②帝都雛鳥通学録 また明日
学院へ通い始めて、二週間ほどが経った。
最初のころは、朝になるたびに制服の肩布がずれていないか、胸元のスカーフが曲がっていないか、翼の付け根へ布が触れていないかを何度も確かめていたロザリーも、今では鏡を見る回数がずいぶん減った。白いシャツへ腕を通し、濃紺の上着を肩へ掛けて前を留め、翼を一度だけ軽く開いて布の収まりを確かめれば、それで終わる。
帽子を被り、学院章の向きを指先で直す。
「よし」
鞄を持って振り返ると、少し離れたところからミドラーシュがこちらを見ていた。
「どうです?」
白い翼の少女は、ロザリーを上から下まで眺めてから、こくりと頷く。
「今日は親指二本じゃないんですね」
ミドラーシュは少し考え、右手の親指だけを立てた。
「昨日より評価が下がってません?」
首を横に振る。
「じゃあ、いつも通り?」
こくり。
「なるほど」
それも悪くない。
毎朝制服を着るたびに大絶賛されるというのも、きっと落ち着かない。
ロザリーは鞄を肩へ掛け、玄関へ向かった。
「行ってきます」
ミドラーシュもついてくる。とはいえ、もう最初の日のように家の外まで見送るわけではなく、玄関口までだった。
ロザリーが靴を履いているあいだ、ミドラーシュは壁にもたれて待っている。
「今日は少し遅くなるかもしれません」
白い翼がわずかに動いた。
「読み書きの補習があります。私だけじゃないですよ。何人か一緒です」
こくり。
「夕食までには帰りますから」
また頷く。
それからミドラーシュは、片手を上げた。
もう見慣れたハンドサインだった。
行ってこい。
「はい」
ロザリーは笑う。
「行ってきます」
扉を開けると、朝の帝都がそこにあった。
荷車の車輪が石畳を鳴らし、パン屋の煙突から白い煙が上がっている。道の向こうでは制服姿の子どもたちが何人か連れ立って歩いており、そのうちの一人がロザリーに気づいて手を上げた。
「ロザリー!」
「おはようございます」
「早く行こう! 今日、一時間目から算術だよ!」
「知ってますよ」
「宿題やった?」
「…………」
ロザリーの足が止まった。
「宿題?」
「あるよ」
「聞いてません」
「先生、昨日言ってた」
「いつです?」
「最後の鐘の前」
「そのとき私は先生に呼ばれてましたよ!」
「あ」
「『あ』じゃないです!」
少年が笑いながら走っていく。
「先行くよ!」
「ちょっと待ってください! 何頁ですか!」
ロザリーも小走りになった。
翼が少し揺れる。
通学路を走るのは危ない、と児童教育科の官吏に言われたことを思い出し、途中で歩調を戻した。
「……あとで怒られるの、私なんですからね」
誰に言うでもなく呟く。
学院へ着けば、もう特別なことはなかった。
門番へ挨拶し、玄関を通り、廊下を歩く。角ですれ違う子がいればどちらかが少し避け、ロザリーも翼を身体へ寄せる。
「おはよう」
「おはようございます」
「今日雨降るかな」
「どうでしょう」
「雷は?」
「知りません!」
「羽根見たかったのに」
「見せ物じゃありません!」
そんな会話をしながら教室へ入る。
自分の席には、背もたれのない椅子がある。
机の後ろは少し広い。
窓側には、先日の雷以来、さらに半歩ほど余裕が取られるようになった。
最初のうちはその空間を見るたびに、自分だけ違うことを意識した。
今ではそこへ鞄を置き、当たり前のように座る。
「ロザリー」
隣から声がした。
アルノーだった。
「はい?」
「宿題」
「あなたも言うんですか」
「やった?」
「存在を今知りました」
「じゃあ朝のうちにやれば」
「見せてください」
「答え?」
「問題です!」
「ならいいよ」
アルノーが帳面を開き、該当する頁を指で示す。
ロザリーは急いで自分の帳面へ書き写した。
「これ、全部ですか?」
「五問」
「多い……」
「昨日の続きだから簡単」
「あなたの簡単と私の簡単は違います」
「一問目は?」
ロザリーが式を見る。
「……四十?」
「違う」
「ほら!」
「三十八」
「なんでです?」
アルノーが説明しようとしたところで、教壇から声が飛んだ。
「朝から元気ですね」
二人が揃って顔を上げる。
教師が立っていた。
「宿題は?」
「今やっています」
「それは宿題ではなく、登校後の課題ですね」
「…………はい」
「ロザリーさん」
「はい」
「次回からは前日に確認してください」
「はい……」
教師はそれ以上叱らず、教壇へ教材を置いた。
アルノーが小声で言う。
「三十八」
「覚えてます」
「二問目は」
「自分でやります」
「そう」
「でも間違えたら教えてください」
「うん」
授業が始まった。
算術。
読み書き。
歴史。
昼にはパンと煮込みを食べ、休み時間には中庭へ出た。
布球を投げ合う遊びは、いつの間にかロザリーも普通に混じるようになっていた。
「そっち!」
「はい!」
高く投げられた球へ手を伸ばす。
少し届かない。
翼を開きかける。
「羽根使った!」
「まだ使ってません!」
「今動いた!」
「動いただけです!」
「じゃあ有効!」
「何が有効なんですか!」
結局、球は取れなかった。
「ほら、羽根あっても取れてないじゃん」
「うるさいですよ!」
笑い声が中庭に広がった。
昼休みが終わり、午後の授業も終わる。
最後に残ったのは、読み書きの補習だった。
復興学級では珍しいことではない。
戦争や避難生活で教育を受けられなかった期間は、子どもによって違う。年齢が上だから字が上手いとも限らないし、小さいから計算ができないとも限らない。
教師はそれぞれに違う文章を渡した。
「ロザリーさんは、今日はこれを書き写してください」
「はい」
紙を見る。
短い物語だった。
畑へ種を蒔いた少年が、毎朝水をやりながら芽が出るのを待つ話。
ロザリーは一文字ずつ帳面へ写していった。
以前より、筆が止まらなくなっている。
「ここ」
教師が横から指を差す。
「少し詰まりすぎています。文字と文字の間を、もう少し空けて」
「はい」
「でも、ずいぶん読みやすくなりましたね」
ロザリーの手が止まった。
「本当ですか?」
「ええ。最初の日の帳面と比べれば、よく分かります」
「……ありがとうございます」
「続けてください」
「はい」
また筆を動かす。
嬉しい。
そんな単純な気持ちが胸へ浮かんだ。
誰かの役に立ったから褒められたわけでもない。
子どもの面倒を見たからでも、食事を用意したからでもない。
字が少し上手くなった。
ただ、それだけだった。
それだけなのに、妙に嬉しかった。
補習を終えるころには、校舎の外へ夕方の色が差し始めていた。
「今日はここまでです」
教師が言う。
「続きは明日」
「はい」
帳面を閉じる。
鞄へしまい、制服の肩布を軽く整える。
「ロザリー!」
廊下から声がした。
アルノーが待っている。
「先に帰ったんじゃなかったんですか?」
「途中まで一緒だろ」
「そうですけど」
「早く」
「はいはい」
二人で廊下を歩く。
途中でほかの子どもたちとも合流し、門を出るころには五人ほどになっていた。
「明日の昼、また中庭行く?」
「行きます」
「布球?」
「別のやつやろうよ」
「何する?」
「走るやつ」
「ロザリー有利じゃん」
「だから飛べませんって!」
「羽根で曲がるの速いじゃん」
「それは身体についてるんだから仕方ないでしょう!」
「じゃあ俺、腕一本だから軽いぶん速いかも」
アルノーが言った。
全員が少し止まる。
ロザリーもアルノーを見る。
本人は真顔だった。
「……それは、どうなんです?」
「知らない」
「じゃあ明日走れば分かる!」
「よし!」
それで話は終わった。
門から少し行った交差点で、それぞれの帰り道が分かれる。
「じゃあロザリー、また明日」
「また明日!」
「宿題忘れないでね!」
「もう忘れません!」
「今日のも忘れてたじゃん!」
「今日は知らなかったんです!」
笑いながら手を振る。
「はい。また明日」
ロザリーも手を振り返した。
その言葉を口にすることには、もうほとんど抵抗がなかった。
学院から家へ向かう途中、小さなパン屋の前で足を止めた。
焼きたての甘い匂いが、通りまで流れている。
窓辺には、小さな焼き菓子が籠に並べられていた。
「いらっしゃい」
店番の女性が顔を上げる。
ロザリーを見る。
「学院帰り?」
「……はい」
何でもない問いだった。
それなのに、ロザリーは一瞬だけ返事が遅れた。
「そうです。学院帰りです」
「今日は焼き菓子が少し残ってるよ。果実入り」
「じゃあ……二つください」
「二つね」
一つは自分。
もう一つは、ミドラーシュ。
紙に包んでもらい、代金を払う。
「勉強頑張ってね」
「はい。ありがとうございます」
店を出る。
胸元の学院章が、夕方の光を少しだけ反射した。
家へ戻るころには、空はもう橙色に染まっていた。
「ただいま」
扉を開ける。
中にいたミドラーシュが顔を上げた。
白い翼の先が少し動く。
片手が上がる。
おかえり。
「はい」
ロザリーは靴を脱ぎ、鞄を置いた。
それから制服の前を外す。
胸元のスカーフを解き、上着を肩から抜く。背中側の布は翼に引っ掛かることなく、そのまま外れた。
もう、どこをどう外せばいいか考える必要もない。
最初の日、大人が何人も囲んで、硬いだの重いだの、羽根へ当たるだのと騒いでいた服が、今ではただの制服になっている。
「ふう」
上着を所定の場所へ掛けた。
ミドラーシュが、こちらへ手を向ける。
どうだった?
「今日はですね」
ロザリーは椅子へ腰掛けた。
「朝から宿題があることを知りました」
ミドラーシュが首を傾げる。
「私、聞いてなかったんです」
片眉がわずかに上がる。
「本当ですよ」
じっと見られる。
「……たぶん」
ミドラーシュの肩が少し揺れた。
「笑いましたね?」
首を横に振る。
「笑いましたよね?」
また横に振る。
「まあいいです。それで、算術をやって、読み書きもして」
ロザリーは紙包みを取り出した。
「帰りにこれを買いました」
ミドラーシュの目が少し明るくなる。
「果実入りの焼き菓子です。一つずつ」
包みを開く。
小さな焼き菓子を一つ渡す。
ミドラーシュが受け取り、両手で持った。
ひと口。
白い翼が少しだけ膨らむ。
「おいしいです?」
こくこく。
「よかった」
ロザリーも齧る。
甘い。
生地の中に、少し酸味のある果実が入っている。
「そういえば、先生に字が上手くなったって言われました」
ミドラーシュが顔を上げる。
「本当です」
胸を張る。
「最初より、ずいぶん読みやすいって」
親指が立った。
「今日は二本でもいいんじゃないですか?」
少し考える。
二本立った。
「ありがとうございます」
二人で笑う。
しばらく、焼き菓子を食べる時間が続いた。
窓の外では、帝都の夕方が少しずつ夜へ変わっていく。
通りを行く荷車の音が減り、家々から夕食の匂いが漂い始める。
ミドラーシュが残り少なくなった焼き菓子を見ながら、ふと手を動かした。
明日も行く?
「はい」
ロザリーはすぐに答えた。
「明日も行きます」
ミドラーシュが頷く。
「明後日も、その次も。休みの日じゃなければ」
また頷く。
ロザリーは焼き菓子を一口食べた。
少し考える。
「……寂しくないですか?」
ミドラーシュの手が止まった。
しばらく考えてから、ゆっくり動く。
寂しい。
ロザリーも少しだけ黙った。
「ですよね」
以前は、ほとんどいつも一緒だった。
朝も。
昼も。
夜も。
誰かの世話をするときも、食事をするときも、寝る前も。
学院へ通い始めてから、ロザリーだけが毎朝家を出るようになった。
ミドラーシュの手が、もう一度動いた。
でも。
行ってほしい。
「…………」
ロザリーはその手を見る。
「どうしてです?」
少し迷う。
そして。
楽しい?
「学院が?」
こくり。
「……はい」
ロザリーは素直に答えた。
「楽しいです」
算術は難しい。
宿題もある。
字は何度も書き直される。
人に見られることもあるし、翼が邪魔になることもある。
雷で隣の子を羽根に埋めたこともある。
それでも。
「楽しいですよ」
ミドラーシュは頷いた。
なら。
行け。
ずいぶん簡単な答えだった。
ロザリーは少し笑う。
「……そうですね」
焼き菓子の最後の一口を食べる。
「じゃあ、行きます」
ミドラーシュも最後の一欠片を口へ入れた。
その夜、ロザリーは翌日の教本を確認した。
算術。
読み書き。
それから歴史。
宿題もちゃんとやった。
翌朝。
白いシャツを着る。
濃紺の上着を肩へ掛ける。
胸元のスカーフを結び、帽子を被る。
黒い翼を一度だけ開く。
布は引っ掛からない。
「よし」
鞄を持つ。
「行ってきます」
ミドラーシュが手を上げる。
行ってらっしゃい。
ロザリーは扉を開けた。
外には、昨日とよく似た帝都の朝があった。
学院へ着く。
門を通る。
廊下を歩く。
教室の扉を開ける。
「おはよう、ロザリー!」
「おはようございます」
「宿題やった?」
「今日はやりました!」
「見せて!」
「答えは見せませんよ!」
「問題だけ!」
「昨日書いたでしょう!」
「そこ、朝から騒がない」
教師の声が飛ぶ。
「「はい」」
ロザリーは笑いながら、自分の席へ向かった。
背もたれのない椅子へ座り、帳面を開く。
黒い翼を畳む。
鐘が鳴った。
いつもの一日が始まる。
そして、その日の放課後も。
「じゃあね、ロザリー」
「また明日!」
ロザリーは鞄を持ち、笑って手を振った。
「はい。また明日」




