。
ましてや、フィンとフアナの最初の出会いは、とてもじゃないけど良いものではなかった。
(……気づかれないことが優先だった……?)
ウブラで姿を現した時まで、頑なに出てこなかったミント。
そもそも、どうしてミントは隠れていたのだろう。
じー。
〔な……何よ〕
ミントは眉を寄せて、自分の体を抱きしめた。
いつの間にか、じっと見つめていたらしい。
私は小さく首を振った。
ウブラでミントにフィンが尋ねた時は、隠れていた理由を教えてくれなかった。
だけど、フィンがいない時なら教えてくれるかもしれない。
『もうしないから怒らないでよ! あいつにも脅さっ……!!』
"あいつ"についても、機会があれば聞こうと思っていた。
その時が来たら、一緒に聞いてみよう。
「このおはなもはじめてみた!」
フィンが声を上げながら指を差した。
指先にあるのは、白い花。
形は椿の花に似ているけれど、花びらは椿ほど丸みを帯びていない。
(……星みたい)
正面から見ると、小さな花を星で覆っているようだった。
「……」
ラケルは何も言わない。
ただ静かに、その花を見つめている。
(どうしたんだろう……?)
さっきまではすぐ、花について教えてくれたのに。
「?」
フィンも不思議そうに首を傾げている。
「ルゥもはじめて?」
ラケルの顔を覗き込んだフィン。
一瞬だけラケルはフィンを見て、また花を見つめた。
「……ううん」
小さく首を振ったラケル。
知らない花、というわけではないらしい。
(それなら、どうして……?)
フィンと顔を見合わせて頭を傾げた。
ラケルの口元が、わずかに揺れた。
ぽつり。
「『スノウローズ』」
呟いた。
"スノウローズ"
それが、この花の名前なのだろう。
(バラの仲間なのかな?)
「へ〜! スノウローズっていうおはななんだ〜!」
フィンはラケルに向かってニコッと笑った。
「どんなおはななの?」
「……」
尋ねたフィンに、ラケルはまた口を閉ざした。
しばらくして、
「ママの、好きな花。
さむくても……がんばってきれいに咲くところが、好きなんだって」
ラケルは花を見つめたまま、そう答えた。
「そうなんだ〜!」
フィンはまじまじと花を見つめた。
(ラケルのお母さん……)
そういえば、まだ会えていない。
どんな人だろう。
ラケルのように、落ち着いた女性だろうか。
ふっと、屋敷を見た。
(あとで挨拶に行かなくちゃ)
しばらく泊まらせてもらうのだから、なるべく早い方がいいだろう。
「あっ、このおはなはなあに?」
フィンはまた新しい花を見つけたようだ。
しゃがんだままぴょんと横移動をして、花を指差した。そのとき——
ぴちゃっ。
「!」
頬に当たった冷たい感触に、反射的に空を見上げた。
ポツ……ポツ、ポツ
——灰色の雲が覆う空から、雨が降り出した。
「あめだ〜」
フィンは空を見ながら、両手を上に向けた。
(傘……!)
慌てて傘を出した。
バッ!
布を張る乾いた音。
ラケルがぴくりと肩を揺らして振り向いた。
「え?」
目を丸くして傘を見つめるラケル。
そんなラケルに、傘を差した。
「フィンもおいで」
「うん」
フィンはぱたぱたと駆け寄って、ちょこんと私の前に立った。
タッタッタッ
「?」
フィンの足は止まっているのに、駆ける音が聞こえる。
どんどん近づいてくる音に振り返ると、傘とタオルを持ったメイドさんが駆けてきていた。
「お嬢様、こちらへ。
フィン様、こちらお使いになられますか?」
側まで来たメイドさんが、ラケルを自身の傘の中に呼び、フィンには小ぶりな傘を差し出した。
「はい!」
フィンは元気よく返事をした後、お礼を言いながら受け取った。
ふっと、私の顔を見上げたフィン。
「ネナとおそろい!」
「ふふ、そうだね」
フィンはにんまり笑って、両手で持った傘を眺めた。
どうやら開き方が分からないらしい。
「ここを押しながらね、ぐいーんと上に引っ張ると開くよ」
「! ぐいーん」
ゆっくりと開いていく傘。
カチッと音が鳴って、フィンに手を離すよう声をかけた。
「ひらいた!」
ピチャッ、チャッ
フィンは私の傘の中から、本降りの雨で濡れた地面へと飛び出した。
傘を差して、くるくると楽しそうに走り回っている。
(今度、一緒にフィン用の傘を買いに行こうかな)
フィンの雨具は、モリスさんから雨合羽のような羽織り物を預かっている。
けれど、こんなにうれしそうなフィンの姿を見たら、一本くらいは傘があってもいいのかもしれないと、そっと微笑んだ。
「……お姉ちゃん」
メイドさんの傘の元へと移ったラケルが声をかけた。
「どうしたの?」
「その傘、どこから出てきたの?」
ラケルは不思議そうに私の傘を見つめている。
(あっ)
突然現れたのだ。
ラケルが不思議に思うのも無理はない。
「急に出てきてびっくりしたよね。この傘は、普段は腕輪になってるの。こんな感じに……」
「あ」
バチャバチャバチャバチャ
傘を腕輪に戻した瞬間、全身にたくさんの雨が降り注いだ。
「!」
慌てて傘に戻して差した。
何のために差していたのか、一瞬だけ忘れてしまった。
「ネナ様、タオルをどうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
メイドさんからタオルを受け取って、顔を隠した。
(恥ずかしい……)
駆け回っていたフィンが、こちらを振り返ってきょとんと首を傾げた。
「ネナ、どーしてびちょびちょなの?」
私たちのところに戻ってくると、ひょいっと私の傘を下から覗き込んだ。
「? あな、あいてないね〜」
「そ……そうだね」
「??」
フィンはさらに首を傾げた。
まんまるの瞳が、私を見つめている。
「その……間違って、閉じちゃったの……」
説明しながら堪らず、タオルで目を覆った。
(本当に恥ずかしい……)
顔が火照っている。
どうしてあんなに間抜けなことをしてしまったのだろう。
タオルは、外せそうにない。
(……?)
フィンは何も言わない。
あまりにおかしくて、びっくりしてるのかもしれない。
そぉー……
タオルを少しだけずらした。瞬間、
ビチャッ!
「!? フィ、フィン!?」
フィンは傘を下ろして、雨の下に飛び出した。
叫びにも近い呼びかけに、フィンはくるりと振り返った。
「ぼくもびちょびちょ! つめたくてきもちーね!」
フィンは笑って、両手を上げた。
「フィン……」
大きく見開いていた目は、次第に和らいでいった。
はしゃぐフィンは本当に楽しそうで、これっぽっちも慰めているつもりはないのだろう。
それでも、太陽みたいな笑顔に、胸のざわめきは薄く溶けていった。
「……」
「お嬢様?」
ラケルを呼ぶメイドさんの声。
反射的に振り向こうとしたとき、
——タッ!
ラケルが、フィンの元へと駆け出した。
「!?」
「お、お嬢様!」
瞬く間にびしょ濡れになったラケル。
ふんわりとした髪はぺたんこになって、服も重みを増している。
「ルゥ?」
駆けていたフィンはぴたりと足を止めた。
首を傾げてラケルを見つめるフィン。
ラケルはそんなフィンの隣に並んで、両手を空高く伸ばした。
「ルゥもびちょびちょ。
——おそろい」
ラケルは小さな口を、わずかに上げた。
「! おそろい!」
フィンもまた、手を上げた。
傘を持つ手はそのまま。
「お嬢様、お風邪を召してしまいます」
メイドさんが慌ててラケルに駆け寄る。
ラケルはメイドさんから逃げるように走り出し、フィンも楽しそうにその後を追っている。
「……」
私はその様子を、ただ眺めていた。
*
ザァー
『ぐすっ……ふうぅっ……』
大雨が降っていたその日、
私は施設にある縁側に座って泣いていた。
『ねな、また真美子につめたくされたの?』
『ううっ……みないで!』
『ゔ……』
この頃はまだ透真と仲良くなりはじめたばかりで、透真が慰めようと話しかけてくれたのにもかかわらず、私は冷たく突き放してしまった。
『……あっ』
透真が中庭を見て声を漏らした。
だけど私はそれどころではなくて、溢れる涙を拭っては嗚咽を漏らした。
『ねな!』
『やぁ……!』
透真の呼びかけに大きく首を振った。
今はただ放っておいてほしい。
それだけだった。だけど、
『みるだけでいいから!』
透真は声高らかにそう言って——
『ひっく……? とうま?!』
ガラガラガラッ——タッ!!
窓を開けて、大雨の中へと飛び込んだ。
透真はバッと振り向いた。
『これでおそろいだ!』
両方の目元を指して、にかっと笑う透真。
私はその姿を、ぽかんと見つめていた。
勝手に窓を開けて、靴も履かずに雨が降る外へと出た透真。
そんなことをしたら、先生に怒られてしまうのに。
きゅっと、口を結んだ。
少し間が空いて、
『……そんなに泣いてないもん』
そう言いながら、立ち上がった。
透真は誰が見ても分かるほど、大きく肩を落とした。
『ごめん、ねな……』
透真はしゅんと落ち込みながらも謝った。
だけど、次の瞬間——
ぴちゃっ!
『えっ?!』
地面に降りた私に、これでもかと言うほど目を大きく見開いた。
ずぶ濡れの透真に、ゆっくりと近づいた。
『音凪ちゃん?! 透真くんも?!』
後ろから聞こえたハケンの先生の声。
透真は戸惑った様子で、私と室内を交互に見ていた。
『……とうま』
『え?』
瞬間、
私は透真の手を取って、大きく地面を蹴った。
ピチャッ!!
冷たい雨粒が強く体を打ちつける。
体は冷えていくのに、繋いだ手と胸の中はぽかぽかと温かい。
『ね、ねな?』
目を丸くする透真に、そっと笑った。
『——』
*
「お嬢様! 止まってくださいませ!」
「ぬれたい気分」
「びっしょびしょー!」
走り回る三人を眺めながら、静かに傘を下ろした。
傘は指先を撫で、腕輪へと姿を変えていく。
頭の先から指の先へ。
背中から足へと雨が染みていく。
「あ」
ラケルが振り向いた。
私は一歩、三人の元へと歩き出した。
「?」
フィンがラケルの視線を追う。
私を見たフィンの耳が大きく揺れた。
「ネナ!」
駆け寄るフィンの体を、しゃがんで受け止めた。
濡れてひんやりとした服の向こうから伝わる人の体温に、口元が緩む。
「お姉ちゃん」
メイドさんと一緒に側に来たラケルを見上げた。
額や頬に張り付いたラケルの髪。
私はそっと、雨を含んだ自分の髪を耳にかけた。
「『お揃いだね』」
まつ毛が雨粒を弾く先、
ラケルが大きく目を見開いた。
だけど、それは一瞬で——
「……うん、おそろい」
雫が落ちた後には、
小さな花が綻んでいた。
第五十九話
芽吹きの地-雨の先の紅葉- 完




