26話 ワシは魔王と戦う③
暗い。そして、気が遠くなるほどに重苦しい。
魔王ルーファスの肉体に取り込まれたワシを包んでいたのは、単なる物理的な泥の圧力ではなかった。
それは取り込んだ獲物の意識を内側から腐らせる精神の根源、守るべき聖域である記憶までを暴き立てるおぞましい侵食だった。
(他人の記憶を覗き見してまで、随分と安い小芝居をしてくれる。魔王の名が泣くぞ。そんな無意味なことをして、何がしたい?)
意識が混濁して境界が溶け落ちていく感覚の中で、ワシは一つの情景を思い出していた。
それは、今の弱々しい子供の身体ではない。
鋼のように硬く幾多の返り血で磨き上げられた、逞しい男の肉体。
若き日のワシがただ明日を生きるためだけに地べたを這いずり回っていた、傭兵時代の記憶だ。
◇◇
当時のワシは、今のような洗練された『気』の練り方も理にかなった剣技も知らなかった。
ただ、生まれ持った頑強な肉体と敵を叩き潰すための力任せな剛剣だけがワシの唯一の財産だった。
戦場は常に泥と血と死臭にまみれていた。
金のために人を斬り、食うために死体から装備を剥ぐ。
そんな荒んだ日々の中、ワシは一人の男と出会う。
それが当時この近辺で名を馳せていた傭兵団の団長ダルダンだった。
ダルダンは戦場を力任せに暴れ回るワシの戦いぶりを離れた場所からじっと眺めていた。
ワシの戦い方は一見すれば単なる素人の力押しに見えただろう。
しかし、ダルダンはその奥にある本質を見抜いていた。
力任せの割には相手の術中に絡め取られることもなく、絶妙なタイミングで攻撃を弾き返し決して後手に回らない。その天性の戦いの上手さに興味を持った彼は戦いが終わった後、ワシの前に立ちはだかった。
「おい、小僧。その剣筋、悪くないが少しばかり独りよがりだ。俺のところで、もう少しマシな『生き残り方』を学んでみる気はないか?」
それが、ワシの傭兵団時代の始まりだった。
入団後の傭兵団はワシという『盾も矛も兼ね備えたバカげた戦力』を得たことで、さらに勢いを増していった。ダルダンが考案した戦術は単純明快。ワシが先陣を切って敵陣の真っ只中に突っ込み、その破壊的な剛腕で陣形をぶち壊す。そして、生まれたわずかな綻びに他の団員たちが雪崩れ込んで一気に制圧する。
この『重戦車シド』を起点とした突撃はどこの戦場でも面白いようにハマった。
「おいシド! 突っ込みすぎだと言ってるだろうが! 少しは後ろの歩調に合わせろ!」
「そんなこと言ってられるか! ついてこられない奴が置いていかれるだけだ!」
戦場ではいつも怒鳴り合いが響いていた。だが、どれほど口汚く罵り合おうともその連携は強固だった。
ワシが道をこじ開け仲間が背中を守りやがてワシを追い越していく。
そんな不格好で泥臭い繋がりが、不思議とワシに確かな居場所を与えていたのだ。
そして、剣の振り方以上にワシが徹底的に叩き込まれたのは、戦場における生き残るための食の知識だった。
ある日、少し傷み始めた干し肉をワシが捨てようとした時、古参の団員に思い切り頭を引っぱたかれた。
「馬鹿野郎! いいか、戦の最中ってのはアドレナリンが全開だ。腹の虫が鳴くくらいの方が感覚が研ぎ澄まされて、刃のキレも増すんだ。だがな、戦い終わった後に『食うもんがねえ』ってのは死に直結するんだよ! 連戦が続いて身体の芯からガス欠を起こした瞬間に、死神が背後から肩を叩く。ちょっと臭うくらいなら火を通せ。胃袋に詰め込める時に詰め込んで、次の地獄に備えるのが傭兵の基本だ!」
食べられる野草と毒草の見分け方。泥水を布と砂で濾過して飲み水に変える方法。
倒れた馬の肉をどう保存して、どう塩漬けにするか。
「いいかシド。戦場で最後まで立っているのは、剣が強い奴じゃない。何でも胃袋にぶち込んで最後まで泥水を啜ってでも立ち続けていた、内臓の強い奴だ」
彼らから教わった泥臭い知識はワシの血となり肉となり、後の将軍としての基盤を作り上げた。
依頼と依頼の合間に野営の焚き火を囲む時間だけが、血の匂いを忘れられる瞬間だった。
粗悪なエールを回し飲みしながら団員たちは故郷に帰る夢や、くだらない自慢話を語り合う。
ワシはただ黙ってその騒がしい熱気の中で手入れの終わった剣を眺めていた。
そんな時、隣で肉を食らっていた古参の男がワシの持っているボロボロの剣を見て呆れたように溜息をついた。
「おいシド! お前は一回の戦で何個武器を壊せば気が済むんだ! 今回の戦だけで三本目だぞ? 相変わらずバカ力で武器を振り回しやがってよ。支給品の剣がお前の力に耐えられなくて悲鳴を上げてるじゃねえか」
「オレの振りに耐えられない武器が悪い。もっと頑丈な物を用意してくれ」
「言うねえ! だいたいお前は剣を叩きつけるように振り回しやがって、それじゃ鉄の塊を叩きつけてるのと変わらねえだろうが。普通の鍛冶屋が泣くぞ」
仲間たちのそんな呆れ顔と笑い声。
騎士道など欠片もない地べたを這いずるような彼らの強かさが当時のワシには何よりも頼もしく、眩しく感じられたのだ。
だが、当時のワシは不器用だった。
ワシにとっての勝利とは、正面から力任せに敵を叩き潰すことだけを指していた。
そんな戦いのこだわりを打ち砕いたのも、またこの傭兵団の面々だった。
ある激戦の中でワシが敵の腕利きと対峙して仕留めるのに手間取っていた時のことだ。
名誉ある一対一の決闘を望んでいたワシの横合いから古参の団員たちが一斉に泥を投げつけ、隙を突いて足をすくうと袋叩きにしてしまったのだ。
騎士道など欠片もない戦法に呆気にとられるワシの背中を、ダルダンは豪快に笑いながらバンと叩いた。
「シド、勘違いするなよ。一対一で敵わなきゃ、数で挑めばいい。数で敵わなきゃ、罠に嵌めちまえばいい! 格好なんか気にするな。勝ちゃあいいんだよ、戦いなんてのはな! 生きて笑った奴が正解なんだよ!」
名誉など腹の足しにもならん。何が何でも生き残り最後には仲間と笑い合う。
その勝利の流儀は生存戦略としてワシの魂に完成した。
そんな傭兵団での日々も、終わりを迎える時が来る。
ワシはもっと大きな国家同士がぶつかり合うような巨大な戦場を求めた。
もっと様々な戦いを見てもっと強者と戦わなければワシの渇きは癒えない。
退団を申し出たワシにダルダンは寂しげな表情をすることもなく、誇らしげに頷くと最後にあるものを差し出した。
「どうせお前のことだ。その辺の安物の武器じゃ、お前の力に耐えきれずにすぐ壊しちまうだろう。だったら、これを持っていけ。……どこかの遺跡で見つけた代物だ。鞘から抜けない、研ぐこともできないただの鉄の棒だ。だが、何か知らんが異様に頑丈なことだけは確かだ。お前にはお似合いだろ」
それが、今もワシの手にあるこの『黒剣』との出会いだった。
ワシは受け取った黒剣を抜こうと全力で力を込めたが、確かにビクともしない。
試しに拳でおもいきりぶん殴ってみたが、粗悪品なら粉々になるはずの衝撃を受けても黒剣は冷たく静かにそこに在り続けた。
「抜けない剣など、ただの鈍器ではないか。だが、これほど頑丈ならワシの力任せの打撃にも耐えられるか。ならば、その期待に応えるまで!」
退団の儀式として、ダルダンはワシに模擬戦を申し出た。
ワシの手には鞘から抜けない練習用ともいえる鈍い黒剣。
対するダルダンは、彼が長年愛用してきた愛剣。
「合格点をやらなきゃ、送り出すわけにはいかないからな!」
そこからは模擬戦という名目を超えた魂の削り合いだった。
ダルダンの剣技はワシの力押しを巧みに受け流し、死角から鋭い一撃を繰り出してくる。
だが、ワシはそれを正面から鉄の棒で叩き潰すことで強引に突破した。
壮絶な打ち合いの末、ワシは最後まで力押しを貫きダルダンの卓越した技を跳ね除けて力で押し切った。
全力を出し切り、肩を上下させて息を切らすダルダン。
彼はしばらく俯いていたが、やがて誇らしげに言った。
「……合格だ。どこにでも、好きなところへ行ってこい!」
ワシは無言で頷き、背を向けて歩き出した。
それがワシの記憶にあったなつかしい過去の幕切れ。
まるで、過去を再体験するかのように違わず同じ動きだった。
ダルダンに打ち勝ったときの寂しさも、後ろ髪引かれる思いも同時に込み上げてくる。
あの頃に戻ったかのような気分だった。
夢には終わりがあるように、ワシにはこれから進むべき道がある。
だが、その懐かしい記憶を汚すかのように、背後の気配が不気味に歪んだ。
笑っていたダルダンの口元から鋭い牙が伸び、瞳が真っ赤な魔光に染まる。
「お前もこれで同族だ!! 私の中で永遠の泥に埋もれていろ、シド!」
背後から音もなく噛み付いてくるダルダン。
だが、彼の牙が食い込んだのはワシの首筋ではなく、咄嗟に背後に回した黒剣の鞘だった。
ワシの脳内に冷え切った底知れぬ怒りが満ちていく。
もう、全て分かっていた。これは記憶ではない。
ルーファスがワシの意識を攪乱し、心を折るために仕掛けた極めて悪趣味な幻術だ。
「それがお前のやり方か、魔王!!」
ワシは叫んだ。
心の奥深くにしまっておいた大切な思い出を、汚物のような幻術で汚された不快感。
ワシは黒剣を掴んだまま静かに練り上げ続けていた『気』を爆発させると同時に、力いっぱい横薙ぎに振り抜いた。
気を纏い全てを破壊するかのような圧倒的な力による絶大な一撃。
ダルダンの幻影は木っ端微塵に砕け散り、ワシを包んでいた過去の世界がガラスが割れるように激しく崩れ去った。




