28話 ワシは魔王と戦う⑤
凍りついていた世界の時間が、再び一気に動き出した。
その瞬間、玉座の間に響き渡ったのは物理法則を置き去りにした破壊の連鎖音だった。
ワシに向かって津波のように殺到していた無数の眷属たち。
群がる眷属どもはワシに触れることすら叶わず、内側から弾け飛ぶように次々と破裂し黒い塵へと変わっていく。
肉を断つ手応えすら置き去りにするほど、ワシの動きは世界の時間を完全に追い越していたのだ。
「な、何だ!? 一体、何が起きたというのだ!」
移動した後のワシの動きを辛うじて認識できた魔王が、理解不能な事態に絶叫した。
奴からすれば一瞬だけ陽炎のように揺らいだ次の瞬間には軍勢が全滅し、あろうことか自分の目と鼻の先にワシが立っていたのだ。当然の反応だろう。
「急に何を突っ立っている! 死ねいっ!」
魔王は腕を力任せに振り払い、眼前のワシを叩き潰そうと鋭い爪の生えた斬撃で豪快に振り下ろそうとしてきた。
だが、その腕がワシに届くことは未来永劫あり得ない。
ズルリ、と。
何の抵抗もなく魔王の右腕が先端から「スライス」されるように、等間隔の切り身となって床に落ちていった。
切り口からは、吸血鬼特有の禍々しい魔力が噴き出すこともなく、ただ乾燥した粘土のようにボロボロと崩れ落ちていく。
「腕が……私の腕が、どういうことだ!?」
ルーファスは悲鳴を上げながら後退し、即座に失った腕を再生させようと魔力を凝縮させた。
魔王を自称する吸血鬼だ。腕の一本や二本、呼吸をするよりも容易く元通りにするはずだった。
しかし、異変はそこから始まった。
「再生ができない……だと!? 馬鹿な、私の魔力が……傷口を塞ぐことができん!」
焦燥と驚愕が、初めて魔王の顔を支配した。
切り落とされた断面には、再生を促す赤い光が灯るどころか、どす黒い腐敗のような色が広がっていた。
ワシはその無様な様子を冷めた目で見つめ一歩前へと前進する。
「あまり動かないほうがいいぞ。これ以上の無駄な足掻きは、消えゆくまでの苦しみを長引かせるだけだ。……言い残すことはあるか?」
ワシの声は我ながら自分でも驚くほど冷淡に響いた。
だが、その憐れみすら含まぬ言葉が『魔王』としての誇りを激しく逆撫でしたらしい。
「私を誰だと思っている! 夜を支配し、人間どもを支配した王だぞ! こんな古臭い剣の一振りに屈するなどあってはならんのだ!」
激高した魔王は残された左腕を鞭のようにしならせ、ワシの首を強引に刈り取ろうと振り回した。
だが、結果は同じだ。
伸ばしたそばから左腕も精巧な細工物のようにスライドしながらバラバラになり、床に落ちては砂のように消えていく。
「馬鹿な……! 再生できないなどあり得ん! 聖水を、日光を、あらゆる退魔を克服したこの私がこんな出来の悪い剣ごときに敗れるというのか!」
魔王は、失われた両腕の断面を見つめ、ガタガタと震え始めた。
吸血鬼の再生力を封じるには、本来強力な退魔の力あるいは神の祝福を受けた聖遺物級の武器が必要だ。
だが、ワシが持っているのは光すら反射しない漆黒の刃。
「小僧の余裕はその剣か? それは……一体何だというのだ!」
魔王は、ワシの手にある黒剣を信じられないものを見るような目で見つめ、その正体を悟ったように声を震わせた。
「聖水の浄化に似た忌々しい波動……いや、それだけではない。ミスリルが持つ魔を撥ね退ける輝きの力と、あの忌々しい日の光の力が黒い刀身に!? 退魔の剣だとでもいうのか!? ただの小僧が何故その剣を!」
魔王は、自らが飲み込もうとした獲物が吸血鬼にとっての「猛毒」そのものを握っていたことにようやく気づいたのだ。奴の言う通り黒剣から溢れ出す『力』は、完全に奴らの不死性を根底から否定する退魔の力を帯びていた。
だが、気づいたところで既に手遅れだ。
魔王の足元から、さらさらと音がし始めた。
彼の肉体そのものがまるで砂時計のように、足首から少しずつ崩れて砂となって消えていく。
時間は完全に止まっていたわけではない。
あまりにワシの集中と黒剣の調和が極限に達していたため、極めてゆっくりと時間が流れていたに過ぎなかった。
だが、その僅かな時間の隙間にワシは奴の全身を一万回を細胞の一つ一つに至るまで、退魔の力を宿した黒剣の漆黒の刃を力を込めて斬り刻んでいたのだ。
崩壊は止まらない。
膝、腰、胸、そして肩。
魔王の誇っていた異形は、ただの崩れゆく砂の山と化していく。
最後には床に転がる首から上だけの絶望に歪んだ顔だけが残された。
「……もう一度聞く。言い残すことはあるか?」
ワシは床に転がる魔王の顔の前に立ち、再度同じ問いを投げかけた。
先ほどまでの不遜な態度は、もはや微塵も残っていない。
そこにあるのは死への恐怖に震える、ただの憐れな化け物の成れの果てだ。
「お前の誤算は、ただの小僧が魔王の攻撃を受け流した時点でおかしいと気付けなかったこと」
ワシは短く息を吐き出し体内に『気』を巡らせて乱れた呼吸を整える。
かつて将軍だった頃の肉体なら、気を練るだけでこの程度の疲労など一瞬で回復できたはずだ。
だが、今ではあまりの激しい消耗に体力の回復が全く追いついていない。
肺に無理やり酸素を送り込み悲鳴を上げる身体を強引に繋ぎ止めて、ワシは静かに言葉を続けた。
「もうひとつは、人間を侮辱したことだ」
必死に命乞いをする様子もなく、呆然としている姿にもはや魔王たる威厳もプライドもなかった。
言葉を発する様子も見えなかったので、無言のまま黒剣を持ち上げた。
ワシは抜き身のままの黒剣を、ストンと奴の眉間に突き刺した。
「ま……」
ルーファスの表情が、驚愕と絶望に染まったままカチリと石のように固まった。
「すまんな。お前の声は醜くて聞いてられん。貴様の口から語られる言葉など、塵ほどの価値もない」
ワシがそう告げると同時に魔王の残滓であったその顔も内側から光を失い、微かな風に吹かれるようにさらさらと崩れ去った。
広大な玉座の間に、魔王の存在を示すものは何一つとして残らなかった。
静寂が、戻った。
先ほどまでこの世の終わりを予感させるような轟音と異臭は、今や嘘のように消え去っている。
広大な玉座の間に漂うのは、ただの古い石材が放つ乾燥した匂いと戦いの余韻としての冷たい空気だけだ。
ワシは大きく深く、肺の奥まで酸素を詰め込み息を吐いた。
床に刺さったままの鞘を引き抜き、黒剣を鞘に納めた。
その瞬間、全身を鉄槌で殴られたような凄まじい疲労感が襲った。
「ぐっ。やはり、あれだけの斬撃を打ち込んだせいか」
ワシは膝を折りそうになるのを堪え、杖代わりにして黒剣を突き激しい眩暈に耐えた。
視界がぐらりと揺れる。
戦いが終わってみれば、その反動は想像以上に重くのしかかってくる。
血液に熱い鉄を流し込まれたように熱を持った指先は、自分の意志を忘れたかのように小刻みに震えている。
「たかがこれしきで、このザマか」
自らを嘲笑いながらも心は不思議なほど晴れやかだった。
レリアを侮辱し、ワシの大切な記憶を汚した魔王はこの世から消えた。
ワシの手に残ったのは、数千年の時を越えワシの怒りに応えて初めて鞘を離れてくれた黒剣だけだ。
手にした黒剣の光すら吸い込みそうな漆黒の刃を改めて見つめた。
鞘から開放されたこの刃は魔王を滅ぼしたにもかかわらず血の一滴、塵の一粒すら付着していなかった。
それどころか鞘から抜けた瞬間の恐ろしいまでの退魔の力は既に沈静化し、今は冷たい鉄の棒のような静けさを取り戻している。
(ダルダンは『頑丈だから』とワシに押し付けてきたが……とんでもない代物だったというわけだ)
魔王が最後に叫んだ言葉を思い出す。
聖水、ミスリルの退魔の力、そして太陽の力。
それらを一つの刃に凝縮したような吸血鬼にとっての天敵ともいえる黒剣。
なぜ、これまでのワシには抜けず、あの怒りの中でだけ抜けたのか。
詳しい理由は分からん。だが、この剣はワシを選んだ。
ワシ自身の何かがようやくこの剣に認められたと思っていいのだろうか。
崩壊した玉座を背にワシは入り口へと歩き出した。
玉座の間を彩っていた偽りの新しい装飾は、主を失ったことで急速に剥がれ落ちている。
壁はひび割れ豪華な緞帳は灰となって崩れていく。
城全体が数千年の時間を一気に取り戻すかのように、急速に朽ち果てるように砂となって消えていく。
廊下を進む。
窓から差し込み始めたのは、魔王が最後まで忌み嫌っていたであろう本物の朝の光だった。
黄金色の光が埃の舞う廊下を照らし出す。
その光に触れるたびにワシの重かった足取りが僅かに軽くなるような気がした。
「……さて、戻るとするか」
来た道を帰りながらワシは体内に意識を向け、丹田から練り上げた『気』を全身へゆっくりと巡らせた。
無茶な戦いをしても、無意識のうちに勝手に回復していた肉体が恋しい。
規格外の回復力が『気』と呼ばれるものだと明確に理解したのは、皮肉にもあの神との死闘の最中だったがな。
しかし、この未熟な身体ではそうはいかん。
自動的な回復力はひどく弱く、放っておけば過労でそのまま倒れていただろう。
だから今はこうして、意識的に気を練り悲鳴を上げる筋肉や骨の隅々へと強引に流し込んで回復を促しているのだ。
さすがに前のようにはいかず、即座に全快とはならない。
それでも『気』を回し続けることで底をつきかけていた体力が徐々にだが、確実に回復されていく感覚があった。
忌々しい蝙蝠に案内されたどす黒い霧の獣道は、魔王の消滅とともに完全に晴れ渡っていた。
今はただの静かな山の木立だ。
道中、ワシが残してきた『殺気』の余韻のおかげで、魔物はおろか獣一匹近寄った気配すらない。
山頂へ向かって獣道を登っていくにつれ、木々の隙間から本物の朝の光が差し込み始めていた。
歩を進めるごとに気の循環が身体に馴染み、鉛のように重かった足取りが僅かに軽くなっていく。
やがて、見覚えのある大樹のシルエットが朝陽の中に浮かび上がった。
大樹の根元に背を預けたレリアは、まだ安らかな寝顔のままだろうか。
それとも既に目を覚まして、ワシの姿がないことに気づいて泣きべそでもかいている頃かもしれないな。
ワシは思わず小さく鼻で笑うと杖代わりに突いていた黒剣を軽く持ち上げ、大樹へ向かって静かに歩みを進めた。




