16話 過去の痛みと呪い
◇◇◇
その夜、町は血と炎の匂いに包まれていた。
私がまだ十二歳の頃、今から六十八年前の話だ。
当時、周辺のいくつかの町や村を巻き込む、大規模な魔物の襲撃が発生した。
現れたのは、ただの魔物ではない。
漆黒の鎧を身に纏い、失った頭を探すかのように彷徨う伝説の化け物――首無し騎士だった。
奴が率いる魔物の軍勢により、平和だった町の防衛線は一瞬で崩壊した。
すぐさま腕利きの冒険者や騎士たちによる討伐隊が編成され、次々と戦場へ送り込まれた。
だが、奴の圧倒的な力の前には、あらゆる反撃はことごとくが潰されていった。
鋼鉄の装備だろうと紙のように引き裂かれ、強力な魔法も冷たい鎧の表面を掠めるだけで終わる。
討伐隊の骸が、街路へ無残に積み上がっていくまでに時間はかからなかった。
十二歳になり、大人として剣を握り始めたばかりの私もその渦中にいた。
戦場にいたというよりは、突然の災厄に巻き込まれただけに過ぎない。
つい先ほどまで、私と八歳になる年の離れた妹のミーナは、この町でいつも通りの平凡で穏やかな日常を過ごしていたはずだった。
それが一瞬にして奪われ、私の目的はとにかくミーナを連れてこの混乱から一刻も早く安全な場所へ逃げ延びること、それだけになった。
ミーナの小さな手を強く握り締め、私は崩れ落ちる建物の隙間を縫うようにして走った。
背後からは、人間の肉が断たれる嫌な音と、逃げ惑う人々の悲鳴が止まらない。
私がもっと強ければ、この状況を打破できたのかもしれない。
だが当時の私は、大人たちの真似事をして鉄の剣を振り回すだけの、未熟なガキだった。
己の無力さに歯噛みしながらも、私はとにかく足を動かし続けた。
やがて、討伐隊による最後の激しい攻勢が始まった。
生き残った騎士たちが退路を断つ覚悟で、首無し騎士へと決死の突撃を仕掛けたのだ。
戦況が最も激しく激突した、まさにその瞬間だった。
――パキン、と。
氷がひび割れるような、奇妙に澄んだ音が夜の戦場に響き渡った。
その直後に私の目の前に奇妙な違和感が現れた。
景色がほんのわずかに歪んでいる。
走っていた私は、何もないはずの空間に激しく身体をぶつけて、その場に転倒した。
「……つっ!? なんだ、これは」
痛む額を押さえながら立ち上がり、目の前の空間に手を伸ばす。
そこには、冷たくて頑強なガラスのような感触があった。
いくら目を凝らしても、そこには何も見えない。
だが、確かにそこには、天高く向かって伸びる透明な壁が存在していた。
その目に見えない障壁が突如として戦場に現れ、すべてを真二つに分断してしまったのだ。
激しく戦っていた騎士たちも、突然行く手を阻む見えない障壁に困惑して剣を叩きつけている。
だが、その理不尽な分断は戦っている者たちだけを切り離したわけではなかった。
「お兄ちゃん?」
透明な壁の向こう側から、小さくて震える声が聞こえた。
心臓が、ドクリと跳ね上がる。
私が転倒した拍子に、握っていたはずの手が離れてしまっていた。
歪む景色のわずか数歩しか離れない場所に、ミーナがぽつんと取り残されていた。
「ミーナ! 動くな、今そっちへ行く!」
私は叫びながら、見えない壁に向かって体当たりを敢行した。
硬質な衝撃が身体をひどく打ちつけるだけで、壁は微動だにしない。
ミーナが涙をボロボロと流しながら、小さな両手で壁を叩いていた。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん、手ぇ繋いでよ! 真っ暗で怖いよ!」
バン、バン、と叩く音が、壁越しに私の耳へと届く。
すぐそこに妹の顔が見える。
手を伸ばせば、今すぐにでもその小さな身体を抱きしめられる距離にいる。
なのに、触れることができない。
この透明な壁は、私たちの間に立ちはだかる絶対的な絶望そのものだった。
「待ってろ、こんな壁すぐに壊してやるからな!」
私は腰の剣を引き抜き、渾身の力で壁へと斬りつけた。
金属同士が激突したような火花が、暗闇に飛び散る。
だが、一撃は虚しく弾かれ、刃はボロボロに形を崩した。
衝撃で両腕が麻痺して、骨を軋ませる激痛が走る。
それでも私は狂ったように剣を振るい続けた。
刃が折れても、柄を叩きつけた。
柄を捨て拳で殴りつけて血が流れ出しても、見えない壁を殴り続けた。
向こう側ではミーナがボロボロになった私の手を見て、さらに大粒の涙を流している。
「お兄ちゃん、もうやめて! もう分かったから……血が出て、痛そうだよ」
自分の恐怖よりも、私の身体を気遣うミーナの叫びが壁に遮られて微かに響く。
その声が不自然なほどぴたりと止まった。
ミーナが大きく目を見開いて硬直する。
彼女の瞳から涙以外のすべての生気が失われていくのが分かった。
ミーナの背後、崩れた建物の影からゆっくりと何かが這い出てきた。
闇に溶けるような、漆黒の鎧。
血の汚れた、漆黒の鎧を纏う巨体。
馬を駆ることもなく静かに歩み寄ってくるその姿は、紛れもない首無し騎士だった。
そして右手には、禍々しい輝きを飲む込むような漆黒の大剣が握られていた。
「いやだ……やめろ……やめてくれっ!!」
私は喉が千切れるほどの悲鳴を上げ、再び壁を殴りつけた。
だが、壁は私の絶望など嘲笑うかのように、冷たくそこに存在し続ける。
首無し騎士は、怯えて動けなくなったミーナの背後に音もなく立ちふさがった。
巨大な死神のような影が、小さな少女の身体を完全に覆い隠す。
奴はゆっくりと本当に恐ろしいほど緩慢な動きで、漆黒の大剣を天へと振り上げた。
時間をかけて、私にその光景を見せつけるかのように。
「お兄ちゃ、」
ミーナが最後に私の顔を見て、何かを言おうとした。
その瞬間、漆黒の大剣の刃が、彼女の細い首へと真横から滑り込んだ。
ゴリッという肉と骨が削れる鈍い音が響く。
それは一瞬の切断ではなかった。
奴はあえて力を込め、じわじわと拷問のように時間をかけてミーナの首を切り落としていった。
刃が肉に食い込み血が噴き出す光景が、透明な壁の向こうで鮮明に映し出される。
ミーナの顔が苦痛に歪み、小さな唇が声にならない私の名前を形作っていた。
網膜にその地獄が焼き付いていく。
叫びすぎて声は枯れ視界は涙と血で真っ赤に染まっていた。
何もできない。
すぐ目の前にいるのに、私の手は壁に阻まれて虚しく空間を引っ掻くだけだ。
やがて、ミーナの小さな頭部が身体から完全に離れ、地面へと転がった。
だが、地獄はそこでは終わらなかった。
首を失い、ドサリと崩れ落ちたミーナの身体。
首無し騎士は、その仰向けになった胴体へと、容赦なく漆黒の大剣を突き刺した。
その瞬間、ミーナの身体が、どす黒い霧となって崩れ始めた。
骨も、肉も、衣服も、すべてが不気味な黒い霧へと形を変えていく。
霧は意思を持つ生き物のように、首無し騎士の鎧の隙間へと吸い込まれていった。
奴はミーナの存在そのものを、自らの魔力として塵一つ残さずに吸収したのだ。
ただ殺すだけでなく、死体すら残さずに奪い去る。
あまりにも残酷なやり方で、奴は私の目の前で妹のすべてを消し去った。
あとに残されたのは、血溜まりの中に転がるミーナの首だけだった。
「ハーッハッハッハ!!」
首無し騎士が、顔も口もないソレは天を仰いで大笑いした。
地響きのような、脳をかきむしるような、魔力の共振が起こすおぞましい笑い声。
その音が戦場に響き渡ると同時に、奴の巨体は黒い霧に包まれ、掻き消えるように姿を消した。
あの透明な壁も、まるで最初から存在しなかったかのように跡形もなく消滅した。
静寂が戻った戦場に、十二歳の私だけが取り残された。
私は傷だらけの身体で這いつくばり、血の海へと進んだ。
冷たくなっていくミーナの頭部を、両手でそっと抱き上げる。
まだ少しだけ温かさの残る頬に自分の顔を寄せ、獣のような声を上げて泣き続けた。
あの不気味な笑い声が、耳の奥からいつまでも消えなかった。
「殺す……絶対に殺す……どこへ逃げようと、地獄の果てまで追い詰めて、お前を八つ裂きにしてやる!」
涙は枯れ、心の底から湧き上がってきたのは、世界を焼き尽くすほどの黒い憎悪だった。
あの化け物をこの手で細切れにするまで、私は死ぬわけにはいかない。
たとえ、何十年という歳月が流れようとも。
その夜から、私の人生のすべてはヤツを倒すために『剣』へと捧げられた。
己の未熟さを呪い、一分の狂いもない完璧な剣術を求めて泥水を啜るような修練を重ねた。
寝る間も惜しみ、ただ怪物を殺すためだけに刃を研ぎ続けた。
やがて私は、さらなる強者を求めてあくなき挑戦を始めた。
立ちふさがる名高き剣士たちに挑み、そのすべてを打ち破った。
そうして続いた死闘の果てに、いつからか『剣聖』と称えられていた。
だが、どれほど腕を磨いて無敵の強さを誇ろうとも、あの夜に立ちふさがった壁を壊すことはできない。
ミーナの最後の泣き顔は、私の心の奥底に刺さったまま決して消えなかった。
復讐の相手は見つからず、ただ時間だけが無情に過ぎ去っていった。
長い歳月が復讐を鈍らせないように、胸の奥に秘めたまま見つけるまでは触れないように生きてきた。
肉体は衰え皺が増え、八十歳という老境を迎えてもなお、私の魂はあの十二歳の夜の殺戮場に囚われたままだった。




