②帝都雛鳥通学録 はじめての登校
制服を着るのに、思っていたほど時間はかからなかった。
白いシャツへ腕を通し、濃紺の上着を肩へ掛ける。前を留め、胸元へ回した布を教わった通りに結ぶと、背中側の大きな肩布が自然に翼の根元を覆った。
ロザリーは鏡の前で一度身体を捻り、右を見る。
次に左。
最後に黒い翼をゆっくり開いた。
肩布が持ち上がり、羽根の動きに沿って滑る。引っ掛かる感触はない。翼を畳めば、布もまた元の位置へ戻った。
「……大丈夫」
昨日だけで何着もの服を着せられ、翼を開いたり閉じたり、しゃがんだり走ったりさせられた甲斐はあったらしい。
少なくとも、朝から制服と格闘することはない。
鏡の中には、濃紺と白の制服を着た十五歳の少女がいた。
胸元には銀色の学院章。
頭には、同じく濃紺の学院帽。
そしてその背中には、制服から大きく伸びる黒い翼がある。
「……学院生、なんですよね」
口に出してみると、何とも不思議な響きだった。
鏡越しに、後ろにいたミドラーシュと目が合う。
白い翼の少女は、じっとロザリーの姿を見ていた。
「変じゃないですか?」
ミドラーシュは首を横に振る。
「本当に?」
こくり。
「帽子も?」
もう一度、こくり。
少し考えてから、ミドラーシュは両手の親指を立てた。
「そこまでですか?」
白い翼が小さく揺れる。
どうやら、かなりいいらしい。
ロザリーは苦笑して、鏡へ向き直った。
確かに悪くはない。
昨日、自分で選んだ色だ。
人間の学院生と同じ白。同じ濃紺。同じ銀。
背中だけは違う。
けれど、それでいい。
「じゃあ、行ってきます」
鞄を持ち、玄関へ向かう。
ミドラーシュも当然のようについてきた。
「ミドは来なくて大丈夫ですよ」
首を振る。
「学院までは一人で行けます」
また首を振る。
「……玄関まで?」
こくり。
「分かりました」
二人で外へ出る。
まだ朝の帝都には、夜の冷たさが少し残っていた。
通りでは店を開ける者たちが木戸を上げ、荷車が石畳を鳴らしている。兵士らしい男がパンを片手に歩き、向かいの家では洗濯物が竿へ掛けられていた。
いつもの朝だった。
ただ、ロザリーだけがいつもと違う。
家の前まで来たところで、ロザリーは立ち止まった。
「昼には戻りませんからね」
ミドラーシュが頷く。
「夕方には帰ります」
また頷く。
「何かあったら、近くの人に伝えてください。あと、食事はちゃんと」
ミドラーシュの目が少し細くなった。
「……分かってますよね」
こくり。
「本当に?」
こくこく。
「それと」
言いかけたところで、ミドラーシュが片手を上げた。
日鴉族のハンドサイン。
ロザリーには、すぐ意味が分かった。
行ってこい。
「…………」
言葉が止まった。
これまで、誰かを送り出すことは何度もあった。
狩りへ行く者。
仕事へ向かう者。
兵として山へ入る者。
幼い子どもたちを見送り、帰ってきた者を迎えたことも数えきれない。
けれど、自分が見送られる側になることは、ほとんどなかった。
「……はい」
ロザリーは少しだけ笑った。
「行ってきます」
ミドラーシュが手を振る。
ロザリーも振り返し、今度こそ学院へ向かって歩き出した。
帝国学院は、帝都の中央部から少し離れた場所にある。
石造りの校舎はロザリーが想像していたより大きく、正門から見えるだけでも建物がいくつも並んでいた。講義棟、図書棟、実習棟。奥には運動場らしい広い空間まである。
朝の門前には、制服姿の子どもたちが次々と吸い込まれていた。
年齢も違う。
服装も完全に同じではない。
それでも白と濃紺と銀が並ぶと、ひと目で同じ学院の生徒だと分かる。
ロザリーは門の少し手前で足を止めた。
「…………」
見られている。
まあ、そうだろう。
黒い翼を持つ学院生など、これまで一人もいなかったのだから。
通り過ぎる子どもがちらりと見る。
友人同士で歩いていた少年二人が、こちらを見て何か囁く。
少し離れたところでは、小さな女の子が母親らしい女性の袖を引いていた。
ロザリーは無意識に翼を少しだけ身体へ寄せた。
「ロザリーさん?」
「あっ」
正門の内側に、昨日見た児童教育科の女性官吏が立っていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
「制服、問題ありませんでしたか?」
「はい。一人で着られました」
「それは何よりです」
官吏は頷き、ロザリーの背中を一度だけ確認した。
「肩布のずれもありませんね。帰宅後、擦れた場所などがあれば記録してください」
「今日も記録するんですか?」
「もちろんです」
「……ですよね」
昨日一日で、少し帝国という国が分かってきた気がする。
「では、教室まで案内します」
「お願いします」
二人で校舎へ入った。
玄関は問題なかった。
廊下も、一人で歩くぶんには広い。
昨日、あれだけ測っていたのだから当然なのかもしれない。
ただし。
「あ」
「あっ」
曲がり角から来た少年と、正面で鉢合わせた。
少年が右へ避ける。
ロザリーも右へ避ける。
同じ方向だった。
二人とも左へ。
また同じ。
「……」
「……」
気まずい。
少年が先に身体を横へ向けた。
ロザリーも横へ向く。
そこで、黒い翼が廊下側へ張り出した。
「わっ」
「すみません!」
慌てて翼を畳み直す。
少年も一歩下がった。
「いや、俺もごめん」
「こちらこそ」
「……横になっても細くならないんだな」
悪意のない一言だった。
「そうなんです」
「へえ」
少年は少しだけ感心した顔をして、そのまま通り過ぎた。
ロザリーは背中を見送る。
隣で児童教育科の官吏が小さな帳面を開いた。
「廊下での対面通行。翼幅を考慮した通行指導が必要、と」
「今のもですか?」
「実例ですので」
「……はい」
どうやら、初登校そのものが制服の続きの試験になっているらしい。
復興学級の教室は、校舎一階の端にあった。
扉の前まで来る。
中から、いくつもの声が聞こえていた。
笑い声。
誰かが机を引く音。
言い争っているような声もする。
普通の教室だった。
それが、妙に怖かった。
「緊張していますか?」
隣から聞かれた。
「……少し」
「大丈夫ですよ」
官吏はそう言ったが、その先は続けなかった。
大丈夫だから入れ、とも。
何も起きない、とも言わない。
ただ一緒に扉の前で待っている。
ロザリーは一度、息を吸った。
「お願いします」
扉が開いた。
教室の中が、一斉に静かになった。
「…………」
視線。
本当に、全部だった。
十数人の子どもたちが、揃ってこちらを見ている。
ロザリーの顔。
制服。
そして。
翼。
やっぱりそこを見る。
「皆さん、席についてください」
教壇にいた教師が言った。
四十代くらいの女性だった。
子どもたちが、がたがたと椅子へ座る。
それでも目だけはこちらへ向いたままだ。
「今日からこの学級で一緒に学ぶ、ロザリーさんです」
教師がこちらへ少し場所を譲った。
「自己紹介をお願いします」
「はい」
ロザリーは教室へ向き直った。
昨日、軍人や官吏を前に翼を広げるより緊張する。
「ロザリーです。十五歳です」
少し考える。
「日鴉族です」
これは言わなくても見れば分かる気がした。
「これまでちゃんと学院へ通ったことはないので、分からないことも多いと思います。よろしくお願いします」
頭を下げる。
顔を上げる。
手が上がっていた。
一人。
二人。
三人。
五人。
「まだ質問の時間ではありません」
教師が言った。
手が下がる。
三秒ほど静かになった。
また一人、手が上がった。
「先生」
「何ですか」
「質問の時間はいつですか」
教室のあちこちから笑い声が上がった。
教師は小さく息を吐いた。
「最初の休み時間にしましょう」
「はい!」
「それまで我慢してください」
「はい!」
今度こそ全員が手を下ろした。
ロザリーは少しだけ肩の力が抜けた。
「ロザリーさんの席はこちらです」
教師に案内されたのは、教室の後ろ寄り、窓側の席だった。
他の机より後ろが広い。
椅子も違う。
背もたれがなく、座面が少し広い。
「……これ」
「昨日、児童教育科から連絡がありまして」
教師が言う。
「普通の椅子だと翼が当たるそうなので、倉庫から持ってきました」
「ありがとうございます」
「机も少し前へ動かしてあります。狭ければ言ってください」
「はい」
ロザリーは腰を下ろした。
翼を自然に畳む。
当たらない。
後ろを誰かが歩いても、羽根を踏まれるほど狭くはない。
昨日のあの会議が、ここへ来ている。
型紙の山。
椅子の寸法。
扉の幅。
書類へ書かれた一行一行が、自分の席になっていた。
「では、授業を始めます」
教師が教壇へ戻った。
「今日は算術の続きからです。前回の問題を覚えていますか?」
子どもたちが一斉に教科書を開く。
ロザリーも慌てて鞄を開いた。
学院から渡された真新しい帳面と筆記具を出す。
「ロザリーさんは、今日は皆さんと同じ問題を解いてもらいます。分からないところがあれば、その都度確認しましょう」
「はい」
「では」
黒板へ数字が書かれていく。
ロザリーはそれを見る。
「…………」
分からなくはない。
足し算も引き算もできる。
物を分けたり、食料の数を数えたりするために覚えた。
ただ、黒板へ書かれた式になると、少し違う。
横に数字が並び、見慣れない記号が挟まっている。
「では、この式を解いてください」
教室が静かになった。
ロザリーも帳面へ数字を書き写す。
三。
五。
その下に。
「……あれ」
小さな声が漏れた。
隣の席から、もっと小さな声がした。
「そこ、三じゃなくて五だよ」
「え?」
見る。
自分の帳面。
黒板。
本当だ。
「あ……ありがとうございます」
「うん」
隣に座っているのは、十二、三歳くらいの少年だった。片腕の袖が肘の少し下で縫い留められている。
少年は自分の帳面へ戻る。
ロザリーも数字を書き直した。
「そこ」
教師の声が飛んだ。
二人とも顔を上げる。
「私語をしない」
「「はい」」
声が揃った。
周囲から小さな笑い声が起きた。
ロザリーも、つられて笑った。
授業は続いた。
数字を写す。
考える。
間違える。
直す。
分からなければ聞く。
教師は、ロザリーが日鴉族だからと特別な問題を出したりはしなかった。
逆に、できないところを放っておくこともしなかった。
「ここまでは分かりますか?」
「はい」
「では次は?」
「……分かりません」
「では、前の式へ戻りましょう」
「はい」
それだけだった。
羽根のことを聞かれない時間が、こんなに長く続くのは久しぶりかもしれない。
日鴉族だからでもない。
避難民だからでもない。
誰かの面倒を見る役でもない。
ただ、問題が分からない生徒として教えてもらっている。
やがて鐘が鳴った。
「では、ここまで」
教師が教本を閉じる。
「四半刻の休憩です」
椅子が一斉に鳴った。
ロザリーも筆記具を置く。
ふう、と息を吐いた。
思っていたより、ずっと疲れる。
けれど。
「ロザリー!」
「はい?」
顔を上げた。
目の前に、子どもが五人いた。
「…………」
一人ではない。
五人。
その後ろにもいる。
「先生、質問の時間ですよね!」
さきほどの少年が教師へ確認する。
「一度に聞かないこと。触る場合は本人の許可を取ること。嫌だと言われたらやめること」
「はい!」
教師はもう諦めているらしい。
一番前にいた小さな女の子が、待ちきれない様子で手を上げた。
「飛べる?」
「飛べます」
「どれくらい?」
「どれくらい……?」
「帝都の壁より高く?」
「それは、飛ぼうと思えば」
「すごい!」
別の子が割り込む。
「寝るとき羽根どうするの?」
「畳みます」
「布団入る?」
「入りますよ」
「仰向けで寝られる?」
「……あまり寝ませんね」
「やっぱり!」
「羽根って抜ける?」
「抜けます」
「痛い?」
「自然に抜けるものは痛くありません」
「触っていい?」
ロザリーは少し止まった。
それから答える。
「強く引っ張らないなら」
「ほんと?」
「はい」
少女が恐る恐る、翼の外側へ指を伸ばした。
羽根の先へ、ほんの少し触れる。
「……やわらかい」
「場所によります」
「こっちは?」
「そこは駄目です」
「なんで?」
「くすぐったいです」
「へえ!」
また手が上がる。
「雨の日どうするの?」
「濡れます」
「重くなる?」
「少し」
「傘さす?」
「翼まで入らないので、外套を使います」
「羽根って洗うの?」
「洗います」
「毎日?」
「毎日は洗いません」
「何食べるの?」
「それ、羽根と関係あります?」
「ない!」
ロザリーは思わず吹き出した。
「じゃあなんで聞いたんですか」
「気になったから!」
子どもたちも笑う。
悪意はなかった。
ただ、知らないのだ。
日鴉族の身体を。
翼のある暮らしを。
それどころか、日鴉族が何を食べて、どう眠って、雨の日にどうしているのかも。
知らなければ、聞くしかない。
「一個ずつなら答えます」
ロザリーが言った。
「一個ずつ?」
「一度に五人で聞かれると分かりません」
「じゃあ順番!」
「俺次!」
「さっきお前聞いたじゃん!」
「飛ぶ話はまだ途中!」
急に順番争いが始まる。
「喧嘩しない」
教師の声が飛んだ。
「「「はい!」」」
ロザリーは笑いながら、自分の翼を少しだけ畳み直した。
朝、学院の門をくぐるまでは、自分が何者として見られるのか少し怖かった。
日鴉族。
戦争から来た子。
珍しい翼を持つ者。
たぶん、どれも間違ってはいない。
けれど今は、それにもう一つ加わっている。
同じ教室で算術を間違えた、新しい生徒。
「次、私!」
「はい。なんですか?」
「その帽子、日鴉族用?」
ロザリーは自分の頭へ手をやった。
「これは、みんなと同じですよ」
「ほんと?」
「ほら」
隣の子どもの帽子を指差す。
同じ濃紺。
同じ銀色の学院章。
少女は二つを見比べた。
「ほんとだ」
それだけ言うと、満足そうに頷いた。
休憩終了の鐘が鳴る。
「席へ戻りなさい」
教師の声に、子どもたちが散っていく。
「続きは次の休みね!」
「まだあるんですか?」
「いっぱいある!」
「……そうですか」
ロザリーは少し困って、それでも笑った。
席へ座る。
背もたれのない椅子は、ちゃんと翼を邪魔しなかった。
帳面を開く。
さきほど間違えた数字が残っている。
その横には、書き直した五。
ロザリーは筆記具を持ち直した。
「では次の授業を始めます」
「はい」
教室の声に混じって、ロザリーも答えた。
はじめての登校日は、まだ始まったばかりだった。




