②帝都雛鳥通学録 羽根のある席
学院へ通い始めて、数日が過ぎた。
最初の日こそ、教室へ入るたびに視線が集まった。
翼はどこまで開くのか。
どれくらい滑空できるのか。
羽根は抜けるのか。
雨の日はどうするのか。
寝るときは邪魔ではないのか。
休み時間になるたび、ロザリーの周りには質問する子どもたちが集まり、教師が「一度に聞かない」と止めるのが恒例になっていた。
それも、三日目を過ぎたころから少しずつ減った。
「ロザリー、後ろ通るよ」
「はい」
朝、教室へ入ってすぐ、後ろの席の少女に声をかけられる。
ロザリーは畳んでいた黒い翼を少しだけ身体へ寄せた。
「これで大丈夫ですか?」
「もうちょっと」
「これ以上は無理です」
「じゃあ机こっち寄せる」
少女は自分の机を横へずらし、その隙間を通った。
「ありがと」
「いえ」
それだけだった。
誰かがロザリーの後ろを通るときは声をかける。
椅子を後ろへ大きく引くときも声をかける。
狭ければ机を少し動かす。
最初のうちは教師がいちいち注意していたことを、今では子どもたちだけで勝手にやるようになっていた。
「そこ通るなら、ロザリーの羽根踏むぞ」
「あ、ほんとだ」
「こっちから行けるよ」
「うん」
ロザリーが口を挟む間もない。
少し不思議だった。
学院へ来る前、自分の翼はもっと大きな問題になると思っていた。
もちろん問題がないわけではない。
普通の椅子には座れないし、廊下ですれ違うには少し広く場所を取る。机の間も狭いところは通れない。
けれど、一度分かってしまえば、それだけのことでもあった。
「では昨日の続きです」
教師が教壇へ立つ。
「帳面を開いてください」
子どもたちが一斉に動く。
ロザリーも鞄から帳面を取り出した。
隣の席では、初日に算術の数字を教えてくれた少年が、片手で器用に頁をめくっている。
右腕はある。
左腕は、肘より少し下で袖が縫い留められていた。
名前はアルノー。
十二歳。
内乱で故郷の町を離れ、その途中で腕を失ったと聞いた。
本人はそのことを、あまり話さない。
「今日は文章問題をやります」
教師が黒板へ数字と文字を書き始める。
ロザリーは身を乗り出した。
算術そのものは、だいぶ慣れてきた。
けれど文章になると、急に難しくなる。
『一袋に十五個の麦パンが入っています。四袋では――』
「……六十」
小さく呟く。
隣から声がした。
「合ってる」
「まだ答え見せてませんよ」
「声出てた」
「あ」
ロザリーは口元を押さえた。
「そこ」
教壇から声が飛ぶ。
「私語をしない」
「「はい」」
また声が揃った。
周囲から小さな笑いが起きる。
「初日と同じですね」
「ロザリーが喋るから」
「アルノーも返事してるじゃないですか」
「俺は確認しただけ」
「それを会話って言うんですよ」
「そこ」
「「はい」」
今度は教師まで少し笑っていた。
昼前の授業が終わると、子どもたちは一斉に教室を出た。
中庭へ遊びに行く者。
水を飲みに行く者。
机を囲んで話し始める者。
ロザリーも席を立ち、鞄から昼食を取り出した。
「それ持つ?」
隣でアルノーが、大きめの教本を机から抱え上げようとしていた。
反射的に、そう聞いていた。
「いらない」
「でも、それ重そうですよ」
「持てる」
「片手ですし」
言ってから。
ロザリーは気づいた。
アルノーの顔が、ほんの少しだけ変わった。
怒ったわけではない。
嫌そうでもない。
ただ、少しだけ困ったような顔だった。
「……これくらいなら持てるよ」
「あ」
「重いやつなら頼む」
「…………」
「これは軽い」
アルノーは教本を片腕で抱え、そのまま棚まで持っていった。
普通に置く。
普通に戻ってくる。
「……すみません」
「別に」
「勝手に、できないと思って」
「よく言われる」
「嫌ですよね」
「まあ」
アルノーは自分の席へ座った。
「でも、重いやつはほんとに頼む」
「はい」
「そのとき断らないで」
「はい」
少しだけ間があった。
アルノーがロザリーの翼を見る。
「俺も最初、羽根あると椅子に座れないって知らなかったし」
「……そうですね」
「お互い様じゃない?」
ロザリーは少しだけ目を丸くした。
それから笑う。
「そうかもしれません」
昼食のあと、中庭へ出ると、何人かの子どもが布を丸めた小さな球を投げ合っていた。
「ロザリー!」
声をかけられる。
「やる?」
「これ、何ですか?」
「投げて取るだけ」
「投げて取るだけ?」
「落としたら交代」
簡単そうだった。
「やります」
ロザリーも輪の中へ入った。
最初は普通だった。
投げる。
受け取る。
次へ投げる。
少しずつ距離が伸びる。
「ロザリー、そっち!」
「はい!」
右側へ飛んできた球へ手を伸ばす。
少し遠い。
身体を捻る。
反射的に、左翼がわずかに開いた。
身体が傾くのを押し戻す。
球を掴んだ。
「おお!」
「取った!」
「今、羽根使った!」
「え?」
「ずるい!」
「ええっ?」
ロザリーは黒い翼を見る。
「でも、飛んでませんよ?」
「今こう、ばさってした!」
「バランス取っただけです」
「羽根ない人はできない!」
「じゃあ使わないです」
「いや、使っていいよ」
「どっちなんですか!?」
子どもたちが笑った。
「じゃあロザリーは羽根使っていい!」
「なんでです?」
「その代わり、こっちは二人で取っていい」
「それだと私が有利みたいじゃないですか」
「有利じゃん」
「そんなに変わりませんよ」
「じゃあやってみよう!」
よく分からないまま、新しいルールが決まった。
そのあと十分ほど試した結果、ロザリーが翼を使ったところでそこまで強くはないことが判明し、結局元のルールへ戻った。
「なんだったんですか……」
「やってみないと分かんないじゃん」
「それはそうですけど」
汗を拭きながら、ロザリーは笑った。
午後から、空が曇り始めた。
朝はよく晴れていたのに、帝都の西側から重い雲が流れてくる。
窓の外が少しずつ暗くなる。
「雨かな」
誰かが言った。
遠くで、低い音がした。
ごろごろ。
ロザリーは窓を見る。
「雷ですね」
「怖い?」
前の席の少女が振り返った。
「別に。山でも鳴りますから」
「翼あると雷に当たりやすい?」
「なんでです?」
「高いところにいるから」
「いつも高いところにいるわけじゃありませんよ」
「あ、そっか」
教師が教壇を軽く叩いた。
「そちら。授業中です」
「はい」
また帳面へ向き直る。
今日は読み書きの授業だった。
教師が文章を読み、それを書き取る。
ロザリーは集中して筆を動かした。
ぽつ。
窓へ雨粒が当たる。
ぽつ、ぽつ。
やがて雨音が増えた。
ざあ、と窓の向こうが白くなる。
「では次です」
教師が文章を読み上げる。
ロザリーは筆を置く。
そのとき。
窓の外が、一瞬真っ白になった。
直後。
ドガァンッ!
「ひゃっ!」
身体が勝手に動いた。
ばさっ。
いや。
ぶわっ、と。
黒い翼が一気に膨らんだ。
「うわっ!」
「わあ!」
「きゃっ!」
後ろの机に置いてあった紙が舞った。
隣のアルノーの顔が、黒い羽根に完全に埋まった。
「…………」
教室が止まった。
ロザリーも止まった。
自分の翼が、左右へ大きく開いている。
「…………あ」
慌てて畳む。
「ご、ごめんなさい!」
羽根の奥から、アルノーの顔が出てきた。
髪がぐちゃぐちゃだった。
「大丈夫ですか!?」
「…………」
「顔、ぶつけました?」
「いや」
「羽根、目に入りませんでした?」
「大丈夫」
「本当に?」
「うん」
アルノーはしばらく考えていた。
「……あったかい」
「え?」
「羽根」
教室がまた静かになる。
「顔に当たったけど、あったかかった」
「…………」
誰かが吹き出した。
続いて別の子。
そして一気に教室中へ笑いが広がった。
「アルノー、羽根に埋まってた!」
「顔見えなかった!」
「ロザリーすごかった!」
「笑わないでください!」
ロザリーの顔が熱くなる。
「今のは反射です!」
「雷鳴ると毎回なるの?」
「毎回じゃありません!」
「でも今なった!」
「急だったからです!」
「俺の紙飛んだ!」
「ごめんなさい!」
「あとで拾えばいい!」
「ロザリーさん」
教師の声がした。
ロザリーは背筋を伸ばす。
「はい……」
「怪我はありませんか?」
「はい」
「アルノーさんは?」
「大丈夫です」
「では授業を続けます」
「…………はい」
教師は淡々としていた。
それから手元の紙へ何かを書き込んだ。
ロザリーの目が細くなる。
「先生」
「なんですか」
「それ、まさか」
「児童教育科への報告です」
「やっぱり!」
「雷鳴時に翼が急展開する可能性あり。机間距離について再確認が必要、と」
「そこまで書くんですか?」
「実際に起きましたので」
初日に学院まで案内してくれた官吏と、まったく同じことを言った。
「帝国人……」
思わず呟く。
「何か?」
「なんでもありません」
教師はまた授業へ戻った。
子どもたちも帳面へ向かう。
ただし、しばらくの間、あちこちで肩が震えていた。
放課後。
雨はもう上がっていた。
窓の外には、濡れた石畳が夕方の光を反射している。
「ロザリー」
「はい?」
アルノーが紙を一枚差し出した。
「これ」
「あ」
雷で飛ばしてしまった自分の書き取り用紙だった。
「拾ってくれたんですか?」
「俺の机の下にあった」
「ありがとうございます」
「うん」
片手で鞄を持ち上げる。
ロザリーは、今度は何も言わなかった。
アルノーは自分で肩へ掛ける。
「じゃあまた明日」
「はい。また明日」
何気なく返した。
アルノーはそのまま教室を出ていく。
ほかの子どもたちも、次々に帰っていった。
「また明日ー!」
「ロザリー、明日外でやろうね!」
「羽根使っていいから!」
「まだそれ続けるんですか!?」
笑い声が廊下へ消えていく。
ロザリーは鞄へ帳面をしまった。
ふと、自分の席を見る。
背もたれのない椅子。
少し広く取られた後ろの空間。
窓側へ寄せられた机。
最初にここへ来た日は、それが全部、自分のためだけに用意された特別なものに見えた。
翼のある日鴉族を座らせるための席。
けれど今は違う。
「ロザリーさん」
教師に呼ばれ、顔を上げる。
「帰らないのですか?」
「あ、はい。帰ります」
鞄を持つ。
黒い翼を一度だけ広げ、制服の肩布が引っ掛かっていないことを確かめる。
もう、それを見て驚く者はいなかった。
ロザリーは教室を出た。
そこに残ったのは、少しだけ周囲より広く、背もたれのない椅子が置かれた席。
もう、日鴉族のための席ではない。
ただの、ロザリーの席だった。




