(2)父の絵
絵を描く父のエピソード。
そんな父は、アマチュアの画家でもある。もう2~300枚の油彩画を描いている。Facebookに父の絵をアップロードしたところ、本職の画家の方からほめられたこともあった。
「お父上の人柄が現れていますね。また描くようになったら、ぜひアップロードしてください……」
と。
実は、父が絵を描けなくなって大分経つ。
写実的で繊細だった父の絵も……父が側頭部硬膜下血腫で入院して以来、描けなくなった。病室では、父は色鉛筆でミカンの絵など描いていたが、退院して以降は二階のアトリエには寄り付かなくなってしまった。
当然、母やわたしは寂しいと思う。
二階は……実は長兄夫婦のために用意された部屋だった。
しかし、母が脳梗塞で入院した際に、父と兄嫁とが不仲になってしまい、長兄は家に寄り付かなくなった。そして、二階の建て増しされたその部屋は誰も住まない部屋となったのである。
一時期は、わたしがパソコンルームとして占拠していたこともあった。
しかし、そんなわたしも父と不仲になり……家出をする。
なんどかの家出の末に、別居。それから20年以上、わたしは実家に帰らなかった。
そのあいだに、父は絵を描くことを始めた。
──パズルのような感覚で油絵を描いている、と、父は手紙で知らせてくる。
かたくなになっているわたしは、返事を出さない。
その間にも、父は母と二人三脚で画業を続けていた。
なぜか?
実は、父は色盲である。赤色と緑色の区別がつかないのだ。
父の本職は高校での化学の教諭だったのだが、本来であれば色盲である父はその職にはつけない。
色盲であるということを隠して、父は化学の教師をしていた。
教職についている父の子供であるだけにかたくなだったわたしたち子供たちは、そんな父の不正に対しても敏感だった。父は本来してはいけないことをしている……などと思って、子供たちは自立的になった。
長兄は大学教授に、次兄は外資系企業の役員に、わたしはフリーターになり(笑)……それぞれの反抗心を示した。
しかし、父はそんな自分の「してはいけないこと」には無頓着であったようである。寛容な時代だったし、父自身も一所懸命だった。そんな父の色盲のエピソードはいくつもあるのだが……
最たるは、やはり、母と二人三脚の画業のエピソードだろう。
父の絵は、一見すると色盲の人間が描いた絵には、まったく見えない。花は赤く描かれているし、木々はあざやかな緑に描かれている。それも、濃淡やグラデーションを意識した、繊細な色合いで、である。
なぜ、そんなことができたのか……
実は、そこには母の手伝いと献身があったからである。
母は、父の描く絵にたいして、この絵の具を使って、この色合いで、ということをアドバイスしていた。
「これなんの色だい?」
「これは赤でしょう」
「どの赤だ? 真っ赤な赤か? ピンクに近いやつか?」
「そうねえ、ピンクに近い赤かしら……」
そんな対話をしながら、父は母とふたりで絵を描いていた。
わたしも、長兄も、次兄も、家には寄り付かなかった、孤独な時代にあって、である。
実は、父は若いころには浮気をしたこともあったらしい。それで、わたしの大学卒業後には離婚する、という話にまでなっていた。
しかし、わたしが大学を卒業する前に母は脳梗塞になってしまい、生死の境をさまよった。
そのころからだ、父が絶対に母を守ると決めたのは。
そして、母を蔑ろにする存在をぜったいに許さなくなった……とくに長兄を。
わたしは、そんな気まずくなった家で、一人娘として一人気まずい思いをしていた。
ある時、耐えられなくなって家を出た……
父は、依然として母を守ると決めていた。
その父を、いつかは泣いて父の浮気を責めた母が支えるようになった。
父の画業とは、そんな父の人生の紆余曲折をそのまま表したものだったのである。
父はたしかにアマチュアの画家だったが、芸術がなんであるのかは分かっていた。
それを父は生来の考えとして知っていたのか? そうではない。
本を読み、絵の先生に教えられ、論理として考えて、培っていったのである。
その傍らに母がいた。母が亡くなったとき……父は泣いた。子供のように。そして、「俺は、今でも母さんが死んだとは思っていない」と言う。
わたしはまた父に絵を描くことを勧める。
しかし、そのときにわたしが母のように父を助けられるのかどうかは分からない。
父の老いも感じられます。




