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農家の異世界奮闘記 掌編集  作者: 今無ヅイ


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4/7

②帝都雛鳥通学録 はじめての登校

 制服を着るのに、思っていたほど時間はかからなかった。


 白いシャツへ腕を通し、濃紺の上着を肩へ掛ける。前を留め、胸元へ回した布を教わった通りに結ぶと、背中側の大きな肩布が自然に翼の根元を覆った。


 ロザリーは鏡の前で一度身体を捻り、右を見る。


 次に左。


 最後に黒い翼をゆっくり開いた。


 肩布が持ち上がり、羽根の動きに沿って滑る。引っ掛かる感触はない。翼を畳めば、布もまた元の位置へ戻った。


「……大丈夫」


 昨日だけで何着もの服を着せられ、翼を開いたり閉じたり、しゃがんだり走ったりさせられた甲斐はあったらしい。


 少なくとも、朝から制服と格闘することはない。


 鏡の中には、濃紺と白の制服を着た十五歳の少女がいた。


 胸元には銀色の学院章。


 頭には、同じく濃紺の学院帽。


 そしてその背中には、制服から大きく伸びる黒い翼がある。


「……学院生、なんですよね」


 口に出してみると、何とも不思議な響きだった。


 鏡越しに、後ろにいたミドラーシュと目が合う。


 白い翼の少女は、じっとロザリーの姿を見ていた。


「変じゃないですか?」


 ミドラーシュは首を横に振る。


「本当に?」


 こくり。


「帽子も?」


 もう一度、こくり。


 少し考えてから、ミドラーシュは両手の親指を立てた。


「そこまでですか?」


 白い翼が小さく揺れる。


 どうやら、かなりいいらしい。


 ロザリーは苦笑して、鏡へ向き直った。


 確かに悪くはない。


 昨日、自分で選んだ色だ。


 人間の学院生と同じ白。同じ濃紺。同じ銀。


 背中だけは違う。


 けれど、それでいい。


「じゃあ、行ってきます」


 鞄を持ち、玄関へ向かう。


 ミドラーシュも当然のようについてきた。


「ミドは来なくて大丈夫ですよ」


 首を振る。


「学院までは一人で行けます」


 また首を振る。


「……玄関まで?」


 こくり。


「分かりました」


 二人で外へ出る。


 まだ朝の帝都には、夜の冷たさが少し残っていた。


 通りでは店を開ける者たちが木戸を上げ、荷車が石畳を鳴らしている。兵士らしい男がパンを片手に歩き、向かいの家では洗濯物が竿へ掛けられていた。


 いつもの朝だった。


 ただ、ロザリーだけがいつもと違う。


 家の前まで来たところで、ロザリーは立ち止まった。


「昼には戻りませんからね」


 ミドラーシュが頷く。


「夕方には帰ります」


 また頷く。


「何かあったら、近くの人に伝えてください。あと、食事はちゃんと」


 ミドラーシュの目が少し細くなった。


「……分かってますよね」


 こくり。


「本当に?」


 こくこく。


「それと」


 言いかけたところで、ミドラーシュが片手を上げた。


 日鴉族のハンドサイン。


 ロザリーには、すぐ意味が分かった。


 行ってこい。


「…………」


 言葉が止まった。


 これまで、誰かを送り出すことは何度もあった。


 狩りへ行く者。


 仕事へ向かう者。


 兵として山へ入る者。


 幼い子どもたちを見送り、帰ってきた者を迎えたことも数えきれない。


 けれど、自分が見送られる側になることは、ほとんどなかった。


「……はい」


 ロザリーは少しだけ笑った。


「行ってきます」


 ミドラーシュが手を振る。


 ロザリーも振り返し、今度こそ学院へ向かって歩き出した。


 帝国学院は、帝都の中央部から少し離れた場所にある。


 石造りの校舎はロザリーが想像していたより大きく、正門から見えるだけでも建物がいくつも並んでいた。講義棟、図書棟、実習棟。奥には運動場らしい広い空間まである。


 朝の門前には、制服姿の子どもたちが次々と吸い込まれていた。


 年齢も違う。


 服装も完全に同じではない。


 それでも白と濃紺と銀が並ぶと、ひと目で同じ学院の生徒だと分かる。


 ロザリーは門の少し手前で足を止めた。


「…………」


 見られている。


 まあ、そうだろう。


 黒い翼を持つ学院生など、これまで一人もいなかったのだから。


 通り過ぎる子どもがちらりと見る。


 友人同士で歩いていた少年二人が、こちらを見て何か囁く。


 少し離れたところでは、小さな女の子が母親らしい女性の袖を引いていた。


 ロザリーは無意識に翼を少しだけ身体へ寄せた。


「ロザリーさん?」


「あっ」


 正門の内側に、昨日見た児童教育科の女性官吏が立っていた。


「おはようございます」


「おはようございます」


「制服、問題ありませんでしたか?」


「はい。一人で着られました」


「それは何よりです」


 官吏は頷き、ロザリーの背中を一度だけ確認した。


「肩布のずれもありませんね。帰宅後、擦れた場所などがあれば記録してください」


「今日も記録するんですか?」


「もちろんです」


「……ですよね」


 昨日一日で、少し帝国という国が分かってきた気がする。


「では、教室まで案内します」


「お願いします」


 二人で校舎へ入った。


 玄関は問題なかった。


 廊下も、一人で歩くぶんには広い。


 昨日、あれだけ測っていたのだから当然なのかもしれない。


 ただし。


「あ」


「あっ」


 曲がり角から来た少年と、正面で鉢合わせた。


 少年が右へ避ける。


 ロザリーも右へ避ける。


 同じ方向だった。


 二人とも左へ。


 また同じ。


「……」


「……」


 気まずい。


 少年が先に身体を横へ向けた。


 ロザリーも横へ向く。


 そこで、黒い翼が廊下側へ張り出した。


「わっ」


「すみません!」


 慌てて翼を畳み直す。


 少年も一歩下がった。


「いや、俺もごめん」


「こちらこそ」


「……横になっても細くならないんだな」


 悪意のない一言だった。


「そうなんです」


「へえ」


 少年は少しだけ感心した顔をして、そのまま通り過ぎた。


 ロザリーは背中を見送る。


 隣で児童教育科の官吏が小さな帳面を開いた。


「廊下での対面通行。翼幅を考慮した通行指導が必要、と」


「今のもですか?」


「実例ですので」


「……はい」


 どうやら、初登校そのものが制服の続きの試験になっているらしい。


 復興学級の教室は、校舎一階の端にあった。


 扉の前まで来る。


 中から、いくつもの声が聞こえていた。


 笑い声。


 誰かが机を引く音。


 言い争っているような声もする。


 普通の教室だった。


 それが、妙に怖かった。


「緊張していますか?」


 隣から聞かれた。


「……少し」


「大丈夫ですよ」


 官吏はそう言ったが、その先は続けなかった。


 大丈夫だから入れ、とも。


 何も起きない、とも言わない。


 ただ一緒に扉の前で待っている。


 ロザリーは一度、息を吸った。


「お願いします」


 扉が開いた。


 教室の中が、一斉に静かになった。


「…………」


 視線。


 本当に、全部だった。


 十数人の子どもたちが、揃ってこちらを見ている。


 ロザリーの顔。


 制服。


 そして。


 翼。


 やっぱりそこを見る。


「皆さん、席についてください」


 教壇にいた教師が言った。


 四十代くらいの女性だった。


 子どもたちが、がたがたと椅子へ座る。


 それでも目だけはこちらへ向いたままだ。


「今日からこの学級で一緒に学ぶ、ロザリーさんです」


 教師がこちらへ少し場所を譲った。


「自己紹介をお願いします」


「はい」


 ロザリーは教室へ向き直った。


 昨日、軍人や官吏を前に翼を広げるより緊張する。


「ロザリーです。十五歳です」


 少し考える。


「日鴉族です」


 これは言わなくても見れば分かる気がした。


「これまでちゃんと学院へ通ったことはないので、分からないことも多いと思います。よろしくお願いします」


 頭を下げる。


 顔を上げる。


 手が上がっていた。


 一人。


 二人。


 三人。


 五人。


「まだ質問の時間ではありません」


 教師が言った。


 手が下がる。


 三秒ほど静かになった。


 また一人、手が上がった。


「先生」


「何ですか」


「質問の時間はいつですか」


 教室のあちこちから笑い声が上がった。


 教師は小さく息を吐いた。


「最初の休み時間にしましょう」


「はい!」


「それまで我慢してください」


「はい!」


 今度こそ全員が手を下ろした。


 ロザリーは少しだけ肩の力が抜けた。


「ロザリーさんの席はこちらです」


 教師に案内されたのは、教室の後ろ寄り、窓側の席だった。


 他の机より後ろが広い。


 椅子も違う。


 背もたれがなく、座面が少し広い。


「……これ」


「昨日、児童教育科から連絡がありまして」


 教師が言う。


「普通の椅子だと翼が当たるそうなので、倉庫から持ってきました」


「ありがとうございます」


「机も少し前へ動かしてあります。狭ければ言ってください」


「はい」


 ロザリーは腰を下ろした。


 翼を自然に畳む。


 当たらない。


 後ろを誰かが歩いても、羽根を踏まれるほど狭くはない。


 昨日のあの会議が、ここへ来ている。


 型紙の山。


 椅子の寸法。


 扉の幅。


 書類へ書かれた一行一行が、自分の席になっていた。


「では、授業を始めます」


 教師が教壇へ戻った。


「今日は算術の続きからです。前回の問題を覚えていますか?」


 子どもたちが一斉に教科書を開く。


 ロザリーも慌てて鞄を開いた。


 学院から渡された真新しい帳面と筆記具を出す。


「ロザリーさんは、今日は皆さんと同じ問題を解いてもらいます。分からないところがあれば、その都度確認しましょう」


「はい」


「では」


 黒板へ数字が書かれていく。


 ロザリーはそれを見る。


「…………」


 分からなくはない。


 足し算も引き算もできる。


 物を分けたり、食料の数を数えたりするために覚えた。


 ただ、黒板へ書かれた式になると、少し違う。


 横に数字が並び、見慣れない記号が挟まっている。


「では、この式を解いてください」


 教室が静かになった。


 ロザリーも帳面へ数字を書き写す。


 三。


 五。


 その下に。


「……あれ」


 小さな声が漏れた。


 隣の席から、もっと小さな声がした。


「そこ、三じゃなくて五だよ」


「え?」


 見る。


 自分の帳面。


 黒板。


 本当だ。


「あ……ありがとうございます」


「うん」


 隣に座っているのは、十二、三歳くらいの少年だった。片腕の袖が肘の少し下で縫い留められている。


 少年は自分の帳面へ戻る。


 ロザリーも数字を書き直した。


「そこ」


 教師の声が飛んだ。


 二人とも顔を上げる。


「私語をしない」


「「はい」」


 声が揃った。


 周囲から小さな笑い声が起きた。


 ロザリーも、つられて笑った。


 授業は続いた。


 数字を写す。


 考える。


 間違える。


 直す。


 分からなければ聞く。


 教師は、ロザリーが日鴉族だからと特別な問題を出したりはしなかった。


 逆に、できないところを放っておくこともしなかった。


「ここまでは分かりますか?」


「はい」


「では次は?」


「……分かりません」


「では、前の式へ戻りましょう」


「はい」


 それだけだった。


 羽根のことを聞かれない時間が、こんなに長く続くのは久しぶりかもしれない。


 日鴉族だからでもない。


 避難民だからでもない。


 誰かの面倒を見る役でもない。


 ただ、問題が分からない生徒として教えてもらっている。


 やがて鐘が鳴った。


「では、ここまで」


 教師が教本を閉じる。


「四半刻の休憩です」


 椅子が一斉に鳴った。


 ロザリーも筆記具を置く。


 ふう、と息を吐いた。


 思っていたより、ずっと疲れる。


 けれど。


「ロザリー!」


「はい?」


 顔を上げた。


 目の前に、子どもが五人いた。


「…………」


 一人ではない。


 五人。


 その後ろにもいる。


「先生、質問の時間ですよね!」


 さきほどの少年が教師へ確認する。


「一度に聞かないこと。触る場合は本人の許可を取ること。嫌だと言われたらやめること」


「はい!」


 教師はもう諦めているらしい。


 一番前にいた小さな女の子が、待ちきれない様子で手を上げた。


「飛べる?」


「飛べます」


「どれくらい?」


「どれくらい……?」


「帝都の壁より高く?」


「それは、飛ぼうと思えば」


「すごい!」


 別の子が割り込む。


「寝るとき羽根どうするの?」


「畳みます」


「布団入る?」


「入りますよ」


「仰向けで寝られる?」


「……あまり寝ませんね」


「やっぱり!」


「羽根って抜ける?」


「抜けます」


「痛い?」


「自然に抜けるものは痛くありません」


「触っていい?」


 ロザリーは少し止まった。


 それから答える。


「強く引っ張らないなら」


「ほんと?」


「はい」


 少女が恐る恐る、翼の外側へ指を伸ばした。


 羽根の先へ、ほんの少し触れる。


「……やわらかい」


「場所によります」


「こっちは?」


「そこは駄目です」


「なんで?」


「くすぐったいです」


「へえ!」


 また手が上がる。


「雨の日どうするの?」


「濡れます」


「重くなる?」


「少し」


「傘さす?」


「翼まで入らないので、外套を使います」


「羽根って洗うの?」


「洗います」


「毎日?」


「毎日は洗いません」


「何食べるの?」


「それ、羽根と関係あります?」


「ない!」


 ロザリーは思わず吹き出した。


「じゃあなんで聞いたんですか」


「気になったから!」


 子どもたちも笑う。


 悪意はなかった。


 ただ、知らないのだ。


 日鴉族の身体を。


 翼のある暮らしを。


 それどころか、日鴉族が何を食べて、どう眠って、雨の日にどうしているのかも。


 知らなければ、聞くしかない。


「一個ずつなら答えます」


 ロザリーが言った。


「一個ずつ?」


「一度に五人で聞かれると分かりません」


「じゃあ順番!」


「俺次!」


「さっきお前聞いたじゃん!」


「飛ぶ話はまだ途中!」


 急に順番争いが始まる。


「喧嘩しない」


 教師の声が飛んだ。


「「「はい!」」」


 ロザリーは笑いながら、自分の翼を少しだけ畳み直した。


 朝、学院の門をくぐるまでは、自分が何者として見られるのか少し怖かった。


 日鴉族。


 戦争から来た子。


 珍しい翼を持つ者。


 たぶん、どれも間違ってはいない。


 けれど今は、それにもう一つ加わっている。


 同じ教室で算術を間違えた、新しい生徒。


「次、私!」


「はい。なんですか?」


「その帽子、日鴉族用?」


 ロザリーは自分の頭へ手をやった。


「これは、みんなと同じですよ」


「ほんと?」


「ほら」


 隣の子どもの帽子を指差す。


 同じ濃紺。


 同じ銀色の学院章。


 少女は二つを見比べた。


「ほんとだ」


 それだけ言うと、満足そうに頷いた。


 休憩終了の鐘が鳴る。


「席へ戻りなさい」


 教師の声に、子どもたちが散っていく。


「続きは次の休みね!」


「まだあるんですか?」


「いっぱいある!」


「……そうですか」


 ロザリーは少し困って、それでも笑った。


 席へ座る。


 背もたれのない椅子は、ちゃんと翼を邪魔しなかった。


 帳面を開く。


 さきほど間違えた数字が残っている。


 その横には、書き直した五。


 ロザリーは筆記具を持ち直した。


「では次の授業を始めます」


「はい」


 教室の声に混じって、ロザリーも答えた。


 はじめての登校日は、まだ始まったばかりだった。

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