③帝都浴場物語
帝都に来て、四日目の夜だった。
西部方面軍から持ち込んだ報告書を中央参謀本部へ提出し、補給計画の修正案に目を通し、山岳旅団の冬季装備について軍需担当とひと悶着して、最後に軍大学の教官から「山岳戦における日鴉猟兵の運用について」などという長い質問を浴びせられた。
准将というのは、どうにも忙しい。
「……ま、終わったからいいけどねえ」
帝都の軍人宿舎、その一室。フレイヤ・シルヴァレイトは椅子の背に身体を預け、煙草の煙を細く吐いた。
明日の朝には、西部へ戻る。
持ってきた仕事は片づいた。必要な書類も受け取った。ミドラーシュとロザリーには、帝都で買った焼き菓子も渡してある。自分の土産といえば煙草を少し買い足したくらいで、荷物もすでにまとめてあった。
夕食も済ませた。
となれば、今夜残っている仕事はもうない。
「風呂入って、寝るだけだね」
口にすると、それだけで肩から力が抜けた。
短くなった煙草を灰皿へ押しつけ、フレイヤは背中の翼へ手を伸ばす。毎日の羽繕いは欠かしていない。指を通し、乱れた羽枝を直し、埃を払い、自前の油脂だけでは足りないところには山から持ってきた羽根油を薄く馴染ませている。
だが、さすがに四日も帝都を歩き回れば、それだけでは済まなくなる。
指先を羽根の根元へ滑らせる。表面は綺麗でも、古い油に細かな埃が絡み、ところどころ重さが出ていた。煙草の煙も、街の煤も、軍務でかいた汗もある。
「……そろそろ一回、落としたほうがいいねえ」
宿舎で桶を借りても身体くらいは洗えるが、翼までとなると話が違う。大量の湯が要るし、何より狭い部屋でやる仕事ではない。
フレイヤは立ち上がり、着替えをまとめた。そこへ羽根を梳く櫛、小瓶に入れた羽根洗い用の液、それから淡い黄色の羽根油を加える。
人間族なら、風呂へ行くだけでずいぶん身軽なのだろう。
「こっちは身体が一枚多いようなもんだからね」
誰に聞かせるでもなく呟き、財布を腰へ吊るす。
宿舎の受付で近場の浴場を尋ねると、番をしていた老兵は慣れた調子で道を教えてくれた。
「表通りを二本先です。パン屋の角を左へ曲がれば、湯気が見えますよ」
「まだ開いてるかい?」
「この時間なら大丈夫でしょう。明日は西部へ?」
「朝一番でね」
「では、ごゆっくり」
「そうさせてもらうよ」
夜の帝都は、昼間とは少し違う顔をしていた。商店の戸板はほとんど閉まり、代わりに食堂や酒場から灯りと笑い声が漏れている。仕事を終えた職人や文官が家路を急ぎ、路地の向こうではパン屋が明朝の仕込みを始めていた。
その中をしばらく歩くと、石造りの建物の屋根から白い湯気が上がっているのが見えた。
入口脇の灯りの下には、簡素な文字で浴場の名と料金が書かれている。その下には男湯と女湯、それぞれの入口を示す札。
「ここか」
暖簾をくぐると、湿った暖気と石鹸の匂いが鼻先を撫でた。奥からは湯を汲む音と、女たちの話し声が聞こえてくる。
受付に座っていた恰幅のいい女が顔を上げた。
「いらっしゃい」
「ああ。一人ね」
フレイヤが銅貨を置く。
女は銅貨を受け取り、それからフレイヤの背中へ視線をやった。
黒い翼。
ほんの一瞬だけ、目が止まる。
フレイヤは片眉を上げた。
「……翼があるけど、入っていいかい?」
女はきょとんとして、それから鼻を鳴らした。
「風呂入りに来たんだろ?」
「まあね」
「じゃあ女湯はそっちだよ。床、濡れてるから滑らないようにね」
「……そりゃどうも」
あまりにも普通に返されて、フレイヤは小さく笑った。
荷物を抱え直し、女湯の暖簾をくぐる。
さて。
人間族のために作られた風呂で、この翼をどう洗ったものか。
女湯の脱衣所には、まだ何人か客が残っていた。
髪を布で拭いている中年の女。仕事帰りらしい簡素な服を脱いでいる若い女。壁際では、腕の太い職人風の女が、連れと明日の仕事について話している。
夕食を終えてから来たのだろう。誰も急いではいないが、いつまでも長居するほど暇でもない。帝都の一日を終えた人間たちが、寝る前に身体を整えに来ている。そんな空気だった。
フレイヤが入ると、何人かの視線がこちらへ向いた。
まず、背中に畳まれた黒い翼へ。
それから、フレイヤが脱いで籠へ収めていく帝国軍の制服へ。
青と銀を基調とした軍服。その上に外した階級章や徽章を重ねると、一人の女がほんの少し眉を上げた。何を意味するものなのかまでは知らないらしい。ただ、ずいぶん飾りの多い軍服だとは思ったのだろう。
それだけだった。
すぐに髪を拭く手は動き出し、途切れていた会話も再開する。
「……まあ、そんなもんか」
フレイヤは小さく笑い、着替えと羽根の手入れ道具だけを持って浴室へ向かった。
扉を開けると、湿った熱気が顔にまとわりつく。
石造りの床と壁。奥には数人が一度に入れる浴槽があり、その手前には低い腰掛けと木桶が並んでいた。壁際には湯と水、それぞれを溜めた大きな槽が据えられ、客たちはそこから桶へ汲み、好みの温度にして使っている。
広くはない。
人間族が身体を洗うぶんには、何の問題もない広さなのだろう。
フレイヤは空いていた端の洗い場へ腰を下ろし、背中を振り返った。
「……さて」
翼を少し開く。
ばさり、と湿った空気が動いた。
片方だけでも、真っすぐ伸ばせばフレイヤ自身の背丈よりはるかに大きい。完全に広げれば、洗い場をいくつ使っても足りない。
「そりゃ無理だねえ」
すぐに畳む。
最初から全部広げるつもりなどなかったが、やはり人間用の風呂は人間用だった。
端に陣取ったのは正解らしい。壁側へ身体を寄せ、片翼だけを斜め前へ伸ばせば、どうにか洗えるだけの場所は取れそうだった。
隣で身体を洗っていた中年の女が、その様子を見て腰を浮かせる。
「もう少しこっち空けようか?」
「いや、いいよ。片方ずつやるから」
「そうかい」
「助かるよ」
女は腰掛けを少し横へずらした。それだけで、フレイヤには十分だった。
まず身体を洗う。
浴場に置かれている固形石鹸を泡立て、首筋から肩、腕、脚へと手早く滑らせる。ここまでは人間族と大して変わらない。
問題は、そのあとだ。
持ってきた小瓶を開ける。
中身は日鴉族が羽根の手入れに使う洗い液だった。人間族の石鹸ほど強く油を落とさず、古くなった羽根油や、それに絡んだ汚れを浮かせるためのものだ。
桶へ湯を汲み、水を足す。
指先を沈めて温度を確かめ、さらに水を加えた。
「……こんなもんだね」
人間族が身体を温めるには少しぬるいくらい。
フレイヤは身体を壁側へ向け、片方の翼をゆっくり開いた。
濡れた石床の上へ黒い羽根が長く伸びる。
根元から湯を掛けると、羽根は水を含み、普段より細くまとまった。指先で羽根を分けながら洗い液を馴染ませていくと、古い油と一緒に灰色がかった汚れがじわりと浮いてくる。
帝都の埃。煤。軍務でかいた汗。それに煙草の煙。
「思ったより溜まってたねえ」
毎日の羽繕いは欠かしていない。乱れを直し、表面の埃を払い、自前の油脂と羽根油を薄く馴染ませる。それでも何日か経てば、根元や重なった部分には汚れが残る。
羽根を一枚ずつ分け、指でなぞる。
羽枝を整えながら湯を掛け、また次へ。
大きな翼ではあるが、手順そのものはいつものことだった。
向かいで髪を洗っていた若い女が、しばらくこちらを見たあと、尋ねる。
「それ、石鹸じゃないんですか?」
「ああ。羽根用さ」
「普通の石鹸じゃ駄目なんです?」
「使えなくはないけどね。油が落ちすぎるんだよ。羽根ってのは、多少油が乗ってないと困るのさ」
「へえ……」
女は感心したように頷くと、自分の髪へ戻った。
フレイヤもまた作業へ戻る。
一枚。
二枚。
翼の内側へ指を入れ、湯を掛ける。
何度目かに流したところで、小さな黒い羽毛が一枚、床を滑っていった。
そのまま排水口へ吸い込まれるかと思ったが、手前で止まる。
「ん?」
見ると、石造りの排水口の上に、妙に目の細かい金網が載せられていた。
もともとの設備ではないらしい。排水口の形に合わせて切って置いただけのようで、縁も少し歪んでいる。
そこへフレイヤの抜け羽根が引っかかっていた。
「……なんだい、あれ」
先ほど場所を譲ってくれた女が、肩へ湯を掛けながら答えた。
「ああ、羽根取りだよ」
「羽根取り?」
「最近、日鴉の人も何人か来るようになっただろ。羽根が流れて排水が詰まったんだってさ」
フレイヤは金網を見る。
確かに羽根は止まっている。
ついでに髪の毛や糸くずまで、きっちり引っかかっていた。
「それ付けてから便利なんだよ」
別の女が口を挟む。
「髪の毛も取れるしね。この前なんか、子供が身体拭く布を落としたのまで止まったんだから」
「そりゃ羽根より大物じゃないか」
「だろ?」
浴室に小さな笑い声が広がった。
フレイヤは自分の抜け羽根を網から拾い上げ、近くの屑入れへ放り込む。
「……網一枚で済むなら、安いもんだね」
「風呂屋のおばちゃんも同じこと言ってたよ」
「気が合いそうだ」
片翼を洗い終える。
水気を軽く切って畳み、今度は身体の向きを変えた。
「さて、もう片方だ」
反対側の翼を開く。
また、ばさりと湿った空気が動いた。
人間族なら、とっくに身体を洗い終えて浴槽へ向かっている頃だろう。
フレイヤは苦笑しながら、二枚目の翼へ湯を掛けた。
「まったく。風呂に入る前から一仕事だねえ」
それでも指先は慣れたものだった。
根元から羽先へ。
古い油を落とし、汚れを流し、乱れを直す。
明日は山へ帰る。
なら、その前にきっちり整えておくのも悪くない。
◆
両方の翼を洗い終える頃には、指先まで少しふやけていた。
フレイヤは最後の桶を翼へ掛け、流れ落ちる湯がほとんど澄んでいるのを確かめる。古い油も、帝都四日分の埃も、これでだいたい落ちた。
「よし」
翼を何度か軽く震わせる。
ばさ、ばさ、と黒い羽根から水滴が飛び、すぐ隣から声が飛んできた。
「ちょっと、こっちまで飛んできたよ」
「ああ、悪い悪い」
「鳥みたいだねえ」
「鳥みたいなもんさ」
笑いながら翼を畳み、フレイヤはようやく浴槽へ目を向けた。
ここまで来て、まだ湯船に入っていない。
「長いねえ、あんたの風呂は」
先ほど場所を譲ってくれた女が、浴槽の縁に腕を載せながら言った。
「こっちだって好きで長くしてるわけじゃないよ」
「じゃあ、やっと入れるね」
「そういうこと」
掛け湯をしてから、浴槽の縁へ足を掛ける。
まず片足。
次にもう片方。
「……熱っ」
「これで?」
「帝国人は煮えるつもりかい」
浴槽の女たちが笑った。
「今日はそんなに熱くないよ」
「十分熱いっての」
とはいえ、入れないほどではない。
身体を慣らしながら、フレイヤはゆっくり腰を沈めた。
湯が腹を越え、胸元まで上がる。
問題は翼だった。
きつく畳んだまま背中を浴槽の縁へ預けることはできない。少し身体を前へずらし、左右の翼を脇へ逃がすように畳み直す。
黒い羽根の一部が湯面へ浮かんだ。
「……まあ、こうなるか」
隣の女が、湯面に浮かぶ翼を見た。
「沈まないんだね」
「沈めようと思えば沈むけど、あとが面倒なのさ。せっかく洗ったのに、湯をたっぷり吸わせることもないだろ」
「なるほどねえ」
フレイヤは浴槽の縁へ腕を載せた。
熱い。
だが、悪くない。
四日間、会議室と庁舎と軍施設を歩き回り続けた脚から、じわじわと力が抜けていく。肩も軽い。翼の付け根まで温まってくると、自分でも気づいていなかった張りがほどけていった。
「……あー」
思わず声が漏れた。
「気持ちいいだろ?」
「認めたくないけどねえ」
「なんで認めたくないんだい」
「なんとなくさ」
くつくつ笑いながら、フレイヤはもう少しだけ身体を沈めた。
軍服もない。
階級章もない。
腰の短曲刀も、地図も、報告書もない。
浴槽の中にいるのは、仕事帰りの女が何人かと、翼の生えた女が一人。それだけだった。
「明日も仕事かい?」
隣から聞かれ、フレイヤは目を閉じたまま答える。
「朝から西へ帰るよ」
「西?」
「山の方さ」
「そりゃ遠いねえ」
「まあ、慣れた道だからね」
それ以上は聞かれなかった。
フレイヤも、それ以上は話さなかった。
湯が身体を温める音なんてものはない。ただ、誰かが桶を置く音と、湯が揺れる音と、途切れ途切れの世間話だけが浴室に漂っていた。
しばらくして、フレイヤは浴槽から立ち上がった。
「もう出るのかい?」
「あんまり羽根を蒸してもしょうがないからね。それに――」
湯船から上がり、濡れた翼をちらりと振り返る。
「こっちは、ここからが長いのさ」
脱衣所へ戻る。
身体は布で拭けば済む。
髪も同じだ。
だが、翼はそうはいかない。
大きな布を一枚使って、まず表面の水気を取る。次に羽根を分けながら根元を拭き、翼を少し開いて空気を通す。
そこでフレイヤは止まった。
「……狭いねえ」
脱衣所で翼を広げれば、当然ながら邪魔になる。
片翼だけでも、まともに伸ばせば天井近くまで届く。横へ開けば、着替えている客の頭をまとめて叩きかねない。
しかも、明日の朝までに羽根油を入れ直しておきたい。
半乾きで油を塗れば、せっかく洗った羽根がまとまってしまう。
「困ったね」
フレイヤが翼を半端に開いたまま考えていると、受付の女が暖簾の向こうから顔を出した。
「どうしたんだい?」
「いやね。乾かす場所がなくてさ」
女は濡れた翼を見上げる。
「……ずいぶんでかいね、それ」
「今さらかい」
「入ってくるときは畳んでたからねえ」
女は腕を組み、少し考えた。
「裏なら空いてるよ」
「裏?」
「湯を沸かす釜場の手前。洗った布を乾かすところがある。あったかいし、今日はもう使わないから」
フレイヤが目を瞬く。
「客が入っていいのかい?」
「火の近くまで行かなきゃいいよ。濡れたまま帰られて風邪ひかれても寝覚めが悪いしね」
「そりゃまた」
「そのかわり、煤には気をつけな。せっかく洗ったんだろ?」
フレイヤは自分の翼を見る。
それから女を見る。
「……借りるよ」
「はいよ」
案内されたのは、浴場の裏手にある小さな乾燥場だった。
釜場とは壁一枚隔てられているらしく、床からほんのりと熱が上がっている。洗った布を掛けるための木組みが並び、浴室ほどではないが、空気は暖かく乾いていた。
「こりゃいい」
フレイヤは誰もいないのを確かめ、翼を開く。
ばさり。
黒い翼が左右へ広がり、狭い部屋を一気に埋めた。
さすがに完全には伸ばせない。
それでも、浴室や脱衣所よりずっとましだった。
布で残った水気を取りながら、一本ずつ羽根を分けていく。根元へ指を入れ、湿り気を確かめ、また次へ。
時間がかかる。
いつものことだ。
「人間族の風呂ってのも、なかなか大仕事だねえ」
呟きながら、フレイヤは濡れた黒羽を丁寧に整えていった。
やがて羽根の奥まで湿り気が抜けると、フレイヤは小瓶の栓を開けた。
淡い黄色の羽根油を指先へほんの少し取る。
根元から羽先へ。
薄く、薄く。
普段の羽繕いなら、これで困ることはない。だが、全部洗って油を落としたあとは、翼の内側まで一通り入れ直す必要がある。
フレイヤは片翼を引き寄せ、背中側へ腕を回した。
「……ん」
あと少し、届かない。
翼の角度を変える。身体を捻る。もう一度腕を伸ばす。
今度は届いた。
「こういうときは、バディ持ちは楽でいいねえ」
日鴉族なら、互いの手が届かないところを相手に任せれば済む。羽根を洗うときも、乾かすときも、油を入れるときも同じだ。
「まあ、届くならいいさ」
フレイヤは翼を少し持ち上げ、指先で油を馴染ませていく。
一枚、また一枚。
新しい油を薄く引くたび、乾いた黒羽が本来の艶を取り戻していった。
まだ帝都の浴場に、日鴉族のための設備などない。
けれど、排水口には網が一枚増えていた。
そして今夜は、布を干す場所を少し借りた。
「……まあ」
フレイヤは整った片翼を眺め、口元を緩めた。
「これなら、なんとかなるもんだね」
◆
羽根油を入れ終える頃には、釜場の向こうから聞こえていた物音もだいぶ少なくなっていた。
フレイヤは最後に翼を大きく一度広げ、羽根の重なりを確かめる。濡れて細くなっていた黒羽はすっかり乾き、薄く馴染ませた油が灯りを柔らかく返していた。
「……よし」
これなら明日の朝、そのまま西部へ戻れる。
翼を畳み、着替えを済ませて表へ戻ると、受付の女がこちらを見て目を丸くした。
「へえ。ずいぶん違うもんだねえ」
「何がだい?」
「羽根だよ。入ってきたときより艶がある」
「そりゃ手間かけたからね」
フレイヤは肩を竦めた。
そのまま帰ろうとして、受付脇に並んだ陶器の壺へ目が止まる。
ちょうど先に上がった客が、小さな杯を受け取っていた。白というより、わずかに黄色がかった薄い液体が入っている。
「それ、なんだい?」
「乳清だよ」
「乳清?」
「チーズ作ったときに出るやつさ。風呂上がりに冷やしたのを飲むんだよ」
フレイヤは壺を見た。
「チーズの残り汁じゃないか」
「残りだから安いんだよ」
「なるほどねえ。帝国らしい」
受付の女は笑いながら、三つ並んだ壺を指した。
「そのままのと、蜂蜜入りと、香草入り。どれにする?」
「そのままで」
「香草じゃなくていいのかい?」
「風呂上がりにまで香りはいらないよ」
「男衆みたいなこと言うねえ」
「ほっときな」
銅貨を一枚追加で置く。
受け取った杯は、手に持っただけでもひんやりしていた。
一口飲む。
さらりとしている。
牛乳ほど重くなく、わずかな酸味と、乳の甘さが舌に残った。湯上がりでまだ熱の残る喉を、冷たい液体がすっと落ちていく。
「……へえ」
「どうだい?」
「こりゃいいね」
「だろ?」
もう一口。
気づけば、杯はすぐに空になった。
フレイヤが器を返すと、受付の女はその背後へ目をやった。
「次に来るまでにさ」
「ん?」
「端の洗い場、腰掛けひとつ退けとこうかね」
フレイヤが振り返る。
「いや、そこまでしなくていいよ」
「翼広げると邪魔なんだろ?」
「まあ、邪魔だけどさ」
「なら退けときゃいいじゃないか。どうせあそこ、詰めて置きすぎなんだよ」
「……あんた、話聞かないねえ」
「風呂屋だからね。客の話は聞くよ」
「聞いた上で勝手に決めてるじゃないか」
「じゃあ決まりだね」
フレイヤは呆れて、それから笑った。
「好きにしな」
「そうするよ」
外へ出る。
夜の帝都は、風呂へ入る前より少し静かになっていた。
石畳を渡る夜風が、まだ温かい頬を撫でる。背中では、洗って油を入れ直したばかりの羽根が、その風をさらりと受け流した。
「……気持ちいいねえ」
歩きながら、いつもの癖で煙草入れへ手を伸ばす。
一本取り出す。
指に挟み、火をつけようとして。
フレイヤは少しだけ止まった。
背中を見る。
四日分の埃も、煤も、煙の匂いも、さっき全部落としたばかりだった。
「……今日はいいか」
煙草を戻す。
別にやめるつもりはない。
明日、西部へ戻ればたぶん普通に吸う。
今夜くらいは、せっかく綺麗にした羽根をそのままにしておきたかった。
「またおいで!」
背後から、浴場の女の声が飛んできた。
フレイヤは振り返らず、片手だけを上げる。
「ああ。帝都に来たらね」
そう答えて、夜の通りを歩いていく。
次に来る頃には、端の腰掛けがひとつ減っているのだろう。
排水口には網があり、裏には暖かい乾燥場があって、風呂上がりには冷たい乳清がある。
それで十分だった。




